2-2①
「お姉ちゃんっ、乗らないの?」
幌馬車の布の隙間から覗くのは、先程プラムをくれた子供だ。母親に窘められるが、首を傾げてエリシュカを見つめる。
「今行くわっ」
エリシュカは肩から掛けた革鞄の紐をぎゅっと握りしめ、力強く足を踏み出した。
幌馬車の男に手を借り、エリシュカはスカートを翻して荷台に乗り込む。鶏が羽をばたつかせて、獣の匂いと埃が舞い上がった。御者台のすぐ後ろに腰掛け、見送るラディムに大きく手を振る。
「おじさん、ありがとうっ!」
「ああ、達者でな」
丸帽子を被り直したラディムが、馬車の横にしゃがみこんだ。硬い馬車の床からゴツゴツと振動が響き、エリシュカの胸がざわつきを増す。乗客を見回すと、一度目と同じかどうかも記憶にない。一人ひとりの顔までは覚えておらず、けれどなんとなくいたような気がするという程度だ。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
子供が不思議そうにエリシュカを見上げる。エリシュカは固くなった頬に笑みを浮かべ、「なんでもないわ」と答えた。
「僕はね、ホンザ」
「ホンザ、さっきはプラムをありがとう」
「うんっ。もっと食べる?」
「こら、ホンザっ」
窘めようとする母親に、エリシュカは笑みを浮かべた。
「もうお腹は空いてないから大丈夫よ、ありがとう」
「どういたしましてっ」
得意気に鼻の下を掻くホンザに、エリシュカはくすりと声を立てた。
そのまましばらくの間、ホンザがこれから訪ねる祖母の話を聞いていた。明るく話す様に、盗賊のことを忘れてしまいそうだ。
「ねえ、お姉ちゃんっ」
ホンザが弾む声でエリシュカに話しかけたそのとき、馬のいななきが響き渡る。
エリシュカの心臓がどくりと跳ね上がり、さっと体温が下がる。やはりあの盗賊たちが来たのだろうか。周囲からは複数の馬の足音が近づいており、馬車はギシギシと音を立てて停車した。
「母さん、馬車がとまったよ?」
「しっ、ホンザ。静かにしていなさい」
緊張の面持ちで馬車の後方に移動するのは、商人の二人の護衛だ。
「おい、あんたたちは大人しくここに乗ってるんだ。何があっても騒がず、逃げたり逆らったりするなよ」
エリシュカは唇を噛み締め、外の様子を窺った。少しの時間も稼げなかった。このままだと商人たちは殺されてしまう。かと言って、今からどうにかできそうにもない。
護衛の二人がスラリと腰の剣を抜く。表面が陽の光に照らされたかと思うと、押し開いた後部の布の間から地面に降り立った。ジャリッと音を響かせたあと、二つの足音が去っていく。男たちの叫び声が響き、エリシュカはキョロキョロと辺りを見回した。
「なんだっ! 一体何が起きてるんだ?」
「ねえ、まさか盗賊じゃないでしょうね」
「おいっ、どうなってるんだっ」
乗客たちが騒ぎ始めるやいなや、商人が御者台から飛び降りた。エリシュカは引き止める事もできず、拳を握りしめたままその姿を見送る。やがてガチンガチンと金属のぶつかり合う音が響き、「くそっ」と小さく呟いた御者も走り去った。
「母さん、怖いよっ」
「ホンザ、ホンザっ」
母子が身を寄せ合い、乗客たちも一塊になる。固唾を呑んで様子を窺っていると、外から男たちの声が近づいてきた。
「よーし、中のもんを確かめるぞ」
「へへへっ。俺が見つけたもんはおれが貰うぜっ」
「おい待て、俺が先だっ」
幌馬車の布が大きく開かれ、光の中に黒い影が浮かぶ。皆が目を細める中で、エリシュカだけがじっとその影を見つめた。
「おいっ、女が乗ってるぜ」
「チッ、男は鶏しか持ってねーよ」
「まあいい。とにかく全員降ろせ」
やはり今度も馬車を見にきたのは五人だ。残りは外にいるのだろう。
馬車を降ろされた乗客は一箇所に集められ、傷だらけの男たちが値踏みするように見回した。
「おい、女と荷物だけ乗せて、後は始末しろ。ああ、婆さんは乗せるなよ」
エリシュカは目立たぬように背を丸め、視線を落として地面を見つめた。ざりざりと靴音が近づき、背筋にすっと汗が流れる。ついにエリシュカの目の前でそのつま先が止まり、ごくりと喉を鳴らしたそのとき。
「母さんにさわるなっ!」
ホンザの声に顔を上げた。母親に伸ばされた男の腕に、ホンザが必死にしがみついている。
「何だこのガキっ。お前もそこそこ値がつきそうだな。騒がなくても母親と一緒に連れていってやるさ」
男がホンザを引き剥がす。ホンザは地面に倒れ込むが、すぐに起き上がって男に向かっていく。
「ホンザっ! やめなさいっ」
母親の制止も聞かずに飛び出したホンザを、男が片手で掴んで投げ飛ばした。
「おい、調子に乗ると痛い目を見るってこと、教えてやらなきゃわからねえようだな」
男が指をバキバキと鳴らし、倒れ込んだホンザの方へ歩き出す。母親が止めようと手を伸ばすが届かない。
「やめてっ」
思わず飛び出したエリシュカは、ホンザの上に覆いかぶさった。
「どけっ、邪魔だ!」
マントを掴まれたエリシュカは、引きずられて横に倒れた。その拍子にフードが外れ、黒く汚れた顔が顕になる。
「ん? お前、汚れちゃいるが……随分上等な顔立ちじゃねえか」
両手を地面に着いたまま、エリシュカは男を睨みつけた。きっと四人が来るはずだ。そう思うが本当は怖くてたまらない。噛み締めた唇が小刻みに震え、気付いた男がニヤリと笑う。
「へへっ。大人しくしてりゃあ悪いようにはしねぇよ」
男がエリシュカに手を伸ばし、マントの胸元に掴みかかったその刹那――ヒュンヒュンと言う音と同時に男の肩に矢が刺さる。
「ちくしょうっ! 横取りかっ」
「おい、あっちだっ」
「くそっ、なんだあいつらは」
騒ぎ出した男たちの怒号に、エリシュカは小さく息を吐く。いつ彼らが来るのか、本当に現れるのか、正確なタイミングなどわからなかった。けれど、どうにか間に合ってくれた。
肩に矢の刺さった男は、顔を歪めて走り出した。向かった先には、やはり彼らだ。
馬上から弓を構えているのはマテスだ。向かってくる男たちの足元に、器用に矢を射る。矢の届かぬ場所で、オルダが馬から飛び降りた。力強く剣を振り下ろし、対峙した男は後退る。マテスの矢の合間に馬から滑り降りたのはカーヤだ。飛んでくる矢に誘導された男を、細い剣で上手くいなす。カーヤの後ろから迫る男を捌いているのはルカだ。オルダの様子をちらりと窺いながらも、カーヤの捌ききれない相手を器用に請け負っている。
しばらくの間打ち合っていたが、盗賊たちは地面に倒れてうめき声を上げる。オルダと剣を交えていたものは、皆意識がないようだ。どうやったのかまでは分からなかったが、剣で傷つけたわけではなさそうだ。
馬から降りたマテスが、オルダと二人で男たちを縄で縛りあげた。風が土埃を舞い上げ、エリシュカの鼻に鉄の匂いと生臭さを運んでくる。内蔵がきゅっと縮こまり、胃の奥から何かがせり上がりそうになる。
下を向いて堪えていると、ジャリジャリと足音が近づいてきた。
「怪我はないか?」
上等な革のブーツが目の前で止まり、視線を上げれば乗客たちを見回すルカがいた。全員の無事を確かめるようにして眺めた後、一つ頷き振り返る。
「マテスっ。都に戻って警備隊を呼んできてくれ」
既に馬上に戻っていたマテスが、ひららひらと手を振りながら馬の向きを変える。マテスの合図に鼻を鳴らした馬は、あっという間に走り出した。乗客たちがほっと息を吐いたところで、エリシュカの上に影がさす。
「ねえ、君。大丈夫?」
気遣うように声を掛けてきたのはカーヤだ。次の瞬間、ドスンと何かが背中にぶつかってきた。
「お姉ちゃんっ!」
思わず地面に両手をついたエリシュカを、カーヤが目を丸くして見下ろした。
「……ホンザ。びっくりしたわ」
振り返れば、その目いっぱいに涙を浮かべたホンザが膝をついている。
「お姉ちゃん、ごめんね。ありがとう」
瞬きした瞬間にほろほろと雫がこぼれ落ち、日に照らされた頬が幾筋もの光を反射した。
「ふふっ、ホンザが無事でよかったわ。でも、もうあんな無茶をしちゃ駄目よ」
「うぐっ。うんっ」
袖で目元をゴシゴシとこするホンザの後ろから、母親がホンザをぎゅっと抱きしめた。
「うちの子がすみませんでした。あの、ありがとうございました」
目を伏せた母親に、エリシュカの胸がチクリと痛む。
「いいえ、大したことは何も」
エリシュカは何も考えずにホンザを助けたわけではない。きっと四人が来る、そう思っていたからできたことだ。
「そんなことないよ。君、随分勇気があるね。命がけで誰かを守るなんて、そう簡単にできることじゃないから」
感心したように言ったカーヤの言葉に、エリシュカの胸はさらに痛みを増す。命を懸けるなんてそんな大それたことではない。エリシュカにはただわかっていただけなのだから。
「勇敢なお嬢様、私はカーヤ。これでも騎士なんだ。君の名前を聞いてもいいかな?」
一度口を開きかけたエリシュカは、なんと名乗るべきなのかを考える。彼らはエリシュカのことを知っているのではないだろうか。二度目の誕生日、魔女の末裔を保護するためにきたと言っていたのだから。偽名を使っても意味はないのだろうか。だからと言ってリシュカと呼ばれるのも、なんとなくの拒否感が芽生えた。
「私は……エリ」
「エリ、よろしくね」
「僕はルカだ。よろしく」
いつの間にかカーヤの後ろに立っていたルカが、しゃがみこんで口を開いた。
「本当に君は勇敢な人だね。だけど、マテスの弓が間に合わなかったら、大変なことになってた」
眉を寄せたルカが、少し咎めるような調子で言った。
「ええ、そうね。あなた達が来てくれて命拾いしたわ。ありがとう」
「いいや。荒事に慣れてないお嬢さんがどうしたらよかったかなんて、瞬時に判断できるものじゃないよ。ルカは君が心配だっただけだから、気にしないで」
肩を竦めたカーヤが、腰に下げた革袋を外してエリシュカに差し出す。
「さあ、飲んで。気丈に振る舞ってるけど本当は怖かったはずだ。一口呑むだけでも少しは落ち着くと思うから」
「ありがとう」
男にしては高く、女にしては低い声が耳の奥に柔らかく響く。かすかに震える指先に力を込めて、カーヤの差し出す革袋を受け取った。ごくりと一口飲み下すと、胸の奥をすっと冷たいものが流れていく。先程から鼻に付く鉄と生臭い匂いも、いくらか和らぐような気がした。




