2-1②
「もういいかしら?」
「ええ。もう大丈夫でしょう。ちょっと失礼しますぜ」
麻布を取り去ったエリシュカに、パヴェルが懐から出した壺の中の黒い物を塗りつける。目をつぶって大人しくしていると、パヴェルの手が止まった。
「これでいい。エリシュカ様は見るからに貴族だ。このくらい汚しとけばパッと見は誤魔化せるでしょう」
鼻に付く油の匂いが少し懐かしい。
「これは靴墨ね? パヴェル、ありがとう」
「いや、申し訳ねえ。庶民の服でもエリシュカ様は綺麗すぎて目立つんです。例え俺のズボンを履いて不格好だったとしてもね」
軽く片目を閉じたパヴェルに、エリシュカは立ち上がってくるりと回って見せる。
「不格好かしら? 私は結構気に入っていてよ」
「はははっ。そりゃいい。何かあったらスカートなんざ気にせず、思い切り走って逃げてくださいよ」
「ええ、そうするわ」
愉快そうに笑い声を立てながら、パヴェルが麻袋から古びたマントを取り出す。数回振って汚れを落とし、エリシュカの肩にそっと掛けた。
「さあ、これを被って。それから、靴墨も持っていくといい。取れちまったら塗り直してくだせえ。女の一人旅は危険ですから、くれぐれも目立たぬように」
「わかった。ありがとう、パヴェル」
エリシュカは神妙に頷き、両手で受け取った靴墨を革鞄にしまった。
「それじゃあ、俺の知り合いがやってる乗合馬車まで案内します」
エリシュカが首を縦に振ると、パヴェルはそのまま歩き出した。人々の喧騒の中、パヴェルの背を見失わぬよう追いかける。荒い石畳も、森の木の根に比べればまだ歩きやすいものだ。
「おお、パヴェルじゃねえか。どうしたんだ?」
「ああ、ちょっと訳ありでな。親戚のところにやるんだが、お前の姪ってことにして乗せてやってくれないか?」
馬車の横に立った男は、やはりラディムだ。パヴェルの後ろから顔を覗かせたエリシュカを上から下までジロジロと眺めた。
「こりゃまた……顔を汚しちゃいるが、随分綺麗な娘だな」
しばらく考え込んだラディムは、顎に手を置き眉を顰めた。
「こんなのを乗せたら面倒なことになりそうだ」
エリシュカはその様子を見上げ、くすりと小さく声を漏らした。
「ん? 何がおかしいんだ?」
訝しげなラディムに、エリシュカは満面の笑みを浮かべて「なんでもないわ」と答える。
「なんだか生きのいいお嬢ちゃんだな」
ちょっとの間考え込んだラディムは、一度小さく頷くと口を開いた。
「よし、いいだろう。俺の姪っ子ってことにして乗せてやろう。この借りは高くつくぜ、パヴェル?」
「お前、この間俺がカミさんに内緒で……」
「ああ、いや、そうだな。そうだっ、これで貸し借り無しだ!」
「内緒にしといてやるから、金は返せよ」
バツが悪そうに肩を竦めたラディムが、口をへの字にして頭を掻いた。エリシュカはくすくすと声を立て、パヴェルが腕を組んで口の端を上げる。
「次の町までよろしくな、えっと……俺の姪の名はなんだったかな」
「エリです。よろしく、ラディムおじさん」
ふっと表情を緩めたラディムが、ゴツゴツとした手を差し出した。分厚い手に引かれて御者台に乗り込む。
「パヴェル、ありがとう。本当に助かったわ」
「いいえ、私は何も知りませんよ。どうかご無事で……エリ様」
キャスケットを胸に当てたパヴェルは、笑みを浮かべて頷いた。すぐに被り直してラディムに目配せを送り、再びエリシュカに視線を合わせてから踵を返す。真っ直ぐ来た道を戻るパヴェルの背中に、不安そうな様子は見えなかった。
少しすると、荷台が客でいっぱいになる。前回と同じく母子や青年、壮年の夫婦と老夫婦などが乗ってきた。彼らの手にした鶏や薬草の匂いがエリシュカの鼻を掠める。
「こんにちはっ」
母親と乗ってきた少年が、エリシュカに笑いかけた。
「こんにちは。お母さんとおでかけ?」
「うんっ。あのね、おばあちゃんに会いにいくんだ」
「そう。楽しみね」
この子にも一度目に会っているのだろうか。他の客と話す余裕などなかったエリシュカには覚えがない。当然子供もエリシュカを知っているはずはない。
出発の時間を迎え、ラディムが馬に合図を送る。ゴトゴトと石畳の上を走る馬車は、やはり酷い振動だ。両手を横について身体を支えながら、カーヤに乗せてもらった馬上を思い出す。彼女がどれほどエリシュカを気遣い、支えていてくれたのか。今更ながらに思い知り、胸の奥が苦しくなる。
エリシュカが一度目の旅に思いを馳せているうちに、あっという間に門が迫ってきた。
「よう、ラディム」
「今日の門番はヴォイチェフか。ほら、通行証だ」
使い古された丸帽子を軽く上げてから、ラディムが紙の束を門番に掲げた。
「……お前の横に乗ってるのは?」
エリシュカは俯き加減でラディムを見上げ、ヴォイチェフの視線を遮るように身体をずらした。
「ジロジロ見るなって。俺の姪っ子は恥ずかしがり屋なんだ。ほら、見せもんじゃねーよ、もういいだろ?」
「随分酷い顔だな。後でちゃんと拭いてやれよ」
「ほっといてくれ」
ラディムの言葉に軽く肩を竦めたヴォイチェフは、顎を門の外へ向けて出発を促した。片手を挙げたラディムが馬に合図を送り、厚い石門の下へ馬車を進める。ガタゴトと車輪の音が鳴り響き、日差しのない通路の風が頬を撫でた。カツカツと響いていた蹄の音が、やがて砂を蹴る音に変わり、ぱっと降り注いだ日差しに目を細めた。
後ろを振り向くと、ヴォイチェフの姿はもう門のあちら側だ。手前には中に入る旅人の相手をする門番の姿があった。視界に入った荷台の客はそれぞれの荷物を抱え、和やかに話し込む者もいる。
「お姉ちゃん、これあげるっ」
先ほど話した子供が、エリシュカに向かって黒い粒を差し出した。
「ありがとう」
笑みを浮かべて受け取ったエリシュカは、口に含んでゆっくりと噛む。硬く干されたプラムの実から、強い酸味とほんのり甘みが滲み出す。ふと森で食べたブルーベリーを思い出し、かすかに息が漏れた。
「すっぱい? おいしくなかった?」
不安そうな表情で見上げてくる子供に、エリシュカはすぐに明るく笑いかけた。
「ううん、おいしいわ。ありがとう」
満面の笑みを浮かべた子供に、隣の母親が申し訳なさそうな表情で目を伏せた。エリシュカはもう一度母親にも礼を言い、口の中の固い実を何度も噛み締めた。喉の奥には、じわじわと染み出した汁が張り付くように流れてくる。ごくりと飲み下し周囲に視線を巡らせたところで、あの幌馬車が遠くに現れた。やはりこちらへ向かってくるのは、あの商人の馬車だ。もう少し走ればきっと――。
そう考えたところで荷台の鶏が騒ぎ出す。身構えたところでガタンと大きな音が響き、車体が傾いた。ラディムが慌てて馬車を止めると、エリシュカは御者台から飛び降りる。
「おいっ、無茶するな」
「ごめんなさい」
「あんたに何かあったら、俺はあの世に送られちまう」
頭を掻きながら御者台を降りたラディムに、エリシュカは肩を竦めて返す。ラディムはぶつぶつ言いながら車輪を覗き込み、すぐに舌打ちをした。
「チッ。参ったな」
ため息をつきながら乗客を振り返ったラディムが、きまり悪そうに声をあげた。
「すまんが車軸が壊れちまった。修理に暫く掛かるから全員降りてくれ」
乗客たちは文句を言う者、不安そうな表情を浮かべる者など様々だ。ラディムはエリシュカが側にいるのを確認して、車輪の修理に取り掛かった。
「まずったな、こりゃいつまでかかるかわからんぞ」
工具を片手に困ったようにつぶやくラディムに、エリシュカが声を掛けた。
「ラディムおじさん、あっちから幌馬車が来るわ」
「ん? ああ、本当だ。おーい!」
ラディムの声に、後ろからきた幌馬車がギシギシと音と立てて停まる。
「どうしたんだ?」
「車軸が歪んじまって参ったよ」
「そりゃあ難儀だな」
商人は幌馬車を覗くと荷物を寄せるように声を掛け、再びラディムに視線を戻した。
「よかったら乗客を乗せていこう。次の町に着いたら、あんたの馬車の助けも寄越すように伝えておくか?」
「いいのか? そりゃあ助かる」
「礼には及ばん。俺だって、いつ同じ目に合うかわからんからな」
乗客たちは、口々に礼を言いながら幌馬車に乗り込む。エリシュカは商人と御者を見比べて、意を決したように口を開いた。
「ねえ、少しだけここでおじさんを手伝ってから出発してくれない?」
「おい、エリっ! 何を言い出すんだ」
エリシュカは商人をじっと見つめた。今すぐ出発しては、また盗賊に襲われてしまう。少し時間を置けばきっと後から彼らが来るはずだ。
「悪いがお嬢ちゃん、俺達もそこまで暇じゃないんだ。乗りたくないならあんたはおじさんと残ってもらって構わんよ」
「お願い、ちょっとでいいの」
食い下がるエリシュカに、商人は顔を顰めた。
「すまんが俺達は出発するよ。じゃあ、またな、お嬢ちゃん」
「待ってくれっ!」
エリシュカを置いて馬車に戻ろうとした商人を、ラディムが引き止めた。
「おいっ、エリ。こんなとこでのんびりしてる暇はないんだろう? 訳ありなのはわかってるぜ」
「でもっ」
「いいから行けって」
エリシュカの背中を軽く叩いたラディムが、商人に向かって口を開いた。
「すまんな、こいつぁ俺の姪っ子でよ。昨日俺が飲みすぎちまったせいで、いっちょ前に心配してんだ。さっきのことには目をつぶって、乗せてやってくれないか」
「ああ、そういう訳か。それなら御者台の一番近いとこに乗ってくといい」
「恩に着る」
ラディムがもう一度エリシュカの背中を叩いた。
「さあ、行きなっ」
押し出されたエリシュカは、一歩踏み出す。丸帽子を軽く振ったラディムが、エリシュカを促した。このままこの馬車に乗ればまた盗賊に襲われる。ゴクリと喉を鳴らしたエリシュカは、そこから動けず立ち尽くした。




