2-1①
はくはくと口の開け閉め繰り返し、寝間着の胸元をきつく握りしめる。全身からぶわりと汗が吹き出し、かっと大きく目を見開いた。エリシュカは勢いよく掛布を跳ね除け、ぜえぜえと肩で息をする。心臓はどくどくと鳴り響き、今にも破裂してしまいそうだ。
また戻ってきてしまったのだろうか。いや、戻ってこられたと言うべきなのかも知れない。エリシュカは近くの椅子に掛けてあった上着を手早く羽織り、そっと部屋を抜け出した。早朝の廊下はまだ誰の姿もなく、見咎められることもない。一度目の時は、部屋を抜け出したのはもう少し遅い時間だったのだが。既に目的の人物はあの場所にいるはずだ。
エリシュカは一階を目指し、使用人しか使わない階段を降りて厨房へ向かう。ギシリと微かな音を立ててその扉を開けば、中にはやはりルツィエの姿があった。
「ルツィエ」
小さく呼びかけると、振り向いたルツィエが目を見開いた。
「お、お嬢様っ」
思わずと言ったふうに口に手を当てたルツィエが、きょろきょろと周囲を窺う。誰もいないことを確かめると、素早くエリシュカの腕を取り、慌てたように厨房へ引き入れた。
「どうなさったんですか?」
「ねえ、今日は何の日?」
「本当にどうなさったんです?」
エリシュカの両腕を労るようにそっと掴んだルツィエが、眉を下げて瞳を潤ませた。エリシュカを幼い頃から知っている彼女は、身分は違えど家族のような人だ。むしろこの邸でエリシュカにとって家族といえるのは、最早ルツィエと夫のパヴェルのみと言っても過言ではない。
「ちょっとした確認をしたかったの。今日は私の、十六歳の誕生日よね?」
「ええ、ええ、そうですとも」
「そう、やっぱりそうなのね」
なんとも言えない表情で頷いたエリシュカに、ルツィエがはっとしたように口を開いた。
「もしかして、考え直されたんですか? ええ、ええ、そうですよ。やっぱりやめておきましょう。お嬢様お一人でなんてとても」
「いいえ、そうじゃないの。止めたりなんかしないわ」
「お嬢様……」
エリシュカはルツィエを真っ直ぐ見つめて喉を鳴らした。
「あのね、お願いがあるの」
「なんでしょうか」
エリシュカの答えに気落ちしたようなルツィエは、それでも続きを静かに待った。そしてその言葉を聞くと、大きく目を見開いてエリシュカを見つめた。
部屋に戻り着替えを終えたたエリシュカは、胸のペンダンををそっと握る。ゆっくり開いた掌の石は、いつもよりも暗く光る。それはエリシュカの心の中を映しているのか、それとも行く末を暗に示しているのか。どちらにせよ、心の奥がずしりと重い。
それでもこのままひと月閉じこもっていても、結局また地下室行きになるのだろう。それならば――。エリシュカはペンダントをもう一度、今度はぎゅっと握りしめた。
一度目、二度目と違わぬ時間にアダムが訪れた。そして今回も同じ花束だ。
「エリシュカ……誕生日、おめでとう」
「……ありがとう、アダム」
毎年同じような花束で、代わり映えするものではない。しかも、三度も全く同じものを受け取るのはなんだかおかしな気分だ。微かに皮肉な笑みが浮かび、息を漏らして俯いた。
「あの、エリシュカ」
戸惑ったようなアダムの呼びかけに、エリシュカは目を瞬いて視線を上げた。
「どうかして?」
「いや、なんだか……いつもと違うような気がしたから」
眉をひそめたエリシュカは、訝しげな表情を浮かべる。いつもは無関心なアダムが、なぜ突然こんなことを言い出すのだろう。
「あのっ」と、アダムが何か言いかけたところで、ズラタがアダムに声を掛けた。
「アダム、早くこちらへいらして。テレズカが待っていてよ」
「お母様っ」
咎めるようなテレシエの声を聞くのも、これで三度目だ。
「さあ、アダム。庭に冷えたワインとお菓子を用意してあるのよ。テレズカの好きな蜂蜜酒もよ。二人でゆっくり召し上がれ」
「えっ、あ、は、はい」
アダムは差し出していた花束をエリシュカの手に押し付け、気まずそうにズラタの後をついていく。三人の背中を見送っていると、途中でテレシエが振り向いた。何か言いたそうに口を開きかけるが、気付いたズラタに促されて前を向く。エリシュカは今まで彼らを見送ったことがなかった。まさかテレシエがあんな風に自分を見ているなんて、知りもしなかった。だからと言って何が変わるわけでもないのだが。エリシュカはいつもと同じ花束を手に、真っ直ぐ部屋へと戻っていった。
花瓶に挿した花を眺めてから、ふと薬指に視線を落とした。そこには変わらず重苦しい指輪がはまっている。一度目の人生ではひび割れたそれも、二度目には元に戻っていた。鏡の前に立ち、まとめた髪をそっと撫でる。そこにあったはずの髪飾りは、二度目に目覚めた時から失ったままだ。首から下げたペンダントを手に取り、じっと見つめる。前回より暗い部分が増えている。
二度目に目覚めた時、四人と旅したあのひと月は幻なのだと思った。目覚める前と変わっていたのは、ほんの少し暗くなったペンダントだけだったから。それでも、もしも夢ではなかったら。それが恐ろしくて家を抜け出すなんてできなかった。あんな風に旅をしなければ、きっと死ぬことはないのだと思ったから。夢の中の四人に会うこともなく、ただ静かに邸で過ごせばいい。そう思っていたのに、結局彼らの方からエリシュカを迎えに来た。マテスには会わなかったが、後の三人は寸分違わぬ姿で。
ならばあれはやはり夢ではなかったのだろう。怯えて過ごした二度目は、とても長いひと月だった。指折り数えて迎えたあの日、エリシュカは何もできなかった。あんなひと月はもう嫌だ。今度は一度目と同じように、けれどもっと上手くやれるかもしれない。なぜ自分があんな目に合ったのか、どうしても確かめたい。もちろん怖くてたまらない。けれど、またひと月後に見知らぬ地下室に連れて行かれて、何も分からぬまま死ぬほうがもっと怖い。
エリシュカは一度目と同じように麻袋を手にして、階下の厨房へ移動した。
「ルツィエ」
覗き込んだ厨房の扉のすぐ横に、やはりルツィエがいた。
「お嬢様」
神妙な顔で頷いたルツィエが、布に包まれた荷物を片手に厨房から出てきた。
「準備はできた?」
「はい。でも、本当にこれでよろしいのですか?」
前と違う反応に、エリシュカは一瞬目を瞬いた。
「やっぱり私も一緒に……」
「ふふっ。ルツィエならそう言うと思ったわ。でも、大丈夫。ルツィエとパヴェルにはずっとここにいて欲しいの。だから、一人で行くわ」
「エリシュカ様……」
眉を下げたルツィエの瞳に、うっすらと膜が張る。それを誤魔化すように俯いたルツィエは、唇を噛み締めてから顔を上げた。
「では、こちらへ」
ルツィエはしっかりとした足取りで、使用人部屋へ向かう。部屋の前で荷物を受け取り、エリシュカはするりと部屋に潜り込んだ。
扉の前でルツィエが周囲を窺い、その隙に手早く着替える。使い古しの革鞄に荷物を詰め替え、麻袋を畳んでしまった。
「着替えたわ」
「お嬢様……本当にこれでよろしいのですか?」
渋い顔でエリシュカを上から下まで眺めたルツィエは、不満そうに唸り声をあげた。
「これがいいのよ」
エリシュカは自分を見下ろし、ルツィエに軽く片目を閉じて見せた。
「案外似合うと思わない?」
くるりとその場で一回転すると、ふわりとワンピースの裾が広がる。その下には、裾を折ったパヴェルのズボンがチラリと覗く。
「お嬢様っ! なんてことをっ」
思わず叫びそうになったルツィエの口を慌てて塞ぎ、辺りの様子を見回した。
「しーっ。誰か来ちゃったら大変よ」
「すみません、お嬢様。だけど、そんなはしたない」
「悪かったわ」
これから馬に跨るのだなんて、とても言えない。エリシュカは肩を竦めて、軽くスカートを整えた。
「はあ。本当に大丈夫なんですか?」
ぶつぶつ言いながらも、ルツィエは厨房に向かって歩き出す。厨房の扉を出て少し歩けば、パヴェルの馬車が待っていた。
「あんた、くれぐれも頼んだよ」
「ああ。エリシュカ様、どうぞ」
ジャリッと硬いブーツの踵を鳴らし、パヴェルが御者台から降りた。すぐに荷台に昇ると、ごつごつとした手でエリシュカを引き上げる。その白く細い腕が袖から覗き、ルツィエが不安気に眉を下げた。それを余所に、エリシュカはひらりとスカートを翻して荷台に飛び乗る。
「ほらねっ。こういう時に役立つでしょう?」
スカートを摘んで見せるエリシュカに、ルツィエが目を丸くした。
「はははっ。それは私のズボンですか? お嬢様もなかなか面白いことをなさったもんだ」
「あんたっ。笑い事じゃないよっ!」
「ふふふ。ねえ、ルツィエ。私、結構図太いのよ? だから、心配しないで待っていて。必ず戻ってくるから」
今度こそ――その言葉を口にすることはできない。
「お嬢様……。エリシュカ様、どうかご無事で」
「ええ。必ず」
「さあ、ここへ隠れておいてください」
「わかったわ」
麻布を持ち上げると、やはり荷台は粉っぽい。それが少し懐かしくもあり、恐ろしくもある。
「いきますぜ」
「お願い」
返事をすると同時に麻布を被り、唇を引き結んだ。短くルツィエと言葉を交わしたパヴェルが、馬に合図を送る。ゴトリと音を立てて車輪が回り、大きく揺れながら馬車が走り出す。隙間から覗いてみると、ルツィエが不安そうな顔で見送っていた。
しばらくすると、馬車の速度が落ちてくる。
「おい、門を開けてくれ」
「ああ、パヴェルか。また仕入れか?」
「そうだ。今日はアダムさまもいらしてるからな。朝は手に入らなかった肉がそろそろ出てる頃だろう」
キイと耳障りな音が鳴り、ゆっくりと門が開いていく。
「ご苦労さん」
門番に軽く手を挙げたパヴェルは、いつもどおりゆったり馬車を進めた。しばらくすると、エリシュカは麻布からそっと顔を覗かせた。
「邸からはもう見えないかしら?」
「ええ、もういいでしょう」
「そう、よかった。次は町へ入る門よね?」
「そうです。よくご存知ですね」
エリシュカは得意げな笑みを浮かべ、「初めてじゃないもの」と答えた。しかしその声は車輪の音で掻き消えて、パヴェルの耳には届かなかった。
麻布を被って大人しくしていると、パヴェルがもうすぐ町の門だと声を掛けてきた。そのまま息を殺していると、馬車が軋み速度を落とす。
「ヴラノヴァー家の者です」
「ああ、パヴェルか。今日は予定通り二度目だな? 通っていいぞ」
「どうも」
キイキイと門の開く音が響き、馬車が走り出す。日差しがなくなり、車輪の音が低く反響する。しばらく待てば明るくなり、石門を潜り抜けたのだと分かった。徐々に喧騒が近づき、人々のざわめきが届いてくる。
「今日入ったばかりの林檎だよ!」
「さあ、こっちは王様でも食べたことないような肉があるぞ」
ゴトゴトと進んでいた馬車は、馬の鼻息とともに動きを止めた。




