1-7①
エリシュカが王都を出てから明日でひと月。木々はその密度を増し、夜明け前の道はより一層険しくなっていた。足元の悪さに馬が揺れ、エリシュカは鞍の持ち手を握る指に力を込める。腰に回されたカーヤの腕が、ここにきてやけに細く感じられた。
平坦な道を進んでいる時は、相乗りに慣れたと思っていた。しかし道が悪くなると、そうではなかったのだと思い知る。森が深くなればなるほど、エリシュカ自身がしっかりバランスを取らなければならなくなった。最初よりはましではあるが、カーヤに掛かる負担は増すばかりだ。だからと言って他の誰かの馬に乗るわけにもゆかず、ひたすら跨った背から落ちぬよう神経を使った。
「リシュカ、辛かったら無理せず声を掛けて」
頭上から降ってくる声は、変わらず柔らかにエリシュカを気遣う。初めて乗せて貰ったときから、カーヤはずっとこうだ。
「ありがとう、カーヤ。私は大丈夫」
しっかり頷くが、カーヤのほうが心配だ。ずっとお荷物のエリシュカを抱えているのだから。適当なところでルカが様子を見ながら休憩を取っているが、それでカーヤの疲労が回復しているのか、エリシュカにはわからなかった。
ようやく街道が現れると、どことなく皆の空気が緩んだ。エリシュカも固くなっていた身体からふっと力が抜けて、カーヤの腕も緊張が溶けていることに気付いた。まだ夜の明けきらない道は、薄暗くて森の中とそこまで違いを感じない。
「洗礼と言うからには教会を探すべきかな」
ルカの言葉に仲間三人が頷くが、エリシュカは軽く首を傾げた。
「どうかしら……。ヴラノヴァー家は少し特殊だから」
魔女の家だと明かして、皆がどう感じるのかわからず濁すように答えた。義母のズラタや婚約者のアダムは、今どき魔女の家なんて誰も気にしてないと言っていた。けれど、本当はどうなのかエリシュカにはわからない。もし気味悪がられたらと思うと、すんなり打ち明けることができない。ルカの家でヴラノヴァーだと名乗ったのだから、もしかしたら知られているのかもしれないが。もしそうでないならと考えると、尻込みしてしまう。
「まずはリシュカの叔父さんの家を訪ねたほうがいいんじゃない?」
「マテスにしてはまともな提案だな」
「オルダ、マテスだってたまには食べ物以外の話もするよ」
「そうだよ、オルダは相変わらず失礼……って、カーヤもそこそこ酷いこと言ってるじゃないかっ」
「ははっ。案外リシュカの叔父さんの家でご馳走になろうってとこじゃないのか?」
笑い声を立てながら、ルカが馬の脚を速めて先頭を走る。カーヤがその後に続き、マテスとオルダも足並みを揃えた。いつもと変わらぬ空気は、カーヤとオルダの争った夜がまるで夢だったかのようだ。
「マテス、叔父さんとは一度しか会ったことがないの。ご馳走は期待しないでちょうだい」
エリシュカが後ろに向かって声をかけると、マテスが「リシュカまで!」と不満そうな声をあげた。皆の笑い声が道に響き、穏やかな風に包まれる。
しばらく走っていると、細く上り坂になる道が見えてきた。街道から逸れるその道が気になり、なぜか目が離せない。
「カーヤ、お願いちょっと止まってくれるかしら」
道を通り過ぎてすぐに、エリシュカがカーヤの腕に手を添えて口を開いた。
「どうしたの?」
慌てて馬を止めたカーヤが、怪訝そうな顔でエリシュカを見下ろした。気付いたルカが少し先で引き返し、ゆっくり戻ってくる。オルダとマテスも何事かとエリシュカたちの近くに馬を寄せ、二人同時に口を開いた。
「どうしたんだ?」
「なにかあったの?」
声が重なり顔を見合わせた二人は、軽く肩を竦めてエリシュカに視線を戻した。
「ごめんなさい、なんだかあの道が気になって」
「道?」
ルカがエリシュカの視線を辿り、一本の細い脇道を見付けて頷いた。
「あんなところに道があったのか。リシュカはあの道を知ってるの?」
「いいえ、初めてきたから知らないわ。だけど、なんだかとても気になって」
「どうする?」
エリシュカとルカを見比べたカーヤが、首を傾げて問いかけた。顎に手を当てて考え込んでいたルカが、頷き口を開く。
「もうすぐ日が昇る。寄り道してから町へ行けば、丁度人出のある頃に着くだろう。よし、行ってみよう」
皆も頷き、ルカを先頭に横道へと馬を進めた。
細い上り坂は木々が密集しており、そこここに盛り上がった根のせいで足場が悪い。再びカーヤの腕に力が入り、エリシュカは余計なことを言ってしまったのかも知れないと思うが、今更だ。徐々に霧が立ち込め、ルカの背中を見失うのではないかと思えてくる。苔むした岩に、馬が足を取られやしないかと背筋が寒くなった。それでも皆何も言わずに道を登る。エリシュカにはわからないが、彼らが逸れてしまうようなことはないようだ。
しばらく無言で進んでいくと、突然木々が途切れて開けた場所に辿り着いた。
「見て、湖だ」
振り向いたルカが、前方を指さした。目の前には大きな湖と、反対側には切り立った崖が見える。昇り始めた朝日に照らされたその崖を、ところどころに生えた高山植物が彩っていた。
エリシュカはなぜだか湖に行かなければならない気がして、馬の背から身を乗り出した。
「リシュカっ! 危ないよっ」
カーヤにぎゅっと腰を抱えられ、我に返って態勢を立て直す。
「ごめんなさい。……なんだか湖がとても気になって」
「リシュカ」
いつものようにルカが両手を伸ばして、下からエリシュカを見上げた。カーヤに腰を支えられたエリシュカは、流れるようにルカの肩に手を置き馬を降りる。カサリと音を立ててブーツが腐葉土に軽く沈むが、エリシュカは湖から目が逸らせない。ルカの差し出した手を尻目に、そのまま導かれるようにして湖へ向かって歩き出した。
「おい、大丈夫か?」
マントの露を払いながら尋ねるオルダの怪訝そうな声も、今のエリシュカの耳にはどこか遠い。マテスも馬から降りて近づいてくるが、その足音すらもぼんやり聞こえる。何かに呼ばれているような、それでいて拒絶されているような不思議な気分だ。まるで雲の上を歩くかのように足元が軽く、あっという間に湖の畔まで辿り着いた。
「リシュカっ」
カーヤの呼ぶ声が静かな湖畔に響き渡る。
「リシュカ! 何をする気だっ」
ルカに呼ばれているような気がしたが、エリシュカはそのまま湖に足を踏み入れた。ブーツに水が入ってくるが、それすらも気にならない。不思議と湖面は静かなままで、何の抵抗もなく足が進む。エリシュカを呼びながら追ってきたルカの気配を感じた――その刹那。
エリシュカを中心として湖面に波紋が広がる。かと思うと、ぱっと眩い光が溢れ出す。その光は、突然虹色に揺らめいた。光の中心にいたエリシュカは一瞬にして虹色の膜に覆われ、周囲の一切が何も見えなくなる。
「リシュカっ!」
ルカの声が幕の向こうからうっすらと届くと同時にエリシュカの身体が強く光り、かと思うと一瞬で弾けるように散っていった。エリシュカは目の前の光が消えたことにも気付かず、ただ湖を見るともなしに見つめる。すぐに後ろからばしゃばしゃと水音を立てて、ルカが走り寄ってきた。躊躇うことなくガシリとエリシュカの両肩を掴み、怒ったような顔で覗き込んできた。
「今のは何だっ。リシュカ、大丈夫なのか?」
ぼんやりとした頭で考えてみるが、エリシュカにも何が起きたのかはわからない。肩に置かれた手が微かに震えていることに気付くと、視界が定まった。真剣な顔でエリシュカを見つめるルカは、今まで皆をまとめていた余裕が嘘のように剥がれていた。エリシュカはそのことになぜかホッとして、小さく笑みを浮かべた。
「ルカ、私は何ともないわ。だけど、何が起きたのかはわからない」
「そう……なのか。ごめん、いきなりこんな風に」
はっとしたように肩から手を離したルカが、両手を挙げてから気まずそうに片手で首を擦る。
「ううん、心配してくれてありがとう」
笑みを浮かべたエリシュカに、ルカがホッとしたように片手を差し出した。その手にそっと指を重ね、ゆっくり三人の方へ戻っていく。
「リシュカ」
眉を下げたカーヤが、自分の荷物から取り出した布をエリシュカに差し出した。気づけば膝下がびっしょりと濡れている。はっとしてルカの足元を見ると、同じように水浸しだ。
「ルカ、私のせいでごめんなさい」
視線を上げるとルカは一瞬目を瞬き、ふっと小さく笑みをこぼした。
「僕は大丈夫だから気にしないで。それよりリシュカは早く拭かないと」
「さあ、リシュカ」
カーヤがエリシュカの足元にしゃがみ込み、布でそっと包み込む。エリシュカは慌てて布を押さえ、カーヤに向かって首を横に振った。
「カーヤ、そんなことしないで。自分でできるわ」
「ふふっ。私はリシュカの騎士だからね」
いたずらっ子のように片目を閉じたカーヤに、エリシュカは肩の力を抜いた。
「ふああ。姫君と騎士様の劇でも見てるみたいで、やってられないな。眠くなってきちゃったよ」
「マテスはいつだって、眠いか腹が減ってるかのどっちかだろう」
大きな欠伸をしたマテスに、呆れ顔のオルダが返す。
「今度こそ町へ行こう。マテスの腹の虫がうるさくなる前にね」
ルカが戯けるように答えて馬に跨る。マテスは一度伸びをしてからひらりと飛び乗った。
「ほら、リシュカ」
いつものように両手を組んだオルダが、エリシュカの足元にしゃがみこんだ。
「リシュカ」
カーヤの伸ばした腕に手を差し出し、オルダの手を踏み込み馬に飛び乗る。満足げに頷いたオルダが、自分の馬にドサリと腰を降ろした。
行きは朝霧に包まれていた一本道には、チラチラと朝日が差し込みまるで別の道のようだ。先を行くルカの背中もしっかり見えるし、後ろからくる二人の馬の足音も軽やかだ。さっき湖から出てからなぜかほんのり温かくなったような気がする。それは肩に乗せられたルカの両手のせいか、足を拭ってくれたカーヤの温もりなのか、それとも――。
髪飾りが木漏れ日に照らされ、あの夜見た星の瞬きのように光る。ふと気になって薬指に触れると、ザラリとした感触に思わず息を呑んだ。そっと指輪に視線を落とすと、いつの間にか亀裂が入り、力を込めれば壊れてしまいそうだ。
「どうかした?」
「ううん、何でもないわ」
カーヤに尋ねられ、慌てて首を横に振る。どうしたものかと考えるが、下手に触ると本当に割れてしまいそうだ。後で外せばいいかと考え、そのまま嵌めておくことにした。どのみち旅が終わればアダムに返そうと思っていたものだ。壊してしまったのは申し訳ない気もするが、どうせアダムは気に留めることもないだろう。それ以上に開放感のせいか、身体が軽くなったように感じた。




