1-5①
「おはよう、ヴラノヴァー嬢……いいえ、エリシュカと呼ばせてもらっていいかしら。ドレスで旅をするわけにもいかないでしょうから、いくつか見繕っておいたわ。よかったら持っていってちょうだい」
上等な鞄を手にした使用人が、夫人の横に立っている。今エリシュカの着ている服は、朝の着替えで出されたものだ。夫人が用意してくれたのだろう。邸を出るときルツィエが準備してくれたものは、持ってきた革鞄に大事にしまってある。着替えはあったほうが助かるが、そこまで甘えていいものか。
「おはようございます。大変光栄ですが……」
続きを言いあぐねていると、後ろから来たルカがエリシュカの横を通り過ぎた。
「僕が持っていくよ」
そう言って使用人から鞄を受け取ったルカは、夫人と旅立ちの挨拶を交わす。それを終えると夫人がエリシュカの前に立ち、柔和な笑みを浮かべてそっと手を取った。
「ルカたちがいるからきっと大丈夫だけれど。王都に戻るときは、またこちらに寄って無事な姿を見せてちょうだい」
言葉通りの手の温もりが、エリシュカの指先からじわじわと広がっていく。ぽっと頬を染めたエリシュカは、少しだけ子供のような笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとうございます。お礼は改めて」
「ふふっ。今度はもっとゆっくりしていらっしゃい」
視線を合わせて笑みを交わし、そっと体温が離れていく。それでもエリシュカの指先は、ほんのりあたたかくてちょっぴり照れくさい。
「みんな、気を付けて。ルカ、無茶はするなよ」
「わかってます。じゃあ、いってきます」
夫妻とルカが挨拶を交わすと、他の三人も別れの言葉を順に告げる。エリシュカは心からの感謝とともに腰を落とした。
「リシュカ、いこう」
ルカの声に振り向くと、四人がエリシュカを待っている。マテスは両手を頭の後で組んで愉しげに、オルダは相変わらずの渋面だが口の端は上がっている。カーヤは目を細めて柔らかに、ルカは昨日より頼もしく見えた。
差し出されたカーヤの手に指を重ねると、そのまま手を引かれて馬の側へ導かれた。
「リシュカ、その服なら私みたいに跨って乗れるよ。試してごらん」
先に馬に乗ったカーヤが笑みを深めてエリシュカを見下ろした。使用人が馬のすぐ横に台を置き、ルカがエリシュカの手を取る。
「でも、馬に跨るなんて……」
「リシュカ、母さんが用意した服はそのためのものだよ」
躊躇うエリシュカに、ルカが軽く肩を竦めた。エリシュカは自分の服を見下ろす。たっぷり布を使ったチュニックの下は、ピッタリとしたズボンだ。皮のブーツも夫人が用意してくれたものを履いている。確かにこれならみんなと同じように馬に跨ることはできるだろう。
ごくりと喉を鳴らしたエリシュカは、しっかり頷くと台に足を踏み出した。
「リシュカ」
カーヤが馬上から伸ばした手に掴まれ、一気に引き上げられる。馬を跨ぐ瞬間に思わず目を瞑り、気がづけばカーヤの前に収まっていた。
「この鞍はイェリーネク家の特注品なんだ。二人乗り用だから座り心地もよくなったんじゃない?」
「ええ、そう言えば前より楽かも」
「でしょう? 座ったところのすぐ前に掴まるところがあるから、そこを持ってご覧。きっと前より楽に乗れるよ」
「ありがとう」
ふわりと広がるチュニックの上から馬の背を探ると、持ち手のようなものがある。布を手繰り寄せてみると、鞍の先端に手すりのようなものがついていた。冷たい手触りとは裏腹に心強い。
「そろそろ出発しようか」
馬の鼻先をこちらに向けたルカが笑みを浮かべた。いつの間にか、夫人から受け取ったエリシュカの荷物を、自分のものと一緒に括り付けている。
「いつでもいいぜ」
「俺は殿をいく」
ルカが先頭に立ち、並ぶようにマテスが。その後にカーヤとエリシュカが続き、最後にオルダが馬を進めた。
ここまでの道程でエリシュカに合わせてゆったり進んでいた馬は、少しだけ速度が上がっている。それでも手すりに掴まったお陰でやはり前より乗り心地はいい。後ろに感じる体温はルカより少し低く、身体を囲む腕はしなやかだ。エリシュカはほっとするような、どこか物足りないような気分で持ち手を握る指に力を込めた。
途中の村で泊まりながら、幾日か走ったある日。休憩を挟みながら半日が経過した辺りで、エリシュカの様子を見ながらルカが徐々に馬の足を速めた。普段の彼らはもっと速く走らせるのだろうが、エリシュカにとってはこれでも大分速く感じる。何せ馬車より余程速いのだから。
その速さにも慣れ、周囲の景色を見る余裕が生まれるほどになったころ、ルカがふと馬の脚を緩めてカーヤとエリシュカの隣に並んだ。
「次の街までもう少しだけど、一度休もうか。それともこのまま進めそう?」
「私なら大丈夫。用意して貰った服と鞍のお陰でそんなに疲れてないわ」
「そう、ならよかった」
先頭になっていたマテスも速度を落として近寄ってきた。
「それなら試しに早駆けしてみよう。リシュカもきっと気に入るぜ?」
「危なくないの?」
「一人で旅に出ようとした割に意気地なしだな」
肩を竦めたマテスに、エリシュカは目を瞬いた。
「おい、マテス。そんな言い方お前らしくないぞ。淑女は早駆けなんてしないし、ましてや乗馬初心者に言うべきことじゃないだろ」
「そうだよ。私だってリシュカを危ない目に合わせたくないからね。早駆けなんてしないよ」
眉間に刻まれた皺を深め、オルダが咎めるように声をあげた。カーヤは無意識に持ち手を握りしめたエリシュカの手を、軽く二度叩いた。
「あの、もしかして、今の進み具合だと何か都合が悪いの?」
エリシュカの問いかけに、一瞬口籠ったマテスは、頬を掻いて気まずそうに視線を逸らした。
「都合が悪いってほどでもないけど」
言い淀んだマテスを見て、ルカがため息を零した。
「ごめん、リシュカ。怖がらせたくなくてマテスはこんな言い方をしてるだけなんだ」
肩を落としたマテスに、エリシュカは首を傾げた。
「この辺りはこれからの時間、ならず者が多い場所だから。それでマテスは急ぎたかっただけなんだ」
「なんだマテス、それならそう言えばいい。大体俺達がいればそんなやつらは敵じゃない」
「オルダ、私たちが負けるとは思わないけど、それとこれとは話が別だよ」
カーヤの言葉に、オルダは不服そうに顔を顰めた。エリシュカはそんなオルダに視線を合わせ、言葉を選ぶように口を開いた。
「オルダ、私は皆がいれば大丈夫だって思ってる。だけど、マテスは……あの時みたいに、オルダが私の具合を心配しなくて済むようにしてくれてるのよ」
訝しげな顔で考え込んだオルダが、「ああ」と頷き納得したように答えた。
「吐くのを手伝ってやらなくていいようにか」
「オルダっ。女性にそんなことしちゃだめだってば」
「わかってるさ、カーヤ。まだやってないだろう」
口を開きかけたカーヤを見て、ルカがそれを遮った。
「二人ともそこまで。そんなことにはならないって」
気まずそうなマテスと、何度も頷いているオルダ。呆れたように肩を竦めたルカに、後ろからはカーヤの不満げな気配を感じる。エリシュカはそれぞれを順に眺め、思わず吹き出した。
「せっかくだから早駆けに挑戦してみたいわ」
「リシュカっ」
カーヤが咎めるような声をあげるが、エリシュカは明るい笑みを浮かべて振り返る。
「カーヤは私を落としたりしないでしょ?」
「それはもちろん」
「なら大丈夫よ。それに、もし危なかったらカーヤはちゃんと加減してくれるでしょう?」
「当然だよ」
「ね? だからやってみましょう。どうせならマテスより速く走ってね」
いたずらっ子のような笑みを浮かべたエリシュカに、カーヤは口をへの字にしたあとふっと肩を落とした。
「マテス、こっちは二人なんだからハンデを貰うよ」
その言葉が終わらぬうちに、カーヤが馬に合図を送って走らせる。
「ちぇっ、しょーがないな。あと二十数えたら追うからなっ」
「冗談、五十は数えてきなよっ」
カーヤが振り返らずに大声で叫んだ。残りの二人がマテスにちらと視線を送り、やれやれと言った様子で馬を出す。残ったマテスは律儀に数を唱え始めた。
リズムを取るのに必死なエリシュカは、今までのように景色を楽しむ余裕がない。流れるように進む背景は、風に煽られ目を細めたエリシュカにはどのみち見えはしないだろう。視界に映るのは、今まで見たことの無いほどに靡く馬のたてがみだ。
鞍の持ち手にぎゅっとつかまりながら、カーヤがしっかりエリシュカの腰を支えていることにふと気づく。リズムを合わせて上下する身体の一体感は、カーヤと馬と溶けてしまいそうだ。先程まで馬のたてがみだけだった視界には、先に続く一本の道がしっかりと見える。全身をすり抜ける風が心地よく、このままずっと走っていたい。きっとこの四人との旅はうまくいく。エリシュカは進む先の道に、胸の高鳴りを感じた。




