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ラティス湖

 風が変わった。

 草原を抜けて吹いてくる風は、さっきまでより少しひんやりしている。

 エントは歩きながら顔を上げる。

「近いな」

「分かる?」

 前を歩いていたコリーが振り返る。

「なんとなく」

「もう少しだぞ」

「今度こそ本当に?」

「まだ疑ってんのかよ」

「さっき何回も『もう少し』って言われたからな」

「それはお前が何回も聞くからだろ」

 コリーが笑う。

 街道は緩やかな坂を上っている。

 両側に生えていた木々も少なくなり、空が広く見えるようになっていた。

 コンも周囲を見ながら歩いている。

「水の音、少し聞こえませんか?」

「本当ですか?」

 エントも耳を澄ませる。

 風の音。

 草の擦れる音。

 その向こうから、かすかに水音が聞こえてくる。

「聞こえる」

「ですよね」

 コンが少し嬉しそうに答えた。

「この坂越えたら見えるはず」

 コリーが前を向く。

「おお」

 エントの歩調が少しだけ速くなる。

 4人はそのまま坂を上っていく。

 そして――

 視界が開けた。

「……おお」

 エントは足を止めた。

 眼下。

 森と草原の向こうに、広大な水面が広がっていた。

 青い水面が遠くまで続き、その上を風が走るたびに細かな波が光を反射している。

 湖の向こうには低い丘陵。

 岸沿いには木々。

 ところどころに岩場や、小さな入り江のような場所も見える。

「でかいな……」

 エントが呟く。

「ラティス湖」

 コリーが言った。

「やっと着いた」

「本当に遠かったな」

 エントは湖から目を離さない。

 地図では見ていた。

 名前も知っていた。

 大きな湖だという話も聞いていた。

 それでも、実際に見るのとは全然違う。

「こういうの見ると、来てよかったって思うな」

「もう結構楽しいみたいね」

 セブンが言う。

「実際、楽しいからな」

 エントは少し笑う。

 しばらく、そのまま湖を眺める。

 風が水面を渡り、細かな光が揺れていた。

 横では、コンも湖から目を離さない。

「コンさん」

「はい?」

「何かいそうですか?」

「まだ分かりません。でも、水辺なら森とは違う生き物もいそうですね」

「楽しみですね」

「はい」

 コンが湖岸へ目を向けたまま頷く。

「じゃあ、下まで行きましょうか」

「そうですね」

「行くぞー」

 少し先を歩き始めたコリーが声をかける。

 4人は湖畔へ向かって坂を下り始めた。

◇

 近づくにつれて、湖の大きさがさらに実感できるようになった。

 岸辺には細かな砂利と丸い石が広がり、波が一定の間隔で寄せている。

 水は思っていたより澄んでいた。

 浅い場所なら、底の石まで見える。

 小さな魚らしき影が素早く横切った。

「あ」

 コンが足を止める。

「いました?」

「今、魚みたいなのが」

 エントも水面を覗き込む。

「どこです?」

「もう見えなくなりました」

「残念」

「でも、いるのは分かりました」

 コンは少し楽しそうだ。

 そのまま岸沿いを歩いていく。

 遠くでは、鳥のようなモンスターが水面から飛び立った。

 湖の沖では、大きな影が一瞬だけ水面を揺らす。

「あれ何ですかね」

「遠すぎて分からないですね」

 コンが目を細める。

「近くに来たら見たいです」

「襲ってこなければな」

 コリーが言う。

「できれば、その方がいいですね。ゆっくり見られますし」

「確かに」

 エントも頷いた。

 少しして、セブンが湖岸の北西側へ目を向ける。

「あれが旧水路よね?」

 エントもそちらを見る。

 岸沿い。

 自然の岩場の中に、明らかに人工物と分かる石造構造物が見える。

 水際から少し高くなった場所に、灰色の石壁が露出している。

 一部が崩れ、そこに奥へと続く開口部があった。

 その周囲には何人かのプレイヤーがいる。

 入口近くで話している一団。

 装備を確認している者。

 中から出てきたらしいパーティーもいた。

「あれか」

 エントが言う。

「そうだな」

 コリーが答える。

 湖岸を進みながら、4人は旧水路の方へ視線を向ける。

「人いるな」

「そりゃいるでしょ」

 セブンが言う。

「帰ってきてる人もいるな」

「今日も攻略してるんでしょうね」

 コンが言う。

 石造部分の下側には、水に浸かっていた跡のような色の違いが残っている。

 その奥は暗く、ここからでは中の様子までは分からない。

「入りたいな」

 エントが言った。

「明日だな」

 コリーが返す。

「分かってるって。もう日も落ちるし」

「今から入って、帰りが夜になる方が面倒でしょ」

 セブンが言う。

「だな。今日はここまでにしとこうぜ」

「ちゃんと明日にするよ」

 エントはもう一度だけ旧水路へ目を向けた。

「じゃ、先に野営場所探すか」

 4人は旧水路から離れ、湖岸沿いをさらに進んだ。

◇

「この辺どう?」

 コリーが立ち止まる。

 湖から少し離れた場所。

 地面は比較的平らで、背後には低い木々がある。

 水辺からも遠すぎず、近すぎない。

 エントは周囲を見る。

「悪くなさそう」

「足跡も少ないな」

 コリーは地面を確認している。

「大型のモンスターが頻繁に通った跡はなさそうだ。俺はここでいいと思うけど、どう?」

 セブンが周囲を見回す。

 コンも辺りを確認してから頷いた。

「俺もいいと思う」

 エントが答える。

「じゃあここにするか」

 決まると、4人はそれぞれ準備を始めた。

 コリーが持ってきた野営道具を出し、慣れた手つきで支柱を組み始める。

 エントは反対側を持ち、形を見ながら固定していく。

 最初は少し勝手が違ったが、仕組みが分かれば難しくはなかった。

「そこ、もうちょい引いて」

「このくらい?」

「そうそう」

 エントが位置を調整する。

 その間にセブンは荷物を整理し、必要なものを取り出していた。

 少し離れた場所を確認していたコンも戻ってくる。

「どうでした?」

 エントが聞く。

「近くに危なそうなものはなさそうです」

「じゃあ問題なさそうですね」

「はい。水辺からも少し離れていますし」

 しばらくすると、簡単な野営場所が出来上がった。

「こんなもんかな」

 コリーが言う。

 エントは出来上がった場所を見る。

 少し視線を上げれば、湖が見える。

「いい場所だな」

「景色はいいですね」

 コンも湖を見る。

 太陽が低くなり、湖面が少しずつ橙色に染まり始めていた。

◇

 夕食は簡単なものになった。

 持ってきた保存食と、温めるだけで食べられる料理。

 それでも、目の前に湖が広がっているだけで、いつもとは少し違って感じる。

 4人は火を囲むように座っていた。

 遠くの水面に、夕焼けが揺れている。

「外で食うと、なんか違うな」

 エントが言う。

「景色のせいじゃない?」

 セブンが答える。

「それもあるか」

「私は好きです」

 コンが湖を眺めながら言う。

「静かですし」

 昼間よりも周囲はずっと静かだった。

 波の音。

 木々を揺らす風。

 時々、遠くから聞こえる何かの鳴き声。

 それ以外はほとんどない。

 少し離れた《ラティス旧水路》の方には、まだ何人かプレイヤーがいるらしく、点々と明かりが見えた。

「明日、あそこ行くんだよな」

 エントが言う。

「そうね」

 セブンが答える。

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 火が小さく爆ぜる。

 湖から吹いてきた風が、炎をわずかに揺らした。

「一応、今日のうちに分かってる情報だけ確認する?」

 コリーが聞く。

 エントは少し考える。

「危ないやつだけでいいかな」

「やっぱり最低限だけ?」

 セブンが言う。

「全部聞いたら面白くないだろ」

「私は全部知ってから行きたいけど」

「そこは変わらないな」

「エントもね」

「うん」

 コリーが食事を終え、メニューを開く。

「じゃあ最低限だけな」

「お願いします」

 コンも姿勢を少し正した。

「最初の区画は、プレイヤー間だと《導水路》って呼ばれてる」

「導水路」

「正式名称かは分からない。攻略側がそう呼んでるだけかも」

「なるほど」

「推奨Lvは28前後。入口付近はもう結構情報出てる」

「敵は?」

「何種類か確認されてる。特に水中から来るやつがいるから、岸ばっか見てると危ない」

「それは覚えとく」

「地形とか細かい情報も出てるけど、その辺は明日見ながらでいいだろ」

「その方がいい」

 セブンがエントを見る。

「私は先に読んでおくけどね」

「どうぞ」

「何かあったら言うわよ」

「本当に危ないやつだけでお願いします」

「分かったわよ」

 エントは少し笑う。

「コンさんは情報見ます?」

「私は少し見ておこうかなと思います」

「生き物の情報も?」

「それもですけど」

 コンが少し笑う。

「支援が必要になりそうな状態異常とかは知っておいた方がいいので」

「ああ、そっちもありますね」

「はい」

「俺も最低限は見るし」

 コリーが言う。

「コリーは元から知ってるだろ」

「全部じゃないって」

 4人の話は、それからもしばらく続いた。

◇

 完全に日が沈む頃。

 湖は昼間とはまるで違う景色になっていた。

 黒に近い水面。

 その上に、月の光と星が映っている。

 風が吹くたびに、光が細かく揺れた。

 エントは少し離れた場所に立って、湖を眺めていた。

 昼間に見た時も大きいと思った。

 夜になると、さらに広く感じる。

 その時――

 湖のどこか遠くから、低い鳴き声が聞こえた。

 昼間には聞かなかった声だった。

 少し遅れて、木々の奥から別の鳴き声が返ってくる。

 それだけではない。

 さっきから、森の中で何かが動く気配が何度かしていた。

 昼間はほとんど気にならなかった場所だ。

 エントは暗い森へ目を向ける。

 木々の間は闇に沈み、その奥までは見通せない。

「やっぱり夜になると、全然違うな」

 後ろから足音が近づいてくる。

「昼より動いてるやつ多いからね」

 セブンだった。

「やっぱり?」

「さっきから気配するでしょ」

「する」

 エントは森へ目を戻す。

 直後、木々の奥で枝が大きく揺れた。

 何かが一瞬だけその間を横切る。

 だが、姿までは捉えられなかった。

「……ああいうのが一番面倒だな」

「見つける前に近づかれるからね」

 セブンも暗がりへ目を向ける。

「夜に動くなら、それ込みで準備しないと」

「わざわざ今日やることじゃないな」

「そういうこと」

 エントはもう一度、森の方を見る。

 夕方まで何組ものプレイヤーがいた《ラティス旧水路》の入口も、今は明かりがいくつか残っているだけだった。

「そろそろ今日は終わりにするか」

 コリーの声がした。

 振り返ると、コンも一緒にこちらへ歩いてくる。

「明日もありますからね」

 コンが言う。

「そうだな」

 4人は野営場所へ戻る。

 火の向こう。

 湖岸の遠くには、《ラティス旧水路》の入口付近に残る小さな明かりが見えていた。

「明日は何時にする?」

 コリーが聞く。

 4人で明日の集合時間を確認する。

「じゃ、その時間で」

「了解」

「分かりました」

「私も大丈夫」

 エントはメニューを開いた。

「じゃあ、また明日」

「おう。また明日」

「また明日です」

「また明日ね」

 コリーの姿が消え、続いてコンもログアウトする。

 セブンも姿を消し、最後にエントだけが残った。

 さっきまで話し声があったせいか、急に静かになったように感じる。

 エントはもう一度だけ湖を見る。

 夜の水面。

 遠くに見える《ラティス旧水路》の明かり。

 明日は、あそこへ行く。

「楽しみだな」

 小さく呟いて、エントもログアウトした。

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