第95話:『均衡と、新しい鳥籠の鍵』
第95話:『均衡と、新しい鳥籠の鍵』
「……さて。盤面は整ったな」
レンが、冷めきったカップ麺を啜りながらモニターを指差した。
画面には三つの勢力が映し出されている。
遠巻きに包囲を続ける日本政府の機動隊。
上空を旋回し、虎視眈々と介入の機を窺うアメリカ軍の無人機。
そして、倉庫の周囲を埋め尽くす、数万人の「人間の盾」。
三すくみ。誰かが動けば、全員が破滅する膠着状態。
「黒田から通信だ。……しつこい男だな」
レンがエンターキーを叩くと、メインモニターに黒田の疲弊した顔が映し出された。
数時間前までの傲慢さは消え、苦虫を噛み潰したような表情だ。背景には、怒号が飛び交う官邸の対策室が見える。
『……瀬戸梨花。そして神崎悠斗』
黒田の声は低く、抑揚がなかった。
『君たちの要求を呑む。……アメリカ側とも話がついた』
「話がついた?」
悠斗が眉をひそめる。
『君たちの身柄を拘束することは諦める。アメリカへの亡命も阻止する。……その代わり、日本国内での「特別監視対象」として、政府が指定する居住区での生活を義務付ける』
黒田が続ける条件は、実質的な「軟禁」だった。
ただし、以前のような地下施設への幽閉ではない。GPSによる24時間監視と、定期的な報告義務。その代わり、生活の保障と医療ケア、そして何より「身体の自由」が約束される。
「……随分と譲歩したわね」
私が鎌をかけると、黒田は忌々しそうに天井(空)を指差した。
『あの「鷲」がうるさくてね。……君たちの人権を侵害すれば、即座に人道的介入を行うと脅されている。我々としては、君たちを国内に留めておけるなら、多少の自由は目をつぶるしかない』
なるほど。
日本は「核兵器(私たち)」を他国に渡したくない。
アメリカは「日本が独占・暴走すること」を防ぎたい。
その妥協点が、「日本国内で、日米共同監視の下、人間として生かす」というラインだったわけだ。
「……悪くない条件だ」
悠斗が私の前に立ち、モニター越しに黒田と対峙した。
病み上がりで、パジャマ姿の少年。
けれど、その瞳は、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた「黒騎士」の鋭さを帯びていた。
「だが、一つ条件を追加する」
『……なんだ?』
「俺たちの主治医は、佐藤博士だ。それ以外の医者は認めない。……そして、俺たちに何かあれば、レンが持っている『全データ』が世界中にばら撒かれる」
悠斗が、横にいるレンに視線を送る。レンはニヤリと笑い、指でピストルの形を作って見せた。
『……デッドマン・スイッチか』
「そうだ。俺たちはもう、お前らのモルモットじゃない。……対等な交渉相手だ」
悠斗の言葉に、黒田は長い沈黙の後、深く息を吐き出した。
『……いいだろう。その条件で手を打つ』
プツン。
通信が切れた。
その瞬間、倉庫の中に安堵の空気が充満した。
「……終わった」
佐藤博士がへなへなと座り込み、眼鏡を外して顔を覆った。
完全な自由ではない。一生、監視カメラと盗聴器に囲まれて生きることになるだろう。
でも、「死」と「実験」の恐怖からは解放された。
「……悠斗」
私は彼の袖を引いた。
「よかったの? ……一生、鳥籠の中かもしれないよ」
「構わねぇよ」
悠斗は振り返り、私の手を握った。
「鳥籠の鍵は、俺たちが持ってる。……それに、お前と一緒なら、どこだって『世界』だ」
その言葉は、あの仮想世界の最深部で交わした約束と同じだった。
地獄だろうと、天国だろうと、二人なら歩いていける。
「……そうね」
私は頷き、彼の手を強く握り返した。
「行きましょう。……私たちの、新しい戦場へ」
***
ギィィィィィ……。
重厚な鉄扉が、完全に開け放たれた。
眩しい朝の光と共に、冷たく澄んだ空気が流れ込んでくる。
そこには、まだ数千人の人々が残っていた。
私たちが姿を現すと、どよめきが起き、やがてそれは静かな拍手へと変わった。
熱狂的な崇拝ではない。
権力に抗い、自由を勝ち取った「人間」への、敬意と連帯の拍手。
その人垣が割れ、一本の道ができる。
その先には、黒塗りの車が数台、待機していた。黒田の部下たちだ。彼らは私たちに銃を向けてはいない。ただ、恭しく後部座席のドアを開けて待っている。
「……行くか」
悠斗が歩き出す。
私は杖をつき、その隣を歩く。
後ろには、リュックを背負ったレンと、往診鞄を持った佐藤博士。
雪を踏みしめる音。
カメラのフラッシュ。
空を飛ぶドローンの駆動音。
世界中が私たちを見ている。
私たちはもう、ただの高校生には戻れない。
歩くたびに、世界が揺れる。
生きるだけで、誰かの希望になり、誰かの脅威になる。
それでも。
「……手、冷たくないか?」
悠斗が心配そうに聞いてくる。
「ううん。……すごく、温かい」
私は彼の手を、自分のコートのポケットに入れた。
ポケットの中で絡み合う指先。
その体温だけが、この不安定な世界で唯一の、絶対的な真実。
私たちは車に乗り込んだ。
ドアが閉まる音。
エンジンがかかり、車体がゆっくりと動き出す。
窓の外、流れていく北海道の雪景色。
その向こうに広がる、果てしない現実の荒野へ向かって。
私たちの長い旅は、ここから本当の意味で始まるのだ。




