第96話:『サヨナラの通知表と、奇妙な同居人』
第96話:『サヨナラの通知表と、奇妙な同居人』
私たちはいろいろな候補地の中から、東京の候補地の一つを選んだ。もし気に入らなければ変更も可能だという。
いまは新千歳空港の特別室で、飛行機の搭乗待ちをしている。部屋には軽食も置いてあるし、流しと給湯設備にトイレにドレッサーもある。
数日前まで殺してでも私たちを手に入れようとしていた人々が、手の平返しで接待をしてくれている。世間に情報を流して、亡命することも考えていると、早々に発表して正解だったと思う。世間の関心のおかげで、いのちを守れたのだろうと思うと、震えるほど怖くなる。
ちなみに東京には、政府のチャーター機で向かうとのことで、関係者以外は搭乗しないことを聞いた。数時間後には羽田空港かどこかに着いているだろうと思う。この一連の掛かっている費用は全て政府持ちとのことで、私は少し頭の中が真っ白になっている。
悠斗はふかふかなソファーの肘掛けに身体を預けて、リラックスしてサンドイッチを食べている。レンはいつものようにノートパソコンで何かやっている。佐藤先生は借りてきたスマートフォンで、しきりに誰かと連絡を取っている。
無事に羽田空港に到着した私たちは、政府の用意している車に乗り込み、空港から三十分くらいの所にあるマンションに到着した。
……数日後。東京の夜景を一望できる、広すぎるリビングルーム。その中央にある高級ソファーで、レンが胡坐をかきながらポテトチップスを貪り食っている。ここは長期旅行者向けに民泊として貸し出されている部屋で、アメニティーやお菓子などが準備されていて、足りないものは持って来てもくれるという、至れり尽くせりの住環境だった。
「……で、どっちが風呂掃除すんの? 今日は悠斗の当番だろ」
「あー、わかったよ。……ていうかレン、お前なんで当たり前のようにここに住んでるんだ?」
悠斗は持ち前のフレンドリーさで、レンとも仲良くなったようだった。
悠斗がバスタオルを首にかけながら、呆れたように尋ねた。ここは港区のタワーマンションの最上階。政府によるセキュリティも万全で、まさに籠の中の鳥を満喫しているところだった。こういう時じゃないと、とても住めない所だし、お金も自分持ちじゃない所が最高だと思う。
「仕方ないだろ。俺も政府にマークされてる身だ。下手に外をウロチョロするより、お前らのバーターとしてここに籠もってる方が安全なんだよ」
レンは悪びれもせず、チャンネル権を独占してアニメを見ている。
「それに、若い男女が一つ屋根の下だ。……間違いが起きないように、保護者役が必要だろ?」
「ぶっ……!?」
キッチンで洗い物をしていた私が、思わず吹き出した。
「な、なに言ってるのレン! そんなんじゃないから!」
私は片思いだった悠斗と同棲生活になっているこの状況を楽しんでいたので、図星を突かれて顔が熱くなってきた。
「へえ、顔が赤いぞ梨花。……まあいい。ちなみに隣の部屋には、佐藤先生が引っ越してきたぞ。約束通り『私がいつでも診察できるように』だそうだ」
レンが指差した壁の向こうを想像する。日本の最高機密である私たちを守るためとはいえ、ハッカーと主治医と高校生のカップル(仮)の奇妙すぎる共同生活が始まっていた。
でも、この新しい生活を手に入れるために、私たちは多くのものを手放さなければならなかった。
***
数日前。
この部屋に、私の両親が訪ねてきた時のことを思い出す。
『……本当に、学校を辞めるのね』
母さんは泣いていた。父さんは、テーブルに置かれた退学届を、苦渋の表情で見つめていた。
私の通っていた高校。友達。部活。テスト勉強。それら全てが、もう二度と戻らない過去になった。
「ごめんね、お父さん、お母さん。……でも、私が学校に戻ったら、みんな勉強に集中出来なくなるかもしれないし、みんなを危険に晒しちゃうかもしれないから」
私が政府の保護監視対象である以上、普通の高校生活なんて出来ない。今も部屋の外には警備員が立っているし、それに、アメリカ以外の某国の工作員がいつ私を狙うかわからない状況だと聞いている。その渦中にクラスメイトを巻き込むわけにはいかなかった。
『……わかっている。黒田さんという人から説明は受けた』
父さんは震える手で、退学届に判を押している。
『梨花。……生きていてくれれば、それでいい。離れていても、お前は自慢の娘だ』
私たちは抱き合った。
一緒に暮らすことはできない。両親を人質に取られないために、二人には地方へ移住してもらい、身分を隠して生活してもらうことになったのだ。私を守るために仕事を辞めて、別人になるという決断、これは愛ゆえの絶縁だった。
その夜。私は親友のミオと、最後のWEB通話をした。
画面越しのミオは、制服姿だった。
『……梨花、本当に転校しちゃうの? 留学って、急すぎない?』
ミオは何も知らない。私が「海外の特殊な学校に行く」という設定になっているからだ。
「うん、ごめんね。……でも、向こうでも頑張るから」
『そっかぁ……。寂しくなるなぁ。文化祭、一緒にやりたかったのに』
ミオの無邪気な言葉が、胸に刺さる。文化祭。修学旅行。放課後に一緒に飲んだタピオカ。
画面の向こうには、私が失った普通が眩しいくらいに輝いていた。
『でも、応援してる! 梨花ならどこに行っても大丈夫だよ! たまには連絡してよね!』
「……うん。ミオも、元気でね」
通話を切った後、私はしばらく泣いた。
これでいい。これでミオは安全だ。私の物語の登場人物にしてはいけない。
***
それは、悠斗も同じだったらしい。
リビングの窓際で、彼がスマホを握りしめて誰かと話しているのを、私は聞いてしまった。
「……ああ。サッカー部は辞める。……悪いなケンタ。お前とのコンビ、気に入ってたんだけどな」
相手は、サッカー部の親友だろう。悠斗の声は努めて明るかったけれど、窓ガラスに映る彼の表情は、泣き出しそうに歪んでいた。
「……怪我の療養だよ。復帰は未定だ。……ああ、わかってる。お前らが選手権に行くの、テレビで見てるからよ」
彼は通話を終えると、深いため息をつき、スマホの画面を伏せた。そこには、彼の両親からのメッセージも届いていたはずだ。彼のご両親もまた、ここに来て退学届にサインしていった。厳しいお父さんが、去り際に悠斗の肩を強く叩き、「……負けるなよ」とだけ言ったのを覚えている。
「……辛い?」
私が声をかけると、悠斗は驚いたように振り返り、そして弱く笑った。
「いや。……覚悟はしてたさ」
彼は自分の掌を見つめた。
「俺たちは、あの世界で多くを得すぎた。……その代償だと思えば、安いもんだろ」
強がり。でもそれは、私たちに必要な強がりだった。
「おーい、湿っぽい話はそこまでだ」
レンがソファから声を張り上げた。
「メシだメシ! 今日は佐藤先生が隣から特上寿司の出前を持ってくるらしいぞ。政府の経費でな!」
「えっ、お寿司!?」
私の涙腺は一瞬で引っ込んだ。
「やった! レン、お皿用意して!」
「お前らなぁ……切り替え早すぎだろ」
悠斗が呆れつつも、その表情には明るさが戻っていた。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。モニターには、寿司桶を抱えて満面の笑みを浮かべる佐藤先生の姿。
私たちは顔を見合わせた。学校はない。両親もいない。普通の青春もない。
けれどここには戦友がいて、恋人がいる。
ガラス一枚隔てた外の世界は、きな臭い陰謀と、私たちを狙う敵で溢れているかもしれない。それでも、今夜のお寿司と、この奇妙で温かい食卓だけは、誰にも邪魔させない。
「……いただきます!」
こうして、私たちの「監視付き共同生活」は幕を開けた。
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