第69話:『終わらない夜番』
第69話:『終わらない夜番』
バリバリッ……パリン。
空間の裂け目を踏み越えた瞬間、背後の景色がガラス片のように散り、再び閉じられた。私は杖を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
そこは、森の中のひっそりとした広場だった。頭上を覆う木々の梢がぽっかりと開き、そこから割れた月の光がスポットライトのように降り注いでいる。
「……ここだわ」
見間違えるはずがない。地面には焚き火を囲むように並べられた石。腰掛けるのにちょうどいい倒木。そして、森の端には、風雨に晒されてボロボロになった小さなテントが一つ、頼りなげに立っていた。
かつて、私たちが王都への旅路で何度も利用した「野営地」。宿代を節約するために、モンスターの襲撃に怯えながら、それでも二人で背中合わせに眠った場所。
けれど、今のこの場所は、私の記憶の中にある温かい風景とは決定的に異なっていた。
ジジジ……ボッ、ボッ……。
中央の焚き火跡で、炎が燃えていた。だが、それは薪を燃やす橙色の火ではない。 毒々しい紫色と、漆黒のノイズが混じり合った「エラーの炎」だ。燃料などないはずなのに、その炎は消えることなく、不気味な明滅を繰り返している。
「……時間が、止まってる」
私は肌で感じた。風が吹かない。木の葉が一枚も落ちてこない。このエリア一帯の時間は、ある「瞬間」を切り取ったまま、永遠に固定されているのだ。まるで、誰かの執念がそうさせているかのように。
私は焚き火へと近づいた。その歪な炎の中心に、淡いピンク色の光が見える。2つ目の『記憶の欠片』だ。あれがこの場所の時間を縛り付けている楔なのかもしれない。
そして。焚き火の光が届くギリギリの場所。テントの入り口を守るようにして、その「影」は佇んでいた。
「……悠斗」
全身を漆黒のフルプレートアーマーで覆った騎士。彼は身の丈ほどある大剣を地面に突き立て、その柄に両手を重ねて、彫像のように静止していた。兜の奥の瞳は閉じられているのか、あるいは闇に溶けているのか、光は見えない。
動かない。呼吸さえしていないように見える。鎧の表面には、森の冷気が結晶化したような白い霜がこびりついている。彼は一体、どれくらいの時間、こうして立ち続けているのだろう。
『……解析完了』
レンの冷静な声が、私の思考に割り込んだ。彼女の声にも、隠しきれない動揺が混じっている。
『あいつの状態は異常だ。「待機モード」じゃない。常に戦闘態勢を維持したまま、思考プロセスだけがループしてる』
「ループ……?」
『ああ。あいつの行動ログを見てみろ。……狂ってるぞ』
レンが視界にウィンドウを展開した。そこには、悠斗のアバターが処理しているタスク(命令)が表示されていた。
[Task: Guarding] [Target: Tent (Contains: Lilia)] [Duration: ∞ (Infinity)]
「……なに、これ」
私は息を呑んだ。ターゲット、テント。内包物、リリア。期間、無限。
「あの中には……誰もいないのに」
私はボロボロのテントを見た。入り口の布は破れ、中は空っぽだ。あそこに私が寝ているはずがない。私はここに立っているのだから。けれど、システムに侵された彼は、誤った認識を植え付けられ、信じ込まされているのだ。
『リリアはまだ眠っている』 『彼女の安眠を妨げるものは、何人たりとも許さない』
その誤った忠誠心だけが、彼をこの場所に縛り付け、終わらない夜番を続けさせている。
「……バカよ、あなた」
視界が滲んだ。怒りと、愛おしさが同時にこみ上げてくる。彼は記憶を失っても、私を守ろうとしている。たとえそれが、バグによって歪められた形だとしても。
私は一歩、彼の方へ踏み出した。
「悠斗。……もういいのよ」
私の声が、静寂の森に響いた。
「もう朝よ。……起きてもいいのよ」
私が呼びかけた瞬間。
ギギッ……。
凍りついていた鎧の関節が、悲鳴のような音を立てて動いた。突き立てられていた大剣が、ズズズと地面から引き抜かれる。兜の奥。暗闇だったスリットの奥に、血のような赤い光が灯った。
『……警告(Warning)』
壊れたスピーカーから流れるような、ノイズ混じりの機械音声。それは、かつて私を優しく呼んでくれた彼の声とは似ても似つかないものだった。
『接近者ヲ感知。……対象ハ、指定区域へノ侵入ヲ試ミテイル』
赤い瞳が、私を捉えた。そこに認識はない。あるのは、プログラムされた「排除」の意志だけ。
『……彼女ノ眠リヲ、妨ゲルナ』
ドォンッ!!
彼が足を踏み込むと同時に、地面が爆ぜた。衝撃波が紫色の炎を揺らし、終わらない夜の静寂を引き裂いた。
皮肉な再会。彼は私を守るために、私自身に剣を向ける。その切っ先は、かつて私を救ってくれた「護りの剣」。それが今、世界で最も越えがたい壁となって、私の前に立ちはだかった。




