第67話:『最初の記憶』
第67話:『最初の記憶』
ジュボボボボ……ッ!!
耳障りなノイズ音と共に、貯水槽の汚泥が隆起した。黒いヘドロのような塊が、部屋の空間を圧迫するほどの巨大な質量へと膨張していく。それは生物というよりは、世界からこぼれ落ちた「エラーデータ」の掃き溜めそのものだった。
『System Warning: Memory Leak Detected.』
視界の端で、赤い警告ウィンドウが激しく点滅する。奴の不定形の表面には、無数の「目玉」や、誰かの「腕」、あるいはねじれた「剣」といったテクスチャが、浮いては沈み、また浮き上がってくる。まるで、飲み込んだもの全てを消化できずに反芻し続けているような、おぞましい姿。
「……気持ち悪い」
私は杖を構え、胃の底から湧き上がる嫌悪感を魔力に変えて睨みつけた。あの黒い泥の深淵、核らしき場所に、淡いピンク色の光が見える。あれが悠斗の『記憶の欠片』だ。
ギシャアアアアッ!!
スライムの一部が、伸縮自在の槍のように鋭く変形し、音速で突き出された。狭い足場では回避行動もままならない。
「『障壁』!」
ガギィンッ!!
咄嗟に展開した光の盾が、重い金属音を立てて衝撃を受け止める。防げた。そう思った次の瞬間だった。
ズブブ……。
盾の表面で止まっていたはずの黒い槍が、まるで水面に沈むように、光の盾を「透過」して侵入してきた。物理的な破壊ではない。防御判定そのもののすり抜け(グリッチ)だ。
「くっ……!?」
私は反射的に体を捻った。頬を掠める熱風。直後、私の背後の壁に黒い槍が突き刺さり、コンクリートが爆ぜた。破片ではなく、青い火花のようなデータノイズが散る。
『気をつけろ! 奴の攻撃判定は点滅してる! 防御しても無駄だ、避けろ!』
レンの切羽詰まった声が、脳内に直接響く。
「避けるって言っても……こんな場所で!」
私は水路の縁を走りながら叫び返した。スライムは質量を増し、部屋全体を飲み込む勢いで迫ってくる。放った火球は奴の体表で霧散し、雷撃は素通りして水面を焦がすだけ。HPバーさえ表示されない、論理的な「無敵」状態。
これがバグの世界の戦い。剣も魔法も、正しいルールの上にしか成り立たない。ルールが壊れたこの場所では、私はただの無力な少女だ。
(どうする? 普通の攻撃じゃ届かない) (物理も魔法も、理屈が通じないなら……)
焦りが思考を濁らせる。その時、泥の中で瞬くピンク色の光が、一際強く輝いた気がした。 ━━助けて。
悠斗の声じゃない。あの記憶そのものが、「ここだよ」と私を呼んでいるのだ。
「……そうか」
私は足を止め、振り返った。視界を覆い尽くす黒い津波。逃げ場なんてどこにもない。 この世界が壊れているなら、私がやるべきことは一つ。私も、この世界の「理」を壊す側に回るだけだ。
「レン! 解析情報の共有、お願い! 奴の構造データを視覚化して!」 『おい、何をする気だ!? まさか、直接干渉する気か!? データが汚染されるぞ!』
「いいから! 早く!」
私の剣幕に押され、レンが短く舌打ちをした。直後、視界に緑色のワイヤーフレームのグリッドがオーバーレイ表示される。スライムの不定形の身体の中で、赤く明滅しながら走る亀裂のライン。データ処理が追いつかず、処理落ち(ラグ)が発生している論理的な「ほころび」だ。
「……見えた」
私は杖を捨てた。この戦いに、上品な魔法使いの作法はいらない。必要なのは、システムをねじ伏せる暴力的な魔力と、世界の管理者気取りの度胸だけ。
私は両手を広げ、迫りくる汚泥の怪物に向かって、まるで抱擁するように身を乗り出した。
『梨花!!』
レンの絶叫。鼻をつく腐臭とノイズの嵐。黒いヘドロが私を飲み込む寸前、私はその赤い亀裂に、両手を突き刺した。
━━接触。 ━━対象:Glitch_Slime. ━━実行:強制凍結!
キィィィィィィィンッ!!!!
鼓膜をつんざく高周波音が空間を切り裂いた。私が流し込んだのは、属性を持った魔力ではない。レンが構築した「デバッグ・プログラム」を、私の全魔力を触媒にして増幅させた、超高密度の「秩序の光」だ。混沌としたバグデータの中に、強制的に正常な「0」の信号を流し込む。
ガガガ、ガガ……ッ!
スライムの動きがバグった映像のように停止する。液状だった体表が、急速に四角いブロック状のノイズに置換され、その場に縫い留められていく。毒をもって毒を制す。バグを、より強力なシステム介入で塗り潰す荒療治。
「……動くな。そのまま、大人しくしてて!」
全身の神経が焼かれるようなデータ負荷。腕の皮膚がノイズとなって剥離していく激痛に耐えながら、私は凍りついた黒い泥の深部へと、さらに深く手を突き入れた。
指先に触れる、硬質で温かい感触。
「掴んだ……ッ!」
私は渾身の力で、それを引き抜いた。
パリンッ!
何かが決定的に砕け散る音と共に、世界の色が戻った。核を失ったスライムは急速に崩壊し、光の粒子となって霧散していく。後に残ったのは、静寂を取り戻した貯水槽と、私の手の中で脈打つように淡く輝く、ピンク色の結晶だけ。
「はぁ……はぁ……っ」
私はその場にへたり込み、震える泥だらけの手で結晶を見つめた。これが、悠斗の記憶。彼の魂の、最初の欠片。
『……無茶苦茶やりやがって。こっちの心臓が止まるかと思ったぞ』
レンの安堵と呆れが混じったため息が聞こえる。私は小さく笑って、結晶を胸に抱いた。
「……見せて。あなたの記憶を」
私の願いに応えるように、結晶が熱を帯びた。視界が白く染まり、私は奔流のような過去の情景へと吸い込まれていった。
ザワザワ……。
風の音が聞こえる。木の葉が擦れ合う、優しく、懐かしい音。目を開けると、そこは、まだ空が青く、木々が青々とした葉を茂らせていた頃の森だった。
視界の低い位置に、震えている「私」がいた。
少女の背後の茂みが大きく揺れ、空気が震えるほどの低い唸り声が響いた。振り返った少女が見たものは、銀色の剛毛に覆われた巨大な狼だった。大樽10数個分はある。その瞳は紅蓮のように赤く燃え、鋭い牙の間からは、シュウシュウと音を立てて白煙が漏れ出している。
少女は縮こまり震えながら、勢いよく右手を突き出すと、眩しい光弾を飛ばした。
狼に直撃はしなかったが隣にある巨岩に直撃して爆砕した。凄い威力だ。
だが、狼は爆発の凄まじさに一瞬たじろいだが、直ぐに少女へと視線を戻した。今度は警戒心も露わに、より低く、より深く沈み込む。そして少女に向かって狼が宙を舞う。鋭利な爪が少女に迫る。
俺は自然と走り出していた。そして宙を舞う狼を上段から一刀両断する。少女は目を閉じて身体を小さく屈めていた。
少女はゆっくりと目を開けると、俺を誰かと見間違えた様だった。
「……悠斗、先輩……?」
震える声でその名を呼ぶ。
「……誰だ、それは」
俺は右手を差し出しながら、声を掛けていた。
「怪我はないか、お嬢さん。……いや、随分と派手な花火を上げる、不器用な魔法使いさん」
彼はポリポリと頭をかいて、不器用に笑った。その笑顔。今の冷酷な「処刑人」からは想像もできない、人間味あふれる温かい表情。
「立てる? ……手を」
差し出された手。ゴツゴツしていて、泥だらけで、少し震えている手。私がその手を恐る恐る握り返すと、彼は驚くほど強く、力強く引き上げてくれた。
━━その時の手の温もり。 ━━頼もしさ。 ━━トクン、と鳴った自分の心臓の音。
あの日、私は2度目の恋に落ちたのだ。高校生活での日常で眺めていただけの悠斗先輩にではなく、不器用で優しい「魂」に。
スゥ……。
光が消え、意識が現実(といっても、崩壊した薄暗い水路だが)に戻ってくる。頬を伝う熱い雫に気づき、私は慌ててローブの袖で拭った。
「……バカね、悠斗。自分で助けといて、照れてるんだから」
手の中の結晶は、もう光っていない。データは私の中にインストールされた。胸の奥がじんわりと温かい。この温もりこそが、彼を機械ではなく、人間たらしめる「核」なのだ。
「思い出したわ。……私たちがどうやって始まったか」
私は立ち上がり、空になった結晶を大切にポケットにしまった。迷いや恐怖は、もう消えていた。あの不器用な笑顔を取り戻すためなら、私は何度だってこの狂った世界を敵に回せる。
「レン、次の場所は?」
『……ああ、泣いてる暇はなさそうだ。マップ更新。次の反応は王都近郊の宿場村ラニアだ』
「了解。……行くわよ」
私は泥だらけの杖を拾い上げ、水路の出口へと力強く歩き出した。足取りは軽い。最初の一つは見つけた。あといくつあるかわからないけれど、全部集めてみせる。
地下迷宮の闇の向こうに、微かな、しかし確かな希望の光が見えた気がした。




