第66話:『地下迷宮のグリッチ』
第66話:『地下迷宮のグリッチ』
ザザッ……ザザザッ……。
王都の地下には、古代遺跡を利用した広大な下水道網が広がっている。王都の西外れにある入り口から地下へ降りると、そこは悪臭と闇の世界で、腐った水とカビの匂いで鼻が曲がりそうだった覚えがある。湿った石壁に足元を流れる汚水、そして時折、ネズミがカサカサと走り去る音がしていた場所だ。
私は意を決して地下水路に足を踏み入れた瞬間、視界の端にノイズが走った。
今、私の目の前に広がっているのは、広大な下水道網というよりは、壊れた万華鏡の中のような光景だった。
「……なに、これ」
私は絶句し、天井を見上げた。そこには「床」があった。汚水が流れる水路が、重力を無視して天井を這い、時折、赤や青のピクセルとなって滴り落ちてくる。壁のテクスチャは剥がれ落ち、幾何学的なワイヤーフレームが血管のように脈打っている。
『……聞こえるかー、梨花。感度はどうだ?』
不意に、脳内にレンの声が響いた。耳元にインカムを付けているわけではない。ダイブ機器を通した直接通話だ。
「ええ、聞こえるわ。……レン、ここの状況が見えてる?」
『ああ、モニターしてる。ひどい有様だな。座標データが滅茶苦茶だ。上下左右の概念が崩壊してるぞ、気を付けろよ』
レンの声には緊張が混じっていた。
『慎重に進め。見た目に騙されるなよ。そこにあるはずの床が、データ上は「穴」かもしれない』
「了解。……行くわ」
私は杖の先端に小さな灯火、ライトの魔法を灯し、慎重に歩き出した。足元の石畳は、踏むたびにギュインという不快な電子音を立てる。
ギルドマスターの話では、この水路の最深部に「記憶の欠片」があるはずだ。かつて、初心者の私と悠斗が、ここに調査に来た覚えがある。
冒険者ギルドに登録して、魔力測定用の水晶を粉々に吹き飛ばしてしまって、それがものすごく高価なマジックアイテムで、初日に100万『A』アル、金貨一〇枚分の借金を作ってしまった。
あっ、わたし借金払ってない。地下図書館の爆破の容疑者として手配されて、国外逃亡したから、借金踏み倒しているんだった。……そんな些細な思い出さえ、今の私には宝石より価値がある。……私もかなり、ぶっ壊れてきているな。気を付けないと。
シャアアアアッ!!
角を曲がろうとした時、耳をつんざくような金切り声が響いた。闇の向こうから、何かが這い出してくる。
「……モンスター?」
それは、巨大なドブネズミのようだった。けれど、その姿は異様だった。身体の半分が透明になり、内臓の代わりに空洞が広がっている。そして残りの半分は、異常に引き伸ばされたポリゴンが棘のように突き出していた。
[Enemy: Glitch_Rat_Lv.??]
視界に表示されたネームタグは文字化けし、レベル表記すらバグっている。この表示も今回「表示有り」に設定変更してもらったものだ。
『来るぞ!』
レンの警告と同時に、巨大ドブネズミが跳躍した。速い。生物的な動きではない。コマ送りのようにカクカクと座標を移動しながら迫ってくる。
「火弾、ファイアボルトッ!」
私は杖を突き出し、炎の弾丸を放った。狙いは正確。炎は一直線にラットの眉間に吸い込まれ━━、
スカッ。
音もなくすり抜けた。そして、遥か後方の壁に着弾し、爆発した。
「えっ……!?」
『当たり判定がズレてる! 見た目通りの場所に実体がないぞ!』
レンが叫ぶ。実体がない? じゃあ、どこを狙えばいいの? 混乱する私の目の前で、ラットが牙を剥いた。
ガリッ!
「ぐっ……!」
防御魔法を展開する暇もなく、肩を裂かれた。痛みはない。代わりに、強烈な「寒気」と「吐き気」が襲ってきた。傷口を見ると、血は出ていない。肉体データが四角く欠損し、そこから青いノイズが漏れ出している。
『HP減少! まずい、この攻撃はデータ侵食だ! 食らいすぎるとアバターが崩壊するぞ!』
バグった敵の攻撃は、ただのダメージ計算ではない。触れた箇所のデータを強制的に破壊するウイルス攻撃だった。
「くっ……!」
私はバックステップで距離を取った。魔法が当たらない。防御もできない。どうすれば?
(落ち着け……よく見るのよ)
私は冷や汗を拭い、目を凝らした。ラットの動き。炎がすり抜けた瞬間。奴の身体の周囲にうっすらと赤い線が見えていた。テクスチャの向こう側にある、論理的な骨組みがズレて光っていた。
「……あそこだ」
ラットの頭上、約30センチの空間。そこに、小さな赤い立方体が浮いている。あれが奴の「本当の当たり判定」だ。
「レン、座標修正! 目標、敵の頭上Y軸プラス30!」
『了解! 照準補正をリンクさせる!』
レンのサポートで、視界に十字の目印が表示される。私は杖を構え直した。ラットが再び飛びかかってくる。その醜悪な牙が喉元に迫る。でも、もう惑わされない。私は何もない空中の一点に狙いを定めた。
そこだッ!
「雷撃、ライトニング!!」
バリバリバリッ!!
放たれた電撃が、虚空の空間を直撃した。その瞬間、ラットの身体がビクンと痙攣し、断末魔のようなノイズを発した。
ギャ、ガガ、ガ……プツン。
テレビの電源を切るように、巨大なネズミは一瞬で消失した。後に残ったのは、数個のポリゴン片だけ。
「はぁ……はぁ……」
私は膝をついた。たった一匹の雑魚モンスター相手に、これほどの消耗。この先、どれだけの理不尽が待っているのか。
『ナイスだ、梨花。……どうやらこの世界じゃ、目に見えるものより、裏側のコードを信じた方がよさそうだ』
「ええ。……物理法則が壊れてるなら、壊れたルールに従って戦うまでよ」
私は立ち上がり、肩の傷にポーションを振りかけた。データの修復が進み、寒気が引いていく。このポーションもレンが準備してくれたものだ。まさにチートだ。
私たちは水路の奥へと進んだ。途中、無限ループする回廊や、床が天井になる反転重力エリアを抜け、ようやく最深部の貯水槽へと辿り着いた。
そこには、ボスはいなかった。代わりに、部屋の中央にぽつんと、淡い光を放つ結晶が浮いていた。[Memory_Fragment_01]
ピンク色に輝く、ガラスの破片のようなもの。それが「記憶の欠片」だ。
「……あった」
私は駆け寄ろうとした。だが、その足が止まる。欠片の周囲の空間が、歪んでいる。
ズズズ……。
貯水槽の水面から、泥のような、ヘドロのような黒い塊が隆起した。それは形を持たない不定形の怪物となり、欠片を飲み込むようにして立ち塞がった。
『System Alert: Glitch_Slime Detected.』
黒いスライムの表面に、無数の「目」や「口」が浮かび上がっては消える。バグの集合体。この世界が、異物である記憶データを排斥しようとして生み出した抗体だ。
「……返して」
私は杖を構え、魔力を練り上げた。今度は、コアを探すまでもない。あいつの身体そのものが、不安定なエラーの塊だ。
「それを返してもらうわ。……それは、私と彼の、大切な始まりの記憶なんだから!」
私は駆けた。物理も論理も通用しないバグの泥沼へ。私自身の意志を叩きつけるために。
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