第35話:『テクスチャの剥がれた道』
第35話:『テクスチャの剥がれた道』
ノースガルドの雪原を抜け、南へと向かう街道は、徐々にその色彩を変え始めていた。 針葉樹の森を抜けると、足元の雪はまばらになり、代わりに乾いた土と、芽吹いたばかりの緑の下草が顔を出し始める。
本来なら、厳しい冬を越えた冒険者たちを癒やす、平和で美しい旅路のはずだ。けれど、私の胸のざわめきは消えなかった。ヴォルフのあの奇妙なループ。それが頭から離れず、私は周囲の景色をどこか疑うような目で見てしまっていた。
「……ねえ、リリア。さっきから難しい顔をしてどうしたんだ?」
先頭を歩いていたユリオが、心配そうに振り返る。彼は上着を脱ぎ、軽装になっていた。汗ばんだ首筋が健康的だ。
「ヴォルフのことか? まあ、あいつも緊張してたんだろう。同じ挨拶を繰り返しちゃうことなんて、誰にでもあるさ」
「……そうかな。そうだといいけど」
私は曖昧に笑って頷いた。ユリオには感じないのだろうか。この世界全体に漂う、薄い膜のような違和感を。空気の味が、どこか無機質だ。風の音が、録音された音源のように単調に聞こえる。
「あ、見てくれ! 花が咲いてるぞ」
ユリオが街道の脇を指差した。そこには、黄色い小さな花が群生している━━ように見えた。
「きれいだな。北国じゃ見られない色だ」
ユリオが屈み込み、その花に触れようとする。私も近づいて、その花を見た。そして、息を呑んだ。
「……待って、ユリオ」
「ん?」
「それ、触らないで」
私の声が震えていたのか、ユリオが驚いて手を止める。私は恐る恐る、その「黄色いもの」に顔を近づけた。
遠目には花に見えた。でも、近くで見ると、それは花ではなかった。
「……板?」
そこにあったのは、灰色一色でのっぺりとした、正六角形の「板」だった。茎も、葉も、花びらの重なりもない。ただ、「花があるべき座標」に、灰色の幾何学図形が浮いているだけ。まるで、絵の具を塗り忘れたキャンバスのように。
「なんだこれ……? 枯れてるのか?」
ユリオが不思議そうに、その板をつつこうと指を伸ばした。次の瞬間。
スッ……。
彼の手は、何の抵抗もなくその板をすり抜けた。
「……うわっ!?」
ユリオが飛び退く。板は揺れもしない。ただ、そこに固定された映像のように浮いている。
「感触がない……? なんだこれ、幻覚か?」
ユリオが自分の手と、謎の板を交互に見る。私は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
(幻覚? 違う)
父さんの書斎で読んだ物理の本を思い出す。物体が存在するなら、光を反射し、質量を持ち、空間を占有するはずだ。でも、これには「テクスチャ(質感)」がない。「コリジョン(衝突判定)」がない。物理法則が適用されていない。
「……この世界、何かが欠けてる」
私が呟いた時だった。
ザザッ……ザザザッ……!
不快なノイズ音が、森の奥から響いてきた。鳥の声じゃない。もっと電気的で、耳障りな音。
「魔物か!?」
ユリオが瞬時に『星斬り』を抜く。草むらをかき分けて現れたのは、一体のマキナソルジャーだった。ただし、様子がおかしい。
ガガッ……ガガ……。
銀色のボディが、激しく明滅している。右足を出したと思ったら、次の瞬間には左足が前にあり、その次はまた右足に戻っている。動きが「飛んで」いるのだ。
「壊れかけか……。楽にしてやる!」
ユリオが踏み込み、袈裟斬りに剣を振り下ろす。完璧なタイミング。鋼鉄をも断つ一撃。しかし。
スカッ。
剣はマキナソルジャーの体を、煙のようにすり抜けた。
「なっ……!?」
ユリオが体勢を崩す。斬られたはずの敵は、傷一つなくそこに立っていた。そして、本来ならありえない速度で━━予備動作なしで━━腕を振り上げた。
「危ない!!」
私はとっさに杖を向けた。物理攻撃が通じないなら、エネルギーで焼き尽くすしかない!
「『炎弾』ッ!!」
ドォォン!!
放たれた炎が敵を直撃する。しかし、爆発音の代わりに響いたのは、『ピガガガガッ!』という耳をつんざくような電子音だった。
マキナソルジャーの姿が、テレビの砂嵐のように乱れる。そして次の瞬間、フッと掻き消えるように消滅した。燃え尽きたのではない。データが削除されたような消え方だった。
「……なんだよ、今の」
ユリオが剣を構えたまま、荒い息を吐く。
「手応えがなかった。……斬った感触も、敵の気配も」
彼は恐怖を押し殺すように、剣を鞘に納めた。私は震える手で杖を握りしめ、周囲を見渡した。美しい森。でも、今の私には、それが書き割りの背景画にしか見えなかった。
「……先を急ごう」
エララが、低く押し殺した声で言った。彼女は一度も戦闘に参加せず、ずっと手元の端末を操作していた。
「このエリアは不安定よ。……長居すると、私たちまで『バグ』に巻き込まれるわ」
「バグ……?」
聞き慣れない言葉。でも、今の現象を表すのに、それ以上に相応しい言葉はなかった。
私たちは逃げるように歩き出した。足元の土の感触さえ、本当にそこにあるのか信じられなくなりそうだった。




