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アルメルシア クロニクル  ―魔法を鍛えてみんなで生き延びます  作者: amya


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第230話:『霧中の幻影回廊と、音の道標』

第230話:『霧中の幻影回廊と、音の道標』


赤黒い濃霧の膜をくぐり抜けた瞬間、世界はまるで古い羊皮紙の裏側へとめくり返されたかのように、すべての遠近感を失ったようだった。


ただ暗いだけではない。氷水を含んだような粘り気のある冷気が肌にまとわりつき、呼吸をするたびに、濡れた石苔と古い鉄錆、そして焦げたオゾンが混ざり合った重たい匂いが、冷たいゼリーのように肺の底へと沈殿していく。


自分が吐き出した白い息さえ、どこまでが私の体温で、どこからがロンドンの闇なのか、境界線が曖昧に溶けてしまいそうだった。


すぐ隣を歩いているはずの悠斗の黒い防刃スーツの肩でさえ、赤い靄に滲んでぼんやりとした影にしか見えない。


「……うわぁ、本当に一メートル先も真っ暗ですね。でも、ベルトがほんのりピリピリしてて、みんながすぐ近くにいるのが分かります」


私のすぐ後ろで、メイが安心したように自分の腰のバックルに指先を触れる気配がした。


光輝が繋いでくれた『微弱電磁リンク』の静電気の糸が、九人の腰元を確かに結んでいる。その微かな電気の脈動と、悠斗が時折「足元に気をつけろよ」と私の左手を軽く引いてくれる温かい指先の感触だけが、この底なしの霧の中で私を現実へと繋ぎ止める錨になっていた。


「みんな、地面を見て。ここ、もう私たちが知ってるロンドンの道路じゃないわ」

私はステッキの先端にかすかな魔力の光を灯し、足元を照らし出した。


さっきまで靴底で踏みしめていたはずの近代的なアスファルトの舗装はいつの間にか途切れ、何百年も前のヨーロッパの城塞を思わせる、濡れて黒光りするゴツゴツとした石畳へと変わっていた。


それだけではない。

道の脇には、ロンドンの象徴ともいえる鮮やかな赤い二階建てバスが横転していたのだが、その車体の半分が、分厚い石造りの城壁の中へと不自然にめり込んでいたのだ。


まるで時代という名のページが乱暴に破り取られ、琥珀の中に閉じ込められた昆虫のように、現代の鉄と中世の石が断面もなしに一つに溶け合っている。


「現代の街並みと、中世の城塞のデータがめちゃくちゃに混ざり合ってやがるな。新宿の地下街と同じ、空間のバグってやつか」

悠斗が大剣星斬りの柄に右手を添えたまま、周囲の気配を探るように焦げ茶色の瞳を細めた。


「ああ。だが、新宿やニューヨークよりもタチが悪いかもしれないね」

私たちの斜め前を歩くアーサーが、抜いたレイピアの切っ先を下に向けながら、低い声で言った。


「この霧は、歩く者の平衡感覚を少しずつ狂わせる。まっすぐ歩いているつもりでも、いつの間にか円を描くように誘導されてしまうのだ」


その時、霧の奥深くから再び、ゴォォォォーン……というビッグ・ベンの重厚な鐘の音が響いてきた。

低く唸るような空気の振動が私たちの鼓膜を揺らし、濡れた石畳を伝わってブーツの底を微かに震わせる。


「……ストップです! みなさん、その場で止まってください!」

目を閉じて両耳に手を当てながら歩いていた咲と、魔道具のタブレットを見つめていたソラが、同時に鋭い声を上げた。


「どうしたの、咲ちゃん?」

私がピタリと足を止めると、すぐ前方を覆っていた霧が潮の引くようにわずかに薄れ、私たちの正面に、幅五メートルほどの真っ直ぐで平坦な石畳の通路が浮かび上がった。


両脇には古びたガス灯が並び、目で見る限りは、何の変哲もない安全な一本道にしか見えない。


しかし、咲は固く目を閉じたまま、血の気の引いた顔で首を横に振った。


「前の道に進んじゃダメです! 目で見ると平らな石畳の道に見えますけど……今、鐘の音の反響を『音響遠隔透視、クレアボヤンス・ソナー』で拾ったら、私たちの三メートル先から地面が完全に途切れて、底の見えない深い奈落の穴になっています!」


「なんですって!?」

私が驚いて目の前の石畳を見つめると、隣にいた悠斗が足元に転がっていた拳大の石ころを拾い上げ、正面の道へと軽く放り投げた。


石ころは緩やかな放物線を描いて、確かにそこにあるはずの石畳の上へと落ちた……かに見えた。


だが、乾いた石の跳ねる音は鳴らなかった。


石ころはまるで水面に映った月影をすり抜けるように、石畳の表面をズボッと音もなく通り抜け、そのまま下の暗闇へと吸い込まれて消えていったのだ。数秒遅れて、はるか深い底から、チャポンという冷たい水音が微かに跳ね返ってきた。


「うわっ、マジで幻覚の落とし穴じゃねぇか! 見た目だけで走ってたら、今頃全員で地下水路の底へ真っ逆さまだったぜ!」

颯太が背筋を凍らせて一歩後ろへ後ずさりして、逆手に持った短剣を握り直した。


「視覚情報と、実際の物理空間の座標がわざとズラされているんです」

ソラが銀縁眼鏡を押し上げ、タブレットのワイヤーフレーム画面を指差しながら説明した。


「霧の魔力粒子が、そこに道があるという偽の光学映像を空間に投影しているんですね。では、本当の道はどこかというと……アーサーさん、あの右側の壁を見てください」


ソラが指差した右手側には、高さ五メートルはあろうかという、枯れた蔦の絡まった分厚い石造りの城壁が立ち塞がっていた。誰の目から見ても、完全な行き止まりの壁だ。


「……あの石壁がどうかしたのかね、ソラくん? ……まさかハリーなんちゃら的なことかな」

アーサーが怪訝そうに眉をひそめると、咲が両耳に手を当てたまま、その分厚い石壁の中心を指差した。


「あそこです! ビッグ・ベンの鐘の音が、あの石壁のど真ん中から、何の遮蔽物もないみたいに真っ直ぐここまで通り抜けてきています! あの壁こそが、捻じ曲げた空間を繋ぐ『空間の継ぎ目』です!」


「なるほどね。目には分厚い石壁に見えるけど、物理的にはあそこが通り道ってわけね」

私は一歩進み出て、目の前の冷たそうな石壁に向かって、持っていたステッキの先端をそっと突き出してみた。


すると、硬い石にぶつかる感触はなく、ステッキの先端が静かな水面に差し込まれたようにスッと石壁の中へと吸い込まれた。


「本当だわ、向こう側に抜けられる! よし、目で見える景色に惑わされないで、咲ちゃんとソラくんの『音』の誘導だけを信じて進むわよ!」


「了解だ。俺が先頭を行く、梨花は俺の背中から離れるなよ」

悠斗が私の手を引き、先陣を切って石壁の幻影の中へと踏み込んだ。


ひんやりとした薄い氷の膜をくぐり抜けるような奇妙な感覚のあと、私たちの前には、先ほどとは全く別の石畳の回廊が現れた。


そこからも、視覚と聴覚が食い違う奇妙な迷宮の連続だった。


何もない空間に見える場所に、実は目に見えない無数の鋼鉄のワイヤーが蜘蛛の巣のように張り巡らされていたり、逆にゴウゴウと燃え盛る紅蓮の炎の壁に見える場所が、音の反響では熱も実体もないただの幻影だったりした。


(まるで都市型のトリック迷路みたいね)


自分の目が信じられないという不気味な感覚は、じわじわと神経を削ってくる。けれど、咲の研ぎ澄まされた耳とソラの正確な演算がすべての罠を事前に暴き出し、私たちは誰一人として傷つくことなく、迷宮の深部へと確実に歩を進めていった。


「よし、順調です! 折り畳まれた五重の空間の四つ目まで抜けました!」

ソラがタブレットの画面を見て、弾むような声を上げた。


「このままあと百メートルほど直進すれば、霧の中心部……ビッグ・ベンのあるウェストミンスター広場へ抜けられます!」

「やっとか! こんなジメジメしたお化け屋敷みたいな霧、もううんざりだぜ!」

光輝が肩を回して笑った、まさにその瞬間だった。


キィィィィィンッ!! ギャリギャリギャリッ!!!!


突如として、周囲の赤黒い霧の四方八方から、黒板を無数の鉄の爪で引っ掻いたような、耳をつんざく超高周波の金属音が鳴り響いた。


それは、鋼鉄の声帯を持つ巨大な軍馬の嘶きと、何十枚もの金属プレートを激しく擦り合わせる音が重なり合った、頭蓋骨の内側まで直接ビリビリと震わせる暴力的な不協和音だった。


「きゃあああっ!? み、耳が……っ!!」

「くそっ、なんだこのノイズは!?」

聴覚を極限まで研ぎ澄ませて鐘の音を拾っていた咲が、悲鳴を上げてその場にうずくまり、両手で耳を強く塞いだ。ソラの魔道具タブレットからも、キィィンという激しいハウリング音が上がって画面のソナー波形が真っ赤に乱れる。


「まずい、音響妨害、ノイズ・ジャミングだ! 奴ら、俺たちが『音』を頼りに進んでることに気づいて、反響音をメチャクチャに掻き乱してきやがったぞ!」

光輝が叫びながら、うずくまる咲の身体を庇うように前に立った。


直後、ドドドドドドッ!! と足元の石畳が地震のように激しく揺れ動いた。


周囲を取り囲む濃い赤黒い霧のカーテンの奥から、時速六十キロを超える猛スピードで疾走する複数の巨大な質量の気配が、私たちの周りに渦を巻くように迫って来ているのを感じた。


目を開けても一メートル先は赤い闇。耳を澄ませても、鼓膜を刺す金属ノイズの嵐。

敵が右から来るのか、左から来るのか、それとも真後ろから迫っているのかすら判別できない絶体絶命の暗闇の中で、重い鉄の蹄の音が一気に私たちの喉元へと肉薄してきた。





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