第227話:『霧の都の騎士と、歪められた円卓の伝承』
第227話:『霧の都の騎士と、歪められた円卓の伝承』
ニューヨーク郊外の基地を飛び立った米軍の超音速輸送機は、分厚い雲の絨毯を突き抜け、大西洋の上空を東へと猛スピードで駆け抜けた。
機内で束の間の睡眠と軽食を取ってから、わずか三時間あまり。
通常の三倍のスピードとはいかずに、約二倍での飛行となった。
機体がゆっくりと高度を下げ、分厚い灰色の雨雲を抜けた瞬間、小さな丸窓の向こうにイギリスの陰鬱な大地が姿を現した。
「……すごい。本当に街の真ん中が、真っ黒な霧のドームに飲み込まれてるわ」
私は窓ガラスに額を近づけ、眼下に広がる光景に息を呑んだ。
私たちが着陸しようとしているのは、ロンドン中心部から西へ二十キロほど離れたイギリス空軍のノースホルト基地だった。
そこから東の空を見渡すと、本来ならテムズ川に沿って美しい歴史的建造物が並んでいるはずのロンドン中心部が、まるで巨大な黒いマッシュルームのような、おぞましい赤黒い濃霧の塊にすっぽりと覆い尽くされていたのだ。
やがて輸送機が滑走路へと着陸し、後部のタラップが重々しい油圧音を立てて開いた。
一歩外へ踏み出した途端、氷水を含んだような湿った冷たい風が、私たちの防刃スーツの隙間を容赦なく撫でた。
「うわっ、さっぶ……! ニューヨークの乾いた寒さとは違って、骨の芯までジメジメ染みてくる寒さっすね……」
光輝が両腕をさすりながらブルッと身震いする。
空気の中に漂っているのは、冷たい雨の匂いだけではない。遠くの霧のドームから風に乗って流れてくる、古い鉄錆と濡れた石苔、そして焦げたオゾンが混ざり合ったような、重たくて息が詰まる匂いだった。
滑走路の端には、迷彩塗装のイギリス軍の装甲車と、黒塗りの大型バンが数台待機しており、その前に一人の長身の男性が立っていた。
風になびく金糸のようなブロンドの髪に、彫りの深い端正な顔立ち。仕立ての良いスーツの上から深い青色のロングコートを羽織り、額の左側には真新しい白い包帯が巻かれている。包帯の端には、うっすらと赤い血が滲んでいた。
彼は私たちの姿を認めると、手にしていた古風な銀の懐中時計をカチリと閉じ、コートの裾を翻して歩み寄ってきた。
「……よく来てくれた、日本の特異点たち。いや……梨花、悠斗」
耳の翻訳イヤホン越しに響く、落ち着き払った、それでいてどこか温かみを帯びたバリトンボイス。
ユーロポール、欧州刑事警察機構の広域捜査官、アーサー・ペンドルトンだった。
「アーサーさん! お久しぶりです、怪我がひどそうだけど大丈夫なの!?」
私が駆け寄って声をかけると、アーサーは傷ついた額に軽く指を当て、貴族の末裔らしい優雅な仕草で肩をすくめた。
「かすり傷だよ。ロンドンの歓迎が少々手荒くてね。……それより、また君たちにヨーロッパの尻拭いを頼むことになってしまい、面目ない気持ちでいっぱいだよ」
「全くだぜ。お偉いさんの頼みじゃなきゃ、こんな寒い日にわざわざ急いで海を渡ったりしねぇよ」
悠斗が大剣星斬りを肩に担いだままニヤリと笑うと、アーサーも「違いない」と小さく口元を緩めた。
「紹介するわね。こちらが、私たちの仲間……特異点小隊のみんなよ」
私が後ろに並ぶ光輝、咲、ソラ、メイ、颯太、舞の六人を順番に紹介すると、アーサーは一人ひとりの目を真っ直ぐに見つめ、年下の少年少女たちに対しても一人の戦士として敬意を払うように深く頭を下げた。
「ユーロポールのアーサー・ペンドルトンだ。君たちのニューヨークでの活躍は、映像と報告書で拝見した。……この霧の都を救うため、どうか皆さんの力を貸してほしい」
「はいっ! よろしくお願いします、ペンドルトン捜査官!」
メイや咲たちが背筋を伸ばして礼を返す。
その時、私はアーサーの腰のベルトに吊るされた、見慣れない細身の剣に目を留めた。
先ほどアメリカのホテルで見たライブ映像でも、彼はその剣を振るってバグモンスターと戦っていたはずだ。
「ねえ、アーサーさん。通信の映像を見た時から気になってたんだけど……もしかして、アーサーさんも魔法が使えるようになったの?」
私が尋ねると、アーサーは苦笑して腰の剣を鞘ごと外し、私たちに見せてくれた。
それは中世の騎士が使うレイピアに似た美しい白銀の細剣だったが、鍔の部分には複雑な電子回路のような溝が彫られており、柄の根元には、青白く発光する小さな結晶入りのガラスカートリッジが装填されていた。
「いや、残念ながら私自身に君たちのような才能が目覚めたわけではないよ。私は相変わらず、魔法陣も呪文も使えないただの人間だ」
アーサーが柄のトリガーを軽く引くと、ブゥンッ、という低いモーター音にも似た振動音と共に、レイピアの細い刀身に青白い魔力の光の膜がうっすらと浮かび上がった。
「これは『魔力伝導兵装、マジック・クラフト』の試作一号機だ。……数ヶ月前、君たちと共にフランスのローゼンバーグ城を制圧した際、地下プラントから大量の精製結晶を押収しただろう? あれを日本政府から提供された魔力波形データと照らし合わせ、英国王立科学研究所が無理やり兵器として形にしたものさ。カートリッジに封入した結晶に高圧電流を流すことで、人工的に魔力の振動刃を発生させ、物理兵器が効かないバグモンスターにもダメージを与えられるようにしてある」
「へぇーっ! 魔道具の剣ってわけですね! ソラのタブレットに近い仕組みだ!」
颯太が目を輝かせてレイピアを覗き込む。
「ああ。だが、所詮は急造の模造品だ」
アーサーがトリガーを離すと、刀身の光が消え、柄の隙間からプシューッと熱い蒸気が漏れた。よく見ると、レイピアを握る彼の右手には革手袋がはめられていたが、その手首は高熱と振動の反動で赤く腫れ上がっている。
「カートリッジ一本につき、稼働時間はわずか五分。おまけに使うたびに激しい電磁波と熱のフィードバックが走り、生身の神経を削られる。……私の部隊の精鋭たちにも同じ仕様の銃剣を持たせていたのだが、すでに半数以上が反動と敵の猛攻で倒れ、野戦病院へ運ばれてしまった」
自分の身体がボロボロになるのも構わず、魔法を持たない生身の身で、彼は必死にこの街を守り続けていたのだ。
「……アーサーさんらしいわね。でも、もう無理はしなくていいわ。ここからは私たちが前に出るから」
私が言うと、アーサーは「ありがとう、感謝する」と頷き、私たちを装甲車へと案内した。
基地を出た装甲車部隊は、サイレンを鳴らしながらロンドン中心部へと続く幹線道路を疾走した。
市街地に近づくにつれ、街から避難する市民たちの長い車列と、それを取り締まるイギリス軍の戦車部隊の姿が増えていく。
そして二十分後、私たちはテムズ川の南岸、ランベス橋のたもとに築かれた『最終防衛ライン』の前線基地へと到着した。装甲車のハッチを開けて外へ出ると、少し距離のある川の向こう岸に、あの巨大な赤黒い霧の壁がそびえ立っていた。
川面を渡ってくる風は氷のように冷たく、霧の奥からは、ゴォォーン……ゴォォーン……と、音程の狂った不気味な鐘の音が、まるで死者の弔鐘のように重苦しく響いてきている。
「……あの鐘の音は、ビッグ・ベンか?」
悠斗が眉をひそめて霧の向こうを睨みつける。
「ああ。種子の核は、テムズ川の対岸にあるウェストミンスター宮殿……通称ビッグ・ベンの時計塔の最上部に根を張っている」
アーサーが前線基地のテントに広げられたロンドン中心部の地図を指差した。
「距離にすれば、ここからわずか一キロ余りだ。君たちの脚力なら数分で辿り着ける距離に思えるだろう。……だが、あの赤黒い霧そのものが、我々の侵入を阻む最大の障壁になっている」
「どういうことですか?」
ソラが魔道具のタブレットを起動して霧の方へと向けた瞬間、「あっ……!?」と声を上げた。
タブレットの画面に表示されたレーダーマップが、激しい砂嵐のようなノイズにまみれ、方位磁針のアイコンがぐるぐるとデタラメに回転し始めたのだ。「磁気と電波が完全に狂ってる……!? それだけじゃありません、空間の座標データそのものが、霧の中で複雑に折り畳まれています!」
ソラが驚愕に目を見開く。
「私も見てみます! 『遠隔透視、クレアボヤンス』……!」
咲が両手を額に当てて霧の奥へと意識を飛ばしたが、数秒で「うっ……!」と頭を押さえてよろめいた。隣にいた光輝がすかさず彼女の肩を支える。
「だ、ダメです……! 霧の粒子一つひとつに高濃度の魔力が込められていて、私の透視の視界が鏡の迷路みたいに乱反射してしまいます! 百メートル先すらまともに見えません!」
「咲の透視まで弾かれるだと……!?」
光輝が信じられないというように霧の壁を見上げた。
「それが、このロンドンのバグ領域の特性だ」
アーサーが険しい声で言った。
「ニューヨークの種子がアメリカの現代文化やSFを反映していたのに対し、このロンドンに落ちた種子は、この土地に何百年も刻まれてきた歴史と集合無意識……すなわち『アーサー王伝説』や『中世の騎士道』、そして『西洋魔術の結界術』のイメージを色濃く吸収して発芽したらしい」
アーサーは懐中時計を握りしめ、霧の奥でぼんやりと浮かび上がる時計塔の巨大なシルエットを見上げた。
「あの霧は、かつてアーサー王の伝説に語られた妖精郷アヴァロンを隠す『幻惑の霧』であり、同時に侵入者の方向感覚を奪って永遠に彷徨わせる、巨大な魔術迷宮だ。GPSも無線も通じず、私の部下たちも、霧に一歩足を踏み入れた途端に互いの姿を見失い、孤立したところを各個撃破された」
「なるほどね……。アメリカが力押しなら、イギリスは伝統的な『結界と戦術』で守りを固めているってわけね」
私がステッキを握り直し、どうすればこの霧の迷宮を突破できるか思考を巡らせた、まさにその時だった。
ゴォォォォーンッ!!!!
霧の奥から、これまでで一番大きく、耳をつんざくような時計塔の鐘の音が鳴り響いた。
直後、ランベス橋の上を塞いでいた赤黒い霧が、まるで生き物の口が開くようにブワッと手前へと膨張し、橋のこちら側に並べられていたイギリス軍の装甲車やコンクリート製のバリケードを、一気に霧の中へと飲み込んだのだ。
『うわぁぁぁっ! 霧が広がってきたぞ!』
『前衛部隊、下がれ! 何か来るぞ!!』
前線基地の兵士たちが悲鳴を上げ、アサルトライフルを構えて後退する。
次の瞬間。ザッ……、ザッ……、ザッ……!!
霧の中から聞こえてきたのは、獣の咆哮でも、機械のモーター音でもなかった。
重厚な鋼鉄の具足が、一糸乱れぬリズムでアスファルトの地面を踏みしめる、氷のように冷徹で統率された行軍の足音だった。
「来るぞ! 全員、武器を構えろ!」
悠斗が大剣星斬りを引き抜いて前に出る。
ぶ厚い赤黒い霧のカーテンを割って、ソイツらは姿を現した。それは、身長二メートルを超える、漆黒の西洋甲冑に身を包んだ騎士たちの軍団だった。
ただの中世の鎧ではない。黒鉄のフルプレートアーマーの継ぎ目からは赤黒い魔力の瘴気が陽炎のように立ち昇り、兜のスリットの奥には、冷酷な二つの赤い光が宿っている。
さらに異様だったのは、横一列に並んだ前衛の十体の黒騎士が、それぞれの左腕に身の丈ほどもある巨大な長方形の盾を構え、右手に長さ三メートルを超す円錐形の突撃槍、ランスを水平に構えていたことだ。
まるで中世の重装歩兵が組む密集陣形、ファランクスそのものだった。
『撃てぇぇぇっ!!』
イギリス軍の隊長が号令を飛ばし、兵士たちの機関銃と戦車の主砲が一斉に火を噴いた。
ダダダダダダッ!! ドゴォォォンッ!!
無数の銃弾と戦車の徹甲弾が、黒騎士たちの列へと殺ならばと殺到する。だが、弾丸が着弾する直前。
黒騎士たちの空間がジジッ! とノイズを上げて「一秒前の位置」へと巻き戻ったかと思うと、彼らはすぐさま巨大な黒鉄の盾をガシャンッ! と隙間なく連結させて地面へと突き立てた。
すると、連結された十枚の盾の表面に刻まれていた、ケルトの組紐文様にも似た複雑な赤いルーン文字が、一斉にギラリと妖しく発光したのだ。
カァァァァンッ!! ドガァァァンッ!!
戦車の砲弾と機関銃の弾幕が盾の壁に直撃した瞬間、信じられないことに、砲弾は盾に傷一つつけられないまま上空へと弾き返され、無数の銃弾も赤い光の膜に阻まれてパチンコ玉のように足元へとバラバラと転がり落ちた。
「なっ……戦車の砲撃を、盾だけで真正面から弾き返しただと!?」
颯太が目を丸くして叫ぶ。
「いや、物理攻撃だけなら俺の雷で中身の丸焼きにしてやるぜ! まとめて痺れろ、『チェインライトニング』!!」
光輝が前に飛び出し、両手のガントレットから超高圧の青白い雷撃を放った。
大気を裂く一筋の雷の奔流が、一直線に黒騎士たちの連結盾へと噛みつく。金属の鎧を着た相手なら、これほど相性の良い攻撃はないはずだった。しかし……。
パァァァンッ!!
光輝の雷撃が盾の壁に触れた瞬間、盾に刻まれた赤いルーン文字が再び強く輝き、雷撃がまるで油膜に弾かれた水滴のように左右の空中へと綺麗に受け流され、地面へと霧散してしまったのだ。
「なっ……!? 嘘だろ、金属の盾なのに、俺の電気が少しも通らねぇぞ!?」
光輝が愕然として自分のガントレットを見つめる。
「私も試してみるわ! 『暴風衝撃波、ウインド・ブラスト』!」
舞が槍を振るって空気の砲弾を撃ち込んだが、やはり盾のルーン文字が光った瞬間に、突風はピタリと勢いを失って消滅してしまった。
「待ってください! あれは、ただの硬い金属の盾じゃありません!」
ソラがタブレットの解析画面を睨みつけ、焦燥に満ちた声で叫んだ。
「あの盾に刻まれたルーン文字には、ヨーロッパの古い魔術伝承にある『城壁の守護概念』がそのままプログラムされています! つまり、『正面から飛んでくる矢や砲弾、遠距離の魔法攻撃はすべて無効化して弾き返す』という概念そのものが固定された、『概念装甲』なんです!」
「概念装甲ですって……!?」
私は唇を噛んだ。
ただ出力の高いビームや雷を正面から撃ち込むだけでは、システムによって「遠距離攻撃」と判定され、あの盾の壁にすべて無効化されてしまうのだ。そして、こちらの攻撃を防ぎきった黒騎士の軍団が、一斉に赤い目を光らせた。
ガシャン、ガシャン、ガシャンッ!!
十体の前衛が盾を構えたまま、機関車のような凄まじい質量と速度で一斉に突撃を開始し、その後ろに控えていた後衛の十体の黒騎士が、赤い魔力を纏った大剣を抜いて一斉に跳躍してきたのだ。
「くそっ、ただのバケモノの群れじゃねぇ! こいつら、完全に軍隊の戦術で動いてやがるぞ!」
悠斗が大剣を構え直して叫ぶ。
遠距離の魔法を弾く難攻不落の盾の壁と、五感を狂わせる赤黒い霧。
アメリカの戦場とは全く異なる、歴史と魔術の概念が牙を剥くロンドンの死闘が、幕を開けた。
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