第216話:『摩天楼の喝采と、限界の凱旋』
第216話:『摩天楼の喝采と、限界の凱旋』
エンパイア・ステート・ビルの尖塔を蝕んでいた『種子の核』が砕け散り、マンハッタンを覆っていたバグ領域は完全に消滅した。
それに伴い、非常階段を満員電車のように埋め尽くしていたバグモンスターの群れも、エレベーターシャフトを塞いでいた鋼鉄のツタも、すべて跡形もなく霧散していた。
ただし、地上四百メートルを超える百二階の展望台から一階まで、自分たちの足で階段を下りる体力は、もう誰一人として残っていなかった。
「……動いたぞ。非常用電源が生きてやがったみたいだな」
悠斗がエレベーターホールのボタンを押すと、重苦しいモーター音と共に、奇跡的に無事だった大型の業務用エレベーターが百二階へと上がってきた。
私たちは肩を貸し合い、引きずるようにして足を動かしながら、鉄の箱の中へと乗り込んだ。
「梨花、……これ大丈夫だよな?」
「もし途中で落っこちてしまったら、魔法で減速して受け止めるから安心して。……ただ、楽に降りられそうなら、エレベーターを試してみましょう」
私も疲労がたまっていて、全員で空にダイブするほどの重力魔法は、きついと思っていたので、正直助かる思いだった。
十人がすし詰めになったエレベーターの内部には、激闘の熱気と、焦げたオゾンや硝煙の匂い、そして自分たちの汗の匂いが濃密に立ち込めていた。
階数表示のデジタル数字が、百、九十、八十……と、ゆっくりとカウントダウンしていく。
誰も口を開かなかった。先ほどソラと咲が感知した「ビルの地下深くにある謎の人工施設と、培養された種子」のことが、全員の頭の中に鉛のような重さで居座っていたからだ。
やがて、チーン、という少し間延びしたベルの音が響き、一階ロビーの扉が左右に開いた。
「……とにかく、まずは外に出ましょう。ミラー局長たちと合流するのが先決よ」
私はステッキを杖代わりにして床を突き、先頭を歩いてロビーへと踏み出した。
私たちが上る時に『ジャスティス・サークル・カッター』でくり抜いた天井の大穴からは、まだパラパラと細かいコンクリートの砂が落ちてきており、床には円盤状の巨大な瓦礫がいくつも転がっている。
それらを回り込むようにして避け、砕け散った正面エントランスの回転ドアを抜けて、五番街の路上へと足を踏み出した、まさにその時だった。
「……っ、眩しい……」
摩天楼のビルの谷間から差し込んできた黄金色の朝日に、私は思わず目を細めて片手で廂を作った。
夜の間に降り積もった灰色の粉塵が、朝の光の中でキラキラと舞っていて、つい美しいと思ってしまった。冷たく澄んだ冬の空気が肺の奥まで流れ込み、熱を持った喉を心地よく冷やしてくれた。
そして、視界が光に慣れた瞬間。私は目の前に広がる光景に息を呑み、ピタリと足を止めた。
ビルから百メートルほど離れた場所に張られた黄色い規制線の向こう側。
そこには、装甲車やパトカー、消防車が何十台も並び、何百人もの米軍兵士やニューヨーク市警の警官、煤だらけの消防士、さらには避難所から飛び出してきた何千人もの市民たちが、通りを埋め尽くすように詰めかけていたのだ。
私たちがビルの入り口から姿を現した瞬間、ざわめいていた群衆が、まるで水を打ったように静まり返った。
無理もない。今の私たちは、誰の目に見ても地獄の底から這い上がってきたような凄惨な姿をしていた。
私の隣に立つジャックのトレードマークである真っ赤なマントは、激しいレーザーの熱と爆風で半分以上が黒焦げになってボロボロに千切れていた。サラの清楚な修道服も、コンクリートの粉塵と擦り傷で白く汚れ、裾が破れている。
私や悠斗たち日本のメンバーも、防刃スーツの至る所が裂け、泥と汗にまみれて肩で荒い息を吐いていた。
一秒、二秒、三秒……。
耳が痛くなるほどの張り詰めた沈黙が、五番街の大通りを支配した。
すると突然、規制線の最前列に立っていた大柄な消防士の一人が、被っていた黄色いヘルメットを脱ぎ捨て、掠れた声で力いっぱい叫んだ。
『……やったぞ! あいつらが、頂上のバケモノを倒してくれたんだ!!』
その一声が、凍りついていた空気を一気に溶かした。
『見ろよ、あの赤いマントの兄ちゃんとシスターを! 以前ブロードウェイで、逃げ遅れた俺たちを盾になって守ってくれてた二人だ!』
『俺も見たぞ! あの兄ちゃんが指先から白い光の柱を撃ち出して、ビルの上の赤い悪魔をぶち抜きやがったんだ! コミックなんかじゃない、本物のスーパーヒーローだぜ!!』
わあああああああああっ!!!!
誰かの叫びを合図にしたかのように、五番街の通り全体がビリビリと揺れるほどの爆発的な歓声と、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
最新鋭の兵器でも歯が立たずに悔し涙を呑んでいた屈強な米軍兵士たちが、ライフルを空へ掲げて咆哮する。警官たちが帽子を宙へ放り投げ、市民たちが抱き合い、涙を流しながら指笛を吹いて飛び跳ねている。
報道陣のテレビカメラが一斉にレンズを向け、無数のフラッシュが焚かれる中、その熱狂の視線は、私たちの先頭に立つジャックとサラの二人へと注がれていた。
「え……? お、おい、これって……俺たちのこと、なのか……?」
ジャックが信じられないというように目を丸くして、自分の黒焦げになった赤いマントの端と、熱狂する大群衆とを交互に見た。
ほんの数時間前まで、彼はただの目立ちたがり屋で、ヒーローコミックの真似事をしては周囲から浮いている青年だった。軍や警察の人間からも「力任せで危なっかしい自警団もどき」と陰口を叩かれていた彼が、今は紛れもなく、数百万人のニューヨーカーの命と誇りを救った英雄として迎えられていたのだ。
『ありがとう、ジャスティス・ディフェンダーズ!!』
『神のご加護を、勇敢なシスター!!』
規制線のすぐ下から、母親に手を引かれた小さな男の子が、ちぎれんばかりに手を振って叫んだ。
その無垢な声を聞いた瞬間、サラの大きな碧い瞳がみるみるうちに潤み、我慢していた大粒の涙がポロポロと頬を伝って溢れ出した。
彼女は泥と擦り傷だらけになった両手で胸元の銀の十字架をぎゅっと握りしめ、震える唇で小さく、けれど聖女のように美しく微笑んで、市民たちに向かって深く頭を下げた。
隣に立つジャックも、鼻の頭を真っ赤にしてグッと奥歯を噛みしめていた。
彼の目尻から熱いものがこぼれ落ちそうになるのを、彼は乱暴に腕で拭い去ると、ボロボロのマントを朝の風になびかせながら、昇りゆく太陽に向かって右手の親指を力強く突き上げた。
「……オーイェー! 見たかニューヨークの市民の皆さん! ニューヨークの平和は、俺たちが守り抜いたぜーっ!!」
ジャックの豪快で底抜けに明るい咆哮が摩天楼に響き渡ると、群衆から再び地鳴りのような大歓声と、「USA! USA!」という誇り高い大合唱が湧き起こった。
「ふふっ……。見て、悠斗。もう誰が見ても、あの赤いマントを笑う人なんて一人もいないわね」
私はジャックたちの栄光を邪魔しないように一歩後ろへと下がり、ステッキに体重を預けて悠斗の腕にそっと寄りかかった。
「ああ。自分の弱さと向き合って、泥水に顔を突っ込みながら自分たちの手で掴み取った勝利だ。……文句なしに、あいつらがこの街の主役だよ」
悠斗も大剣星斬りを背中の鞘へと収め、いつもよりずっと柔和で優しい目つきで、誇らしげに胸を張る二人の教え子の背中を見守っていた。
後ろに立つ光輝や颯太、メイや舞、ソラや咲たちも、自分たちのことのように顔を綻ばせて惜しみない拍手を送っている。
文化や言葉、魔法に対する固定観念の違い。その分厚い壁を乗り越えて、私たちが伝えてきた「戦うための理」が、海の向こうの大地で確かな希望の芽を吹いた瞬間だった。
その熱狂の渦をかき分けるようにして、数台の黒塗りの大型ラグジュアリーSUVが、タイヤをきしませながら規制線の内側へと滑り込んできた。
先頭の車両のドアが乱暴に開き、転がり出るようにして駆け寄ってきたのは、CIAのミラー局長だった。
彼の顔には徹夜の疲労が濃く滲んでいたが、その表情は信じられない奇跡を目の当たりにした驚愕と歓喜に染まっている。
「ジャック! サラ! そして日本の特異点小隊の諸君……! なんと言葉にしていいか分からない。君たちは、合衆国の歴史に残る奇跡を起こしてくれた!」
ミラー局長が両手を広げて私たちの手を握ろうと歩み寄った、まさにその時だった。
「……あっ……」
頂上決戦からずっと極限まで張り詰めていた私の心身の糸が、勝利の安堵によってぷつりと音を立てて切れた。
最上階で『超重力屈折レンズ』と『超重力牽引』という二つの大技に、残りの魔力のすべてを注ぎ込んだ反動が、津波のように全身の神経へと襲いかかってきたのだ。
目の前の景色がぐにゃりと大きく歪み、耳鳴りと共に膝から完全に力が抜ける。冷たいアスファルトの地面が、急速に私の顔へと迫ってきた。
「っと、危ねぇな」
私が地面に倒れ込む寸前、隣にいた悠斗の逞しい腕がスッと伸びてきて、私の身体を片腕で軽々とすくい上げるように抱き留めた。
そのまま彼は、もう片方の腕を私の膝の裏へと回し、自然な動作で私を『お姫様抱っこ』の形で軽々と抱え上げたのだ。
「ひゃっ……!? ゆ、悠斗、ちょっと、みんなの前で……!」
「暴れるな。顔が真っ青だぞ、自力で立てねぇくせに強がるんじゃねぇよ」
悠斗に低い声でたしなめられ、私は羞恥で耳まで熱くなりながらも、反論する気力すら出ずに彼の広い胸板へと力なく頭を預けた。防刃スーツ越しに伝わる彼の強い心音と体温が、冷え切った私の身体をじんわりと温めてくれる。
「り、梨花教官!? 大丈夫ですかっ……きゃあっ!?」
私に駆け寄ろうとしたメイも、自分の足がもつれてその場にぺたんと女の子座りでへたり込んでしまい、それを支えようとしたサラと咲まで、ドミノ倒しのように重なって尻もちをついた。
「ははっ……ダメだ、俺も足が鉛みたいに重くて一ミリも動かねぇっす……」
「腹が減りすぎて、もう短剣を握る力も残ってませんよ……」
光輝と颯太も、我慢の限界とばかりにその場のアスファルトの上へ大の字に寝転がり、空を見上げて荒い息を吐き始めた。
「ミラー局長。悪いが、感動の演説やインタビューは後にしてくれ」
悠斗が私を軽々と抱え上げたまま、鋭い鷹のような視線でミラー局長を見据えた。
「見ての通り、こっちは全員、魔力も体力もすっからかんだ。……それに、こんな往来のど真ん中で、マスコミや一般人に聞かれるわけにはいかない『最高に厄介な土産話』がある。すぐに人目を避けられる安全な場所へ案内してください」
悠斗の低く押し殺した声に宿る、ただならぬ冷たい気配。
それを敏感に察知したミラー局長は、歓喜の表情を瞬時に消し去り、百戦錬磨の諜報機関トップの厳しい顔へと戻って深く頷いた。
「……分かった。すぐに特別車両へ乗れ。我々が臨時司令部として接収しているホテルへ案内する」
兵士たちに抱えられながら黒塗りのSUVへと乗り込む私たちの背後では、まだ何も知らない市民たちの無邪気な歓声が鳴り響いていた。
だが、私の視線は、車の窓ガラス越しにそびえ立つエンパイア・ステート・ビルの根元、その遥か地下深くに潜む『暗闇』へと向けられていた。
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