第214話:『百二階の魔神と、空間リセットの罠』
第214話:『百二階の魔神と、空間リセットの罠』
ドクンッ……ドクンッ……!!
エンパイア・ステート・ビルの九十三階。粉塵と錆びた鉄の匂いが充満する薄暗いオフィスフロアに、頭上からは巨大な心臓の鼓動のような重低音が響き渡っていた。
割れた窓ガラスの隙間から吹き込んでくる高層の風は、氷のように冷たく、肌をチリチリと刺すような高濃度のオゾン臭を含んでいる。
「……すごい圧迫感ね。新宿の地下にいた『バベル』よりも、魔力の密度がずっと高いわ」
私はじっとりとした冷や汗が滲む掌でステッキを強く握り直し、九十三階の天井を睨みつけた。震えそうになる膝にぐっと力を込め、深く息を吸い込む。
隣に立つ悠斗は、大剣星斬りの柄に親指をかけ、獰猛な笑みを浮かべて首をコキリと鳴らした。
「相手にとって不足なし、ってやつだな。ここまでの垂直突破で、俺たちの体力も魔力も十分に残ってる。このまま一気に最上階までぶち抜いて、ケリをつけるぞ」
「待ってください、教官!」
タブレットの画面を激しく叩いていたソラが、銀縁眼鏡の奥の瞳を険しく見開いて顔を上げた。画面の赤いグラフが、危険域を示して激しく点滅している。
「今、屋上の尖塔部分にある『種子の核』のエネルギー波形を計測したんですが……まずいです! 核がマンハッタン中の地下送電網から強引に電力を吸い上げて、臨界点に近づいています!」
「臨界点ですって!? どうなるの、ソラくん!」
「あと五十分以内に核を破壊できなければ、第二段階の発芽プロセスが完了し、このタイムズスクエアのバグ領域が現実空間に『完全固定』されます! そうなれば、もう核を壊しても元のニューヨークには二度と戻りません! バグモンスターの巣食う地域となって、更に外側に浸食していくでしょう」
五十分。
ソラが告げた非情なタイムリミットに、その場の全員の息が詰まった。
「オーマイガー……。俺たちの街が、一生このままサイバーパンクの魔境になっちまうってのかよ!?」
ジャックが自分の赤いマントを両手で鷲掴みにし、顔面を蒼白にして叫ぶ。
「うろたえるな、バカ弟子! 五十分もありゃ十分だ!」
悠斗が一喝してジャックの背中をバシンと叩き、咲の方へと振り返った。
「咲、百二階の展望台までのルートはどうなってる!?」
「は、はいっ! 『遠隔透視、クレアボヤンス』……!」
咲が両手を額に当て、震えるまつ毛を閉じて上層階へと意識を飛ばす。
「九十四階から百一階までは、すでにボスの干渉で床や壁が溶け合って、巨大な吹き抜けの空洞になっています! この九十三階の天井さえ抜けば、百二階の展望フロアまで一直線です!」
「よし、聞いたわね、ジャック! これが最後のホールソーよ!」
「おうっ! ニューヨークの未来が、俺の指先に懸かってるってわけだな! いくぜ、『ジャスティス・サークル・カッター』!!」
ピシュゥゥゥンッ……、ギュイィィィンッ!!
ジャックが右足を踏み込み、人差し指を天井へ突きつけて、極細のレーザー光線をぐるりと円形に走らせた。
赤熱した光の刃が九十三階の分厚い鉄筋コンクリートをバターのように切り裂き、切り抜かれた巨大な円盤状の塊が、ドゴォォォンッ! と耳をつんざく轟音を立てて私たちのすぐ脇へと崩れ落ちる。
サラとメイの盾が粉塵を弾き返した瞬間、開いた天井の大穴から、猛烈な突風と赤黒いノイズの奔流が滝のように吹き下ろしてきた。
「みんな、飛ぶわよ! 『広域重力軽減、フェザー・ウェイト』!」
「風よ、私たちを頂上へ運んで! 『暴風上昇気流、ストーム・アップドラフト』!」
私がステッキを振るって十人全員の体重を極限まで軽くし、舞が槍を旋回させて全力の竜巻を巻き起こす。二つの魔法が重なり合い、私たちの身体は砲弾のように垂直の縦穴へと撃ち上げられた。
溶け落ちた鉄骨やネオン管が巨大な獣の肋骨のように剥き出しになった吹き抜け空間を、私たちは風に乗って一気に舞い上がる。
そして百二階の床の亀裂を抜け、ついに最上階の展望フロアへと飛び出した。
「……っ、なによ、これ……!」
コンクリートの床に着地してステッキを構えた私は、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
地上約四百メートル。本来なら観光客がガラス越しに摩天楼の夜景を楽しむはずの百二階展望台は、外壁も天井も完全に吹き飛び、吹き晒しの場と化していた。
さらにその頭上、百三階にあたる電波塔の尖塔には、直径十メートルを超える赤黒いクリスタル状の『種子の核』が絡みつき、ドクンドクンと不気味な光を脈打たせている。
そして、その核を守護するように、ソレは空中に浮遊していた。
『■■■・タイラント(未定義エラー)』
私の視界の端に、真っ赤なシステム警告のポップアップが激しく明滅する。
それは、米軍が撃墜された最新鋭の戦闘ヘリや装甲車の残骸と、アメコミに登場する機械化スーパーヴィランがグロテスクに融合したような、全長八メートルもの鋼鉄のモンスターだった。
背中からは巨大なジェットタービンと電波塔のパラボラアンテナが突き出し、四本の無骨な機械の腕には、重厚なガトリング砲と赤く発光する高周波ブレードが握られている。そして胸の中央には、人間の負の感情を煮詰めたような毒々しい紫色のコアがギラついていた。
「で、でけぇ……! コミックの最終巻に出てくるラスボスそのものじゃねぇか!」
ジャックが引きつった笑みを浮かべ、一歩後ずさる。
『侵入者ヲ、排除スル……正義ハ、システムノ中ニ在リ……!』
壊れたスピーカーから流れるような不気味な合成音声が響くと同時、タイラントの四本の腕が一斉に持ち上がり、銃口をこちらに向けてきた。
「来るぞ! サラ、メイ!」
「はいっ! 『絶対防壁、イージス・オブ・ゴッド』!」
「『ハニカムシールド』!」
悠斗の声に反応し、サラの多面体プリズムと、メイの黄金の六角形シールドが私たちの前面で二重に重なり合う。
直後、ズダダダダダッ!! と空気が引き裂かれるような轟音と共に、魔力を帯びた無数の銃弾と紫色の極太レーザーが、豪雨のように降り注いだ。
ガガガガガッ! と目が眩むような火花が散り、展望台の床が激しく削り取られる。しかし、物理法則を組み込んだサラのプリズムがレーザーの光を屈折させて夜空へ逸らし、メイの盾が銃弾の凄まじい運動エネルギーを完璧に外側へと受け流していく。
「すげぇ、あのバケモノの猛攻を完全に防ぎきったぞ!」
「今のうちだ! 俺たちで一気に懐へ飛び込んで、巻き戻りを誘発させるぞ!」
「……まじすか」
弾幕が途切れた一瞬の隙を突き、悠斗が地を蹴った。光輝、颯太、舞の三人も、まるで一つの生き物のように息を合わせて後に続く。
「まずは動きを止めるっすよ! 『連鎖雷撃、チェインライトニング』!」
光輝が両手のガントレットを打ち合わせ、放たれた青白い雷の奔流がタイラントの脚部装甲を焦がす。バチバチと火花が散ってボスの駆動系が一瞬ロックされたところへ、左右から颯太と舞が飛び込んだ。
「これでどうだッ!」
「断ち切るわ!」
颯太の紅い魔力刃を纏った二刀流と、舞の放つ真空の槍撃が交差し、ガトリング砲を持った下側の腕二本を、火花と共に根元から同時に斬り落とした。
さらに、私の『重力軽減』で高く跳躍した悠斗が、大剣星斬りに白いオーラを漲らせて真っ向から振り下ろす。
ガギィィィンッ!!
凄まじい金属音と共に、ボスの肩口から胸の装甲までが斜めに大きく斬り裂かれ、中央の紫色のコアが剥き出しになった。
『ガ、ガガッ……システム、損傷……!』
「よし、深いダメージが入った! 数秒後に奴が巻き戻るぞ、ジャック、狙え!」
悠斗がボスの反撃を警戒してバックステップで距離を取りながら叫んだ。
「任せとけ! 俺の正義の弾丸からは逃げられねぇぜ!」
後方で片膝をつき、右手の指先を銃のように構えていたジャックが、極限まで圧縮した小さな太陽のような光の玉をコアに向けて合わせる。
これで決まる。誰もがそう確信し、一瞬だけ安堵の息を呑んだ。
ジジッ……!!
空間に激しいノイズが走り、タイラントの斬り落とされた腕が赤いポリゴンとなって接合され、五秒前の無傷の状態へと巻き戻った。
システムが空間座標を再同期するための、コンマ数秒の硬直、ラグ。
「そこだァッ! ぶち抜け、『ジャスティス・レイ・ストライク』!!」
ピシュゥゥゥンッ!!
ジャックの指先から放たれた光速のレーザーが、大気を焼き焦がしながら一直線に伸び、タイラントの胸の紫色コアをど真ん中から貫いた、かに見えた。
だが、次の瞬間だった。
キィィィンッ……バチィッ!!
タイラントの背中にそびえる巨大なパラボラアンテナが、目も眩むほど怪しく発光した。
直後、レーザーが命中したはずのボスの周囲の空間そのものに、ガラスが割れるような無数の亀裂が走り、景色がグニャリと歪んで「逆再生」されたのだ。
ハッと気がつくと、タイラントの胸を貫いたはずのレーザーは跡形もなく消滅していた。
それどころか、撃ったはずのジャック自身が、なぜか「レーザーを放つ直前の構え」の姿勢へと強制的に戻されており、彼の指先にはまだ発射される前の光の玉が収束していたのだ。
「なっ……!? なんだ今のは!? 俺、確かに撃ったはずだぜ!? なんで撃つ前に戻ってるんだ!?」
ジャックが自分の右手を見て、信じられないというように驚愕の声を上げる。
「うそでしょ……そんなのあり得ないわ!」
私の背筋に、氷水を浴びせられたような悪寒が走った。
「まさか……!」
タブレットの波形を睨んでいたソラが、血の気を失った声で叫んだ。
「教官、こいつ、自分自身の肉体を巻き戻したんじゃありません! 背中のアンテナを通じて頭上の『種子の核』から膨大な電力を引き出し、自分の周囲半径三十メートルくらいの『空間そのものの時間』を、事象ごと数秒前にロールバックさせたんです!」
「空間そのものを巻き戻すですって!? そんなの、どんな攻撃も絶対に当たらないじゃない!」
私が悲鳴のような声を上げた直後、タイラントの残りの腕がガシャン! と不気味に変形し、身の丈ほどもある巨大な電磁加速砲、レールガンの砲身が現れた。
『脅威度、上方修正……全力ヲ以テ、消去スル……!』
ボスの胸のコアとレールガンの砲身に、空間が歪むほどの紫電が収束していく。
「まずい! 全員、防御しろッ!!」
悠斗が私たちの前に割り込み、大剣を盾のように構えた、その瞬間。
ドゴォォォォォンッ!!!!
音速の壁を遥かに超えた電磁弾が放たれ、サラとメイが展開していた二重障壁のど真ん中に直撃した。
パリンッ! ガシャアァァァンッ!!
絶対の強度を誇っていたはずのサラの多面体プリズムが、まるで本物のガラス細工のように粉々に砕け散り、内側のメイの黄金の盾にも大きなひび割れが走る。
「きゃああああっ!?」
「うわあああっ!?」
防ぎきれなかった凄まじい衝撃波が暴風となって吹き荒れ、サラとメイの小さな身体が、木の葉のように展望台の端まで吹き飛ばされて床に叩きつけられた。
「サラ! メイちゃん!」
「ぐっ……! クソッ、なんつう威力だ……!」
悠斗と光輝も衝撃波に押されて数メートル後退し、ブーツの底でコンクリートの床を削りながら辛うじて踏みとどまる。
ソラのタブレットに表示されたタイマーは、無情にも『残り三十分』を切っていた。
「はぁ、はぁ……っ。そんな……私の『絶対防壁』が、一撃で……」
瓦礫の中で身を起こしたサラが、震える手で十字架を握りしめ、絶望の表情でモンスターを見上げる。
ダメージを与えても、必殺のレーザーを撃ち込んでも、当たる直前に「空間ごと時間がリセット」されてしまう無敵の防御。そして、こちらの盾を一撃で粉砕する圧倒的な火力。
「あと三十分しかねぇってのに、攻撃を当てる前に空間ごと巻き戻されるなんて……どうやってあのバケモノを倒せばいいんだよ……!?」
光輝の悲痛な叫びが、赤黒い雲が渦巻く摩天楼の頂上に虚しく響き渡った。
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