第204話:『騙し絵の迷宮と、巻き戻る鉄の百足』
第204話:『騙し絵の迷宮と、巻き戻る鉄の百足』
封鎖された新宿駅・東口地下広場へと通じる階段の前には、黄色い規制テープが力なく垂れ下がり、先遣隊として突入したはずの警察の特殊部隊の装備だけが、主を失ったまま傍らに集められていた。
血痕はない。争った形跡すらない。ただ「人間だけがその空間から消えた」ような、あまりにも不気味な静寂がそこにあった。
「……なんだよ、この空気感。肌がピリピリしやがるな」
悠斗が背中の大剣星斬りの柄に手をかけながら、低く唸った。
地下への入り口から漏れ出してくるのは、カビや埃の匂いではない。稼働しすぎたサーバーラックが発するような熱気と、オゾンの焦げたような匂い。
「みんな、気をつけて。……ここはもう、私たちの知っている新宿じゃないわ」
私はステッキを握りしめ、颯太と舞、そしてソラや光輝たちを振り返った。
彼らは緊張に顔を強張らせながらも、しっかりと手にした武器やタブレットを構え、深く頷き返してくれた。
私たちは隊列を組み、ゆっくりと地下広場へと足を踏み入れた。
そして数十段の階段を降り切った瞬間、私たちの平衡感覚は、根底から暴力的にへし折られた。
「う、わぁぁっ!?」
突如、颯太の体がふわりと宙に浮き上がった。
「颯太くん!」
私が慌てて彼の腕を掴むが、引っ張られる感覚のベクトルがおかしい。彼は「上」へ落ちようとしているのだ。
見上げれば、本来の天井にあたる部分のコンクリートに、サラリーマンや学生の姿をした半透明の幻影たちが、私たちを見下ろすように「逆さま」に歩いている。
さらに右手の壁からは、地下水が滝のように「横に向かって」激しく噴き出し、左手の壁へと吸い込まれていく。
「重力が……面ごとに独立して、デタラメに働いてる……! まるで、騙し絵だ!」
ソラが銀縁眼鏡を押さえながら、信じられないものを見る目で周囲の空間を睨みつけた。
「空間の座標軸が完全にシャッフルされています! 基礎定数であるはずの重力加速度まで、数メートル歩くごとにランダムに書き換わっている様です! これじゃ、魔法の着弾点すら計算できない!」
「計算が追いつかないなら、感覚で上書きするまでよ!」
私はステッキを高く掲げ、私たちの周囲半径三メートルの空間だけを、私の魔力で強制的に「地球の本来の重力」へと固定するイメージを展開した。
「相対重力、ローカルアンカーッ!」
ドンッ! と見えない錨を下ろしたように、宙に浮きかけていた颯太が床へと引き戻された。
「ハァッ……ハァッ……。助かった、教官。すげぇな、ここ……マジで吐き気がするぜ」
「安心するのはまだ早いぞ、新入り」
悠斗が、鋭い視線を前方の改札口へと向けた。
ガシャッ、ガシャガシャガシャッ!!
突如、横一列に並んでいた自動改札機のフラッパー扉が、獲物を狙う肉食獣の顎のように激しく開閉を始めた。それだけではない。無機質なはずの改札機のボディが、赤いポリゴンの粘液でドロドロと変異し、無数の鋭い牙と金属の触手を生やした『ゲートトラップ』へと変貌を遂げたのだ。
「改札機が……化け物になった!?」
舞が悲鳴を上げる。
日常の風景が、剥き出しの殺意を持って襲いかかってくる恐怖。それが『箱舟』の落とした種子がもたらす、現実とファンタジーの最悪の融合だった。
「来るぞッ!」
悠斗が注意をするように声を上げる。
触手が鞭のようにしなり、私たちを一刀両断にしようと襲いかかってくる。
「させませんっ! 展開、ハニカムシールド!」
メイが前に躍り出て、黄金の盾を展開する。金属の触手が盾に激突し、凄まじい火花が散る。
「颯太! 舞! 俺の背中から離れるなよ!」
悠斗が床を蹴り、巨大な大剣を振り抜いて三台の改札機モンスターをまとめて粉砕した。
日常の無機物が変異した怪物は、見た目こそおぞましいが、耐久力はそれほど高くないようだ。
「……よし、このまま一気に奥へ……」
私が安堵の息を吐きかけた、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!!
地下空間全体を揺るがす、圧倒的な地鳴り。
前方の暗いトンネルの奥から、二つの強烈なヘッドライトの光がこちらへ向かって急速に接近してきた。
「地下鉄の車両……!? でも、あんな形……」
光の向こう側から姿を現したのは、通勤電車の車両と、巨大なワームの肉体がグロテスクに融合した巨大なムカデの様なバグモンスターだった。
車両の窓ガラスからは無数の蠢く赤い眼球が覗き、先頭車両の連結部分は、すべてを噛み砕く巨大な円形の牙へと変異している。
『■■■■■ォォォォォォッ!!!!』
耳をつんざく金属の軋み声と共に、鋼鉄のムカデがトンネルを食い破りながら私たちへ向かって突進してきた。
「あんなのが来たら、私の盾ごと潰されちゃいますっ!」
「下がるな! 俺が止める!」
悠斗が咆哮し、身体強化のオーラを最大まで引き上げて正面から迎え撃つ。
「オラァァァァッ!!」
大剣星斬りで、鋼鉄のムカデの先頭車両を脳天から唐竹割りにするように振り下ろした。
ズバァァァァァァァンッ!!!!
火花と赤いポリゴンが飛び散り、巨大な怪物の動きが完全に停止した。
「やった……!」
颯太が歓声を上げた、その直後だった。
ジジッ……!!
空間全体に、古いビデオテープが巻き戻るような激しいノイズが走った。
「……え?」
私の視界が、コマ送りのようにカクカクと乱れた。
真っ二つに斬り裂かれたはずの鋼鉄のムカデが、赤いポリゴンのノイズに包まれたかと思うと、次の瞬間には無傷の状態で、悠斗の目の前に存在していたのだ。
時間が、巻き戻った?
「なっ……!?」
悠斗が驚愕に目を見開くが、振り抜いてしまった大剣を戻すことは物理的に不可能だった。
ズゴォォォォォンッ!!!!
「がはぁッ!?」
時間を巻き戻して攻撃をなかったことにした鋼鉄のムカデの突進が、悠斗の無防備な身体を直撃した。
巨体に吹き飛ばされ、悠斗は改札の残骸に背中から激しく叩きつけられる。
「悠斗!!」
私は悲鳴を上げ、ステッキを向けて鋼鉄のムカデの足元の重力を奪おうとした。
だが、再び空間にノイズが走る。
私の魔法が発動する直前の状態にまで時間が巻き戻り、魔法をキャンセルされた上で、ムカデの巨大な尾が私と舞を薙ぎ払おうと迫ってきたのだ。
「光輝くん、防いで!」
「おっしゃァッ! 電磁障壁!」
光輝がとっさに電撃の壁を作り、尾の直撃をなんとか逸らす。
「嘘でしょ……事象そのものをキャンセルしてるっていうの!?」
「教官、違います!」
絶望的な状況の中、ソラがタブレットの画面を血眼で睨みながら叫んだ。
「これは時間操作の魔法じゃありません! 空間の通信ラグ……処理落ちと巻き戻りロールバックです!」
「処理落ち!?」
「はい! この『箱舟』の種子は、現実世界の膨大な情報量を無理やりアルメルシアのシステムで処理しようとしている! そのせいでサーバー側に莫大な負荷がかかり、現実とシステムの同期にズレが生じているんです! 敵はダメージを受けた瞬間、強引に数秒前の座標と状態を読み込み直して、こちらに理不尽な攻撃を押し付けてきてるんです!」
ゲームのオンライン対戦で起こる最も理不尽な現象のひとつ。自分が攻撃を当てたはずなのに、ラグのせいで「なかったこと」にされ、逆に相手の攻撃だけが一方的に通ってしまう悪夢のような現象。それを、現実世界の命のやり取りでやられているというのだ。
「そんなの、どうやって倒せばいいんすか! 斬っても無かったことにされるなら無敵じゃないすか!」
颯太が短剣を構えながら絶望的な声を上げる。
「いいえ、無敵じゃないわ」
私は血を吐きながら立ち上がる悠斗の姿を確認し、ソラへと振り返った。
「システムが巻き戻りを行うなら、必ず『同期をとるためのタイミング』があるはずよ。ソラくん、この空間のフレームレートの更新タイミングを計算できる?」
「……! やってみます!」
ソラは銀縁眼鏡を押し上げ、迫り来るムカデの動きと、空間に走るノイズの波長を猛烈な勢いで計算し始めた。
「……同期のタイミングは四・五秒周期! そして、巻き戻りの起点が設定される瞬間、わずか〇・二秒だけ、システムが外部からの干渉を受け付ける脆弱なフレームが発生しています!」
「上等だ。……その〇・二秒に、全部叩き込めばいいんだな」
口の端から血を流した悠斗が、大剣を握り直して私たちの前に戻ってきた。
「颯太! 舞! お前らの仕事だ! 俺と梨花で奴の動きを止める。ソラのカウントに合わせて、お前らがその『起点』をぶっ壊せ!」
「お、俺たちが!?」
「きっとできるわ。あなたたちの思いを、一点に圧縮させるのよ!」
私の言葉に、颯太と舞は顔を見合わせ、そして強く頷いた。
「行きます……みんな合わせてください。……次の同期まで、あと四秒! 三、二……!」
ソラのカウントダウンが始まる。
鋼鉄のムカデが、三度目の突進の構えに入った。
「梨花!」
「ええ! 『熱対流、サーマルコンベクション』!!」
私はムカデの周囲の空気を極限まで熱し、強烈な上昇気流を生み出してその巨体を宙へと浮かせた。
同時に悠斗が跳躍し、大剣でムカデの進行方向を完全に物理的にロックする。
「一、……今だッ!!」
ソラの絶叫と共に、空間に一瞬だけ赤いノイズの『核』のようなものが明滅した。
それが、システムが現実を上書きするためのセーブポイントの起点。
「オラァァァァァッ!!」
颯太が、紅い魔力のオーラを短剣の薄皮一枚に極限まで圧縮させ、赤いノイズの核へと目にも留まらぬ速度で投擲した。
そして。
「貫けェェッ!!」
舞の槍が、颯太の短剣の軌道を正確に追いかけるように突き出される。穂先の抵抗を極限まで下げた、音速を超える真空の刺突。
パリィィィィンッ!!!!
二人の新人の連携が、見事にシステムの『起点』である赤いノイズを粉々に打ち砕いた。
「これで……巻き戻しはできねぇぞ、化け物ッ!!」
同期を断たれ、システム的な不死性を失った鋼鉄のムカデの頭上へ、悠斗の大剣星斬りが渾身の力で振り下ろされた。
ズガァァァァァァァァンッ!!!!
今度はノイズは走らない。
圧倒的な質量による一撃が、鋼鉄の車体と生肉の融合体を完全に叩き潰し、赤いポリゴンの塵へと変えて吹き飛ばした。
轟音の余韻が地下広場に響き渡り、やがて静寂が戻った。
「……はぁっ、はぁっ……! や、やった……!」
颯太がその場にへたり込み、舞も安堵の涙を浮かべて槍を杖代わりにして息をついた。
「よくやったわ、二人とも。完璧なタイミングだったわ」
私が彼らに歩み寄り、肩をポンと叩く。
「へっ。……少しはやるようになったじゃねぇか、新入り」
悠斗も大剣を背中に収め、満足そうに鼻を鳴らした。
だが、安堵する時間は私たちには残されていなかった。
ズズズズズズッ……!!
鋼鉄のムカデが消滅したトンネルのさらに奥深くから、まるで地下全体が蠢くような、より巨大で、よりおぞましい無数のノイズ音が響き始めたのだ。
「……どうやら、ここはまだ入り口の『門番』に過ぎなかったみたいね」
私はステッキを握り直し、騙し絵のように狂い続ける地下迷宮の深淵を睨み据えた。
現実世界を喰い破る、新たなる箱庭の胎動。
人類の生存領域を懸けた防衛戦は、まだその第一歩を踏み出したばかりだった。
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