第201話:『現実の温度と、新しい歯車たち』
第201話:『現実の温度と、新しい歯車たち』
「……みんな、よくやったわ。私たちも現実へ戻りましょう」
私が深呼吸をして声をかけると、光輝や咲、ソラ、メイたちもホッと安堵の表情を浮かべて頷いた。
時計を見れば、レンから言い渡されていた『三時間』のタイムリミットまで残り十分を切っていた。巨大なバグモンスター『■■■・コレクター』との死闘で魔力を限界まで使い果たした私は、自分たちの足元に帰還用の魔法陣を展開するだけで、立っているのがやっとの状態だった。
「ほら、捕まれ」
大剣を背負った悠斗が、ふらつく私の腰に無言で腕を回し、体を支えてくれる。防刃スーツ越しに伝わる彼の高い体温と、力強い腕の感触に、張り詰めていた緊張の糸がスッと解けていくのを感じた。
「……ありがとう、悠斗」
私たちが互いの温もりを確かめ合うように寄り添う中、淡い緑色の光が六人の体を包み込んだ。
崩れかけた深層の祭壇と、鉛色の空が白い光の中に溶けていく。
プシュゥゥゥッ……!
市ヶ谷の地下深くに新設された特別治験区画。私たちがダイブしていた教官用カプセルのハッチが、重々しい排気音と共に一斉に開いた。
「……っ、ん……」
カプセル内の冷たい空気が頬に触れ、私はゆっくりと目を開けた。仮想空間の重苦しい泥のような空気とは違う、消毒液の匂いが混じった現実世界の病院のような匂い。
私は左耳につけていた波長増幅用のイヤーカフをそっと外し、カプセルの縁に手をついて身を起こした。
「お疲れ様、特異点たち。見事な仕事だったわ」
カプセルの前では、腕を組んだレンと、タブレットを持った佐藤博士が私たちを出迎えてくれた。
二人の顔には、いつもの厳しい表情の中にも、確かな安堵の色が浮かんでいた。
「レンさん、佐藤博士……。颯太くんたちは……」
「安心しなさい。君たちが彼らの恐怖心を打ち砕いてくれたおかげで、深層領域の澱は晴れ、ほかの治験者たちのバイタルは劇的に安定し始めているよ」
佐藤博士が、タブレットの画面を私たちに見せた。フロアの奥に並ぶ数百台のカプセルのランプが、危険を示す赤色から、穏やかな緑色へと次々に変わっていくのが見える。
「君たちが導いた数十人が覚醒して戻ってきただけでなく、彼らの帰還が波及効果を生み、自力で覚醒の兆候を見せ始めている者も増えている。……これなら、君たちのデータを元に育成する『専任の指導員』たちを投入することで、時間はかかっても、必ず全員を安全に目覚めさせられるだろう。君たちは最高の『教官』としての役目を果たしてくれたよ」
佐藤博士の優しい労いの言葉に、私は胸の奥がつかえたように熱くなり、深く頷いた。
「教官殿たちは、無事に帰還したようだな」
フロアの入り口から、黒田局長が足早に歩み寄ってきた。
「メディカルルームでの初期検査が終わった者たちから、君たちに会わせるよう手配している。……来なさい」
黒田局長に案内され、私たちはカプセルの並ぶフロアを抜け、隣接する広々としたメディカルルームへと足を踏み入れた。
そこには、防衛省が用意したゆったりとした検査着に着替えた少年少女たちが、毛布にくるまりながら温かいスープを飲んだり、医師の問診を受けたりしていた。
「お兄ちゃん! ほら、教官の人たちだよ!」
部屋の隅のベッドから、十代前半くらいの小柄な少女、結衣が、パッと顔を輝かせてこちらを指差した。
その隣で、紙コップを持っていた赤茶色の髪の少年が弾かれたように立ち上がる。
中村颯太だった。
彼は現実の体を取り戻し、仮想空間での傷や汚れこそ消えていたが、その鋭い目つきと、内側から溢れ出るような強い魔力のオーラは、アルメルシアで見た時と全く変わっていなかった。
「……あんたたち」
颯太は私たち六人の顔を順番に見渡し、特に私と、その隣で気怠そうに立つ悠斗の姿を食い入るように見つめた。
「アルメルシアでも化け物かと思ったけど……現実で見ると、もっとヤバいオーラ出してんだな。近づいただけで肌がピリピリするぜ」
「おいおい、命の恩人に向かって化け物とは失礼な後輩っすねぇ」
光輝がニヤリと笑いながらガントレットの拳を打ち鳴らす。
「うるせぇ。雷兄ちゃんも大概だっただろ。……でも、助けてもらったのは事実だ。……ありがとうございます」
颯太は光輝の軽口に憎まれ口で返しつつも、私たちに向かって深く頭を下げた。
どうやら素直な優しい性格の持ち主のようだ。
その隣のベッドからは、神殿で助け出した槍の少女、神楽坂舞も立ち上がり、背筋を伸ばして一礼した。彼女の凛とした黒髪と澄んだ瞳は、現実世界で見るとより一層、確固たる意志の強さを感じさせた。
「神楽坂舞です。……アルメルシアでは、私たちの仲間を救ってくれて本当に感謝しています」
「いいのよ。みんな無事に現実へ帰ってこられて、本当によかったわ」
私が微笑むと、颯太の後ろから結衣がひょっこりと顔を出し、「梨花お姉ちゃん、魔法、すっごく綺麗だった! 助けてくれてありがとう!」と無邪気に笑った。
そのあどけない笑顔を見て、私は心から胸を撫で下ろした。
数百人を実験台にするという非情な政府の決断。しかし、彼らの心が摩耗して壊れてしまう前に、少数でもこうして温かい現実の光の中へ引き戻すことができたのだ。
「さて。感動の再会も済んだところで、今後の処遇について現実的な話をさせてもらおうか」
黒田局長が咳払いをして、颯太と舞たちに向き直った。
「今回までに覚醒を果たした数十人のうち、君たちのように実戦に耐えうる強い魔力と精神適性を持っていた者は、事前の予想通りごく僅か……十数人程度だった」
局長の言葉に、颯太と舞の表情が引き締まる。
「結衣くんのように、魔力回路は開通したものの、まだ戦闘には不向きな者、あるいは本人が戦いを望まない者については、政府が最高レベルの保護プログラムを適用し、安全な施設で普通の生活を送れるよう手配する」
「本当か!? 結衣は……もう、あんな怖い思いをしなくていいんだな!?」
颯太が食い気味に問い詰めると、局長は静かに頷いた。
「ああ、約束しよう。……だが、君たち適性上位者の十数名は別だ。君たちには、セクションゼロの『追加要員候補』として、この施設で戦闘と魔力制御の基礎訓練課程へ進んでもらう。……覚悟はできているか?」
局長の重々しい問いかけに、メディカルルームにピンと張り詰めた沈黙が落ちた。
無理もない。つい先ほどまで死の恐怖を味わっていた十代の子供たちに、いずれは本当の戦場へ赴けと言っているのだ。
だが、颯太の瞳に迷いはなかった。彼は結衣の頭を優しく撫でると、一歩前に出た。
「……結衣が安全な場所で笑って暮らせるなら、俺はなんだってやってやるよ。それに……」
颯太は、私の隣に立つ悠斗を真っ直ぐに見据えた。
「アルメルシアで消える直前、言ったよな。現実に戻ったら、絶対に教官の特訓を受けてやるって。……俺を鍛えろよ、教官。あんたみたいに、デカい剣で化け物を一刀両断できるくらいにな」
「私もです」
舞が一歩進み出て、凛とした声で宣言した。
「自分の身を守る力は自分で身につける。……瀬戸梨花教官、橘光輝先輩。あなたたちの無駄のない連携、私も直に学ばせてもらいたいです」
二人の強い決意に、光輝が「ふふっ、先輩かぁ。なんか照れるっすね!」と鼻の下を擦って照れ笑いし、咲とメイも新しい仲間たちの姿に目を輝かせている。
悠斗は口の端を獰猛に吊り上げ、颯太の挑発を正面から受け止めた。
「へっ。威勢だけは一人前だな。いいぜ、絶望するくらいしごいてやる。……だが、俺が直々に相手をしてやるのは、もう少し先だな」
「え……?」
颯太が怪訝な顔をしたその時、レンがタブレットを操作しながら私たちの前に進み出た。
「彼らの基礎訓練は、別の教官スタッフに任せるわ。あなたたち特異点小隊には、もうゆっくりしている時間はないのよ」
レンは表情を引き締め、声のトーンを落とした。
その言葉の直後だった。メディカルルームの自動ドアが開き、パチ、パチ、パチ……と、無機質で乾いた拍手の音が響いてきた。
「素晴らしいお涙頂戴の劇ですね。さすがは、隣国の軍事プラントを単独で壊滅させた『日本の特異点』たちだ」
私たちが一斉に振り返ると、仕立ての良いグレーのスーツを着た三十代半ばほどの細身の男が立っていた。銀縁のソラとは違う、フレームのない冷たい眼鏡をかけ、手には分厚い電子バインダーを抱えている。
「……誰だ、あんた」
悠斗が鋭い視線を向けると、黒田局長が苦虫を噛み潰したような顔で重々しく口を開いた。
「内閣官房・超常安全保障会議から派遣された、特別監査官の氷室氏だ。……隣国での作戦について、上層部から正式な査問に来た」
「査問、ですか?」
私が眉をひそめると、氷室と名乗った監査官は、感情の読めない薄い笑みを浮かべて一歩前に出た。
「ええ。あなた方が先日行った隣国での作戦は、結果的に成功したとはいえ、現場で『余計な情け』をかけたせいで中枢コアの完全破壊がコンマ数秒遅れました。その結果、太平洋に潜む武装シンジケート『箱舟』へ、日本の最高機密であるあなた方の戦闘データが流出してしまったのです」
「なっ……! 余計な情けって、あの培養槽の子供たちを見殺しにしろって言うんすか!?」
光輝が血相を変えて詰め寄ろうとするのを、悠斗が片腕を伸ばして無言で制した。氷室は眼鏡の奥の目を細め、冷酷な声で告げた。
「今、『箱舟』はあなたたちのデータを手に入れ、不気味な沈黙を保っています。いずれ彼らが本格的な行動に出れば、真っ先に狙われるのは、彼らの大元のシステムと関わりが深い『オリジナルの実験素体』……瀬戸梨花、および風間悠斗の二名でしょう」
氷室の指先が、バインダーの画面をコツンと叩いた。
「ゆえに政府は、あなた方二名を『特別保護観察下』に置き、外部との接触を禁じて安全な施設へ隔離すべきだと考えています。これ以上、未熟な感情で国を危険に晒すわけにはいきませんからね」
その突き放すような言葉に、メディカルルームの空気が一瞬にして凍りついた。しかし、悠斗は声を荒らげることもなく、ただ口の端を獰猛な三日月型に吊り上げた。
「……へぇ。俺たちを隔離するって? 面白い冗談だな、眼鏡のおっさん。あんたの連れてきたその黒服どもが何人束になれば俺たちを止められるか、今ここで実験してみるか?」
悠斗から発せられる本物の殺気に、氷室の背後に控えていた保安要員たちが顔色を失って後ずさる。
「野蛮な脅しは感心しませんね。これは内閣官房の……」
「……残念だったわね、氷室監査官。あなたがここで官僚主義のおままごとをしている間に、黒田局長を通じて防衛大臣から直接の決裁を取ったわ」
レンが氷室の言葉を遮り、手元のタブレットの画面を彼の鼻先に突きつけた。
「セクションゼロは特異点二名の隔離を拒否する。大元のシステムたる『箱舟』がいずれ動き出すというのなら、私たちがやるべきことは彼らを鳥籠に閉じ込めることじゃない。この新たな適性者たちを実戦レベルまで鍛え上げ、こちら側の戦力を拡大することよ。それが最も合理的な防衛策だわ」
レンの氷のように冷徹な言葉に、氷室は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
「……チッ。いいでしょう。大臣の直轄命令とあらば引き下がります。ですが、一歩でも対応を間違えれば、その時は私の権限であなたたちを拘束しますからね! せいぜい足掻くことです!」
氷室は捨てるように怒鳴り散らすと、革靴の音を荒々しく響かせながら部屋から出ていった。
嵐のような監査官が去り、部屋に再び静寂が戻る。
「……ふぅ〜っ! なんなんすか、あの嫌味な眼鏡は!」
光輝が大げさに肩の力を抜いた。
「気にしなくていいわ。上層部の相手は私たち大人がするわ」
レンがタブレットを閉じ、颯太と舞、そして私たちの方へと向き直った。
「でも、あいつの言う通り、『箱舟』があなたたちのデータを手に入れたのは事実よ。AIである彼らが次にどんな手を打ってくるかは分からないわ。……太平洋の爆弾騒ぎのような、大規模なテロを起こしてくる可能性だって十分にあるのよ」
レンの言葉に、私と悠斗の顔色が変わる。
「だからこそ、悠斗。梨花。あなたたちに、休んでいる暇はないわ。一刻も早く、彼ら追加要員候補を一人前の戦力に引き上げなさい」
「……そういうことだ、新入り」
悠斗が大剣の柄を肩越しに軽く叩き、颯太と舞を見下ろしてニヤリと笑った。
「俺たちが海の底の親玉とぶつかる前に、精々この施設で基礎体力でもつけておけ。……明日から、地獄の特訓を始めてやるからな」
「……っ! ああ、望むところだ! 絶対に強くなってやるよ、教官!」
颯太が力強く拳を握りしめ、舞も深く頷いた。新たな仲間たちを迎え入れた安堵の裏で、世界を巻き込む『箱舟』との避けられない戦いの足音は、確実に近づいている。
私は彼らの熱い視線を背に受けながら、隣に立つ悠斗と深く頷き合い、来るべき激戦と、明日からの新たな試練に向けて、静かに決意の炎を燃やした。
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