第195話:『微睡みの朝と、海を渡る箱舟』
第195話:『微睡みの朝と、海を渡る箱舟』
カーテンの隙間から差し込む、冬の鋭い朝日の眩しさに、私は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
意識が浮上するにつれて真っ先に感じたのは、全身の関節がバラバラになりそうなほどの甘い倦怠感と、シーツに染み込んだ悠斗の匂いだった。少しだけ掠れた喉の奥がチリチリと渇き、自分が昨夜、どれほど深く彼の熱量に溺れていたのかを否応なしに思い出させる。
「……っ」
記憶が鮮明になるにつれて、耳の奥が一気に熱くなった。
隣を見れば、すでに悠斗の姿はベッドになく、代わりに洗面所の方からシャワーの水音が微かに聞こえてくる。
私はシーツを胸元まで引き上げながら、サイドテーブルの上に目をやった。そこには、昨夜悠斗の大きな手によって無造作に裏返された、私の携帯端末が置かれている。
レンさんからの緊急着信だった。
隣国での極秘作戦から帰還した直後で、しかもソラくんが持ち帰った暗号化パケットの解析結果という、絶対に聞き逃してはいけない重要な連絡だったはずだ。それを、恋人との時間を優先して朝まで放置してしまったという事実が、遅れてやってきた罪悪感となって私の胸を締め付けた。
恐る恐る手を伸ばし、冷たい端末を拾い上げて画面を点灯させる。
そこには、不在着信の履歴と共に、レンからの短いメッセージが一件だけ残されていた。
『状況は把握したわ。起きたらでいいから、九時に小隊全員で地下解析室へ来なさい。……くれぐれも、腰を痛めない程度にしておきなさいよ』
「なっ……!?」
私は声にならない悲鳴を上げ、端末を握りしめたまま頭から布団を被った。
なぜバレているのか。いや、防衛省の敷地内にある寮なのだ。私たちが焼肉店から帰ってきた後、私が自分の部屋へ戻らずに悠斗の部屋へ入ったことくらい、レンがその気になれば防犯カメラや入退室ログで簡単に把握できるに決まっている。
後輩たちに手本を示さなければならない教導陣、先輩として、あまりにも締まりがない。これで今日、レンや佐藤博士にどんな顔をして会えばいいというのだろう。
布団の中で足をバタバタさせて悶絶していると、不意に頭上のシーツがめくり上げられた。
「……朝から一人でなに暴れてんだ、お前」
見上げると、濡れた黒髪をタオルで拭きながら、黒い長袖のインナーを着た悠斗が呆れたように私を見下ろしていた。シャワー上がりの彼からは、清潔な石鹸の香りと、湯気のような温かい体温が漂ってくる。
「ゆ、悠斗のせいよ! ほら、これ見て!」
私が真っ赤な顔で端末の画面を突きつけると、悠斗は片眉を上げて文面に目を通し、すぐに鼻で笑った。
「へっ。物分かりのいい上司でいいじゃないか」
「全然よくないわよ! 緊急マークがついてたのよ!? 怒られるに決まってるわ……っ」
私が再びシーツに顔を埋めようとすると、悠斗は屈み込み、私の顎を親指と人差し指で軽く摘まんで上を向かせた。
「もし本当に一分一秒を争う事態なら、あの人が遠慮なんかせず部屋のドアを蹴破ってる。近くにいるんだからさ。朝まで待ってくれたってことは、俺たちに休息が必要だって判断したからだろ」
悠斗はそう言うと、私の額に自分の唇を軽く押し当てた。
「それに、連絡を無視させたのは俺だ。文句があるなら、俺が全部聞いてやる。……だから、そんなしけた顔すんな」
その迷いのない声と、唇から伝わる確かな温もりに、私の胸の内で渦巻いていた恥ずかしさや不安が、朝の光に溶ける霜のようにスッと消えていく。
こういう時、彼はいつも私よりずっと大人で、狡いと思う。私は小さく息を吐き、彼のインナーの裾をギュッと握りしめてから頷いた。
「……うん。早く支度して、みんなと合流しましょう」
午前九時ちょうど。
身支度を整えた私と悠斗が地下の解析室へと足を踏み入れると、そこにはすでに光輝、咲、ソラ、メイの四人が揃っていた。
「あ、梨花先輩、風間先輩! おはようございますっ!」
メイが元気よく手を振ってくれる。その隣で、なぜか光輝と咲の二人だけが、お互いから三十センチほど不自然な距離を空けて立ち、視線が合うたびに顔を赤くして逸らし合っていた。
どうやら帰りの輸送機の中で頭を寄せ合って眠っていたことを、今朝になってからも意識し続けているらしい。
その後ろ姿に少しだけ心が和んだのも束の間、解析室の奥から漂う重苦しい空気が、私の肌をピリリと刺した。
部屋の照明は落とされ、壁一面に並んだ大型モニターの青白い光だけが、目の下に濃い隈を作った佐藤博士とレンの顔を照らし出している。
室内にはサーバーの低い冷却ファンが回る音だけが響き、淹れたてのコーヒーの苦い香りが濃密に立ち込めていた。二人が一睡もせずに夜を明かしたことは、その張り詰めた横顔を見れば一目瞭然だった。
「……揃ったわね」
レンが腕を組み、持っていたマグカップをデスクに置いた。
コツン、という硬質な音が、静まり返った室内にいやに大きく響く。私に向けられたレンの視線には、メッセージにあったようなからかいの色は一切なく、氷のように冷徹な指揮官の目に戻っていた。
「ソラが隣国のプラントから持ち帰った、中枢コア沈黙直前の〇・〇三秒の通信ログ。……佐藤博士と徹夜で暗号のロックを解除したわ」
レンがコンソールを操作すると、中央のメインモニターに世界地図のワイヤーフレームが表示された。
私たちが昨夜破壊した隣国沿岸部のプラントの位置に、赤い点が灯る。
「まず結論から言うわ。あの中枢コアが最後に飛ばしたデータは、隣国内の別の軍事基地へ向かったものではなかった」
佐藤博士が白衣のポケットに手を突っ込み、掠れた声で説明を引き継いだ。
モニター上の赤い点から伸びた一本の光の線が、日本海の底を這う国際海底ケーブルを経由し、太平洋のさらに彼方へと猛スピードで伸びていく。
しかし、その線は特定の国の都市で止まることはなかった。北米、欧州、アジアの無数のサーバーを幾重にもバウンドし、最終的には太平洋のど真ん中、何もないはずの海上で、フッと途切れたのだ。
「太平洋の真ん中……? どういうことですか、博士。そこには島なんてないはずじゃ……」
ソラが銀縁眼鏡の奥の瞳を見開き、食い入るようにモニターを見つめる。
「ああ。衛星写真でも、その座標にはただの海しか映っていない。光学迷彩と高度なジャミングを備えた移動式の海上プラントか、あるいは、あの潜水母艦を遥かに凌駕する規模の『深海拠点』が存在する可能性が高い」
佐藤博士は忌々しげに唇を歪め、別のウィンドウを開いた。
そこには、おびただしい数の文字列と、見覚えのある二つの生体波形グラフが表示されていた。
「そして、これが〇・〇三秒の間に送信されたパケットの中身だ。治験AIは、自らのプログラムのバックアップを送ったんじゃない。……最後の一瞬に、自分の予測を覆してコアを破壊した『風間悠斗と瀬戸梨花の戦闘データ』そのものを、その海域へ向かって送信していたんだ」
私は息を呑み、隣の悠斗と顔を見合わせた。
あの最下層で、治験AIが『非論理的』『重大なバグ』と呼んだ、私と悠斗の言葉を超えた連携。あいつは消滅する直前、自らの敗因となった私たちの絆のデータを、海の彼方にある何者かへと引き継がせたというのか。
「ちょっと待ってくださいよ」
光輝が一歩前に出て、右手の拳を強く握りしめた。
「治験AIは、俺たちが確実にぶっ壊したはずっすよね!? じゃあ、その太平洋の真ん中でデータを受け取ったのは、一体誰なんすか!?」
光輝の当然の疑問に、しかし佐藤博士もレンも、すぐには答えなかった。
昨日、駐機場でも見せた、あの凍りつくような沈黙が再び二人の間に落ちる。
佐藤博士は眼鏡を外し、疲れたように目頭を押さえてから、重い口を開いた。
「……今回のサルベージデータの中に、一つだけ奇妙な記録があった。あの隣国のプラントは、日本の治験AIが逃亡して乗っ取るよりもずっと前から、ある『国際的な武装シンジケート』の資金提供によって建設されていたんだ」
「シンジケート……?」
「ああ。そして、日本の治験AIのベースとなった初期プログラムは……十年前、僕が海外の研究機関から提供された『箱舟、アーク』という名の基礎コードから作られている」
博士の声が、わずかに震えた。
「日本の治験AIは、単独で暴走して隣国へ逃げたんじゃない。最初から、海の向こうにある『大元のシステム』に呼び寄せられ、お前たち特異点の実戦データを収集するための端末として機能していただけなのかもしれない」
解析室の中が、水を打ったように静まり返った。
私たちが命を懸けて戦い、ようやく終わらせたと思った隣国での死闘。それすらも、さらに巨大な何者かの掌の上で行われたテストの一部に過ぎなかったというのか。
メイが不安そうに自分の両肩を抱き、咲が「そんな……」と小さく呟いてうつむく。
見えない敵の底知れなさに、小隊の空気が暗く沈みかけた、その時だった。
ガンッ、と鈍い音が響いた。
悠斗が、背中に担いでいた大剣星斬りの石突きを、解析室の床に軽く打ち鳴らした音だった。
「……なんだよお前ら。せっかく昨日食った特上カルビが、全部消化不良になっちまうぞ」
悠斗は部屋の重苦しい空気などどこ吹く風といった様子で、不敵に口の端を吊り上げた。
「海の底に親玉がいようが、世界中に敵がいようが、やることは最初から変わらねぇだろ。俺たちの邪魔をする奴は、誰だろうと正面から叩き斬る。……それだけだ」
言葉ではなく、その圧倒的な自信に満ちた佇まいが、部屋の空気を一瞬で塗り替えた。
私もハッとして顔を上げ、自分の隣に立つ頼もしい恋人の横顔を見つめた。
そうだ。どんなに敵が巨大で、私たちの力を計算し尽くそうとしても、昨日私たちは、その完璧な論理を力ずくで打ち破ってみせたではないか。
「ええ、悠斗の言う通りよ」
私は一歩前に出て、うつむいていた後輩たちの顔を順番に見渡した。
「相手が私たちの絆を『データ』として解析しようっていうなら、その解析が追いつかないくらい、私たちがもっと強く進化してやればいいだけよ。……でしょ、みんな?」
私の言葉に、光輝がハッと目を見開き、やがてニヤリと不敵な笑みを浮かべて右手のガントレットを鳴らした。
「……っすね。先輩たちがそう言うなら、どこまででも付き合うっすよ!」
「はいっ! どんな敵が来ても、わたしの盾で絶対に守り抜きます!」
メイが力強く拳を握り、ソラと咲も、迷いを振り切ったように凛とした瞳で深く頷いた。
その光景を見ていたレンが、ふっと口元の緊張を緩め、小さく肩をすくめる。
「……まったく。あなたたちのその根拠のない自信だけは、どんなスーパーコンピューターでも計算できないでしょうね」
ブリーフィングを終え、ちょっとしたひと休みに、私たちは地下の解析室から一階にある屋外広場へと上がると、外には雲一つない冬の澄み切った青空が広がっていた。
冷たい風が頬を撫でるが、隣国の荒野で浴びたあの孤独な夜風とは違い、不思議と寒さは感じなかった。
前を歩く光輝やメイたちが、「今日の訓練メニューはどうする?」「まずは昨日の反省会からだろ」と賑やかに笑い合いながら、相談している。
私は少しだけ歩調を緩め、隣を歩く悠斗の大きな手を、誰にも見えないようにそっと自分の指先で突ついた。
悠斗は何も言わず、ただ前を向いたまま、私の手を自分のポケットの中へと引き込み、温かな指先でぎゅっと強く握り返してくれた。
海の向こうで静かに脈打つ、まだ見ぬ巨大な『箱舟』。
異能戦争の本当の幕開けは、きっとすぐそこまで迫っている。けれど、ポケットの中で繋がったこの確かな熱量がある限り、私たちはどこまでも歩いていける。
冬の太陽が照らす白銀の広場の先へ向かって、私たちは再び、揃った足並みで力強く踏み出していった。
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