第194話:『約束の凱旋と、満たされる夜』
第194話:『約束の凱旋と、満たされる夜』
「……ん……」
頬をかすめる、少し硬くて温かい指先の感触に、私は浅い眠りの底から引き上げられた。
うっすらと瞼を開けると、すぐ目の前に悠斗の整った横顔があった。私の頭はまだ彼の広い肩に預けられたままで、毛布の下では、絡め合った指先がじっとりとした熱を帯びている。
「起きたか、寝ぼすけ。……着いたぞ」
悠斗が私の頬から指を離し、小さく顎をしゃくった。
ジェットエンジンの騒音のなか、ガコン、という重たい着陸の衝撃がシートの底から伝わってくる。小窓の外には、見慣れた防衛省の建物と駐機場の無機質なコンクリートが広がっていた。
後部ハッチがプシュゥゥゥッと音を立てて開くと、その衝撃音で光輝や咲、ソラ、メイたちも次々と目を覚ました。特に光輝と咲は、お互いの頭を寄せ合って眠っていたことに気づいた瞬間、弾かれたように飛び退き、耳まで真っ赤にして明後日の方向を向いている。
そんな微笑ましい光景に胸を撫で下ろしながら、私たちは装備を抱えてタラップを降りた。
誘導灯の下では、白衣姿の佐藤博士と、腕を組んだレン、そして黒スーツに身を包んだ局長が、張り詰めた面持ちで私たちを待ち構えていた。
私は小隊の先頭に立ち、背筋を伸ばして敬礼した。
「セクションゼロ、特異点小隊! 隣国プラントの中枢コア破壊、および現地レジスタンスとの共同作戦を完了し、ただいま全員無事に帰還しました!」
私の報告が終わると、張り詰めていた駐機場の空気が一気に緩んだ。
局長が深い安堵の溜息を吐き、レンが口元の緊張を解いて微かに微笑む。
「……よく帰ってきたわね、あなたたち。誰一人欠けることなく、上出来よ」
「レンさん、佐藤博士。これ、中枢コアのサーバーからサルベージした全データです」
ソラが前に出て、抱えていたタブレットから記録媒体を抜き取り、レンへと手渡した。
「ただ……コアが沈黙する〇・〇三秒前に、暗号化された謎のパケットが外部の海底ケーブルへ送信されていました。そこだけ、どうしても現場では解読できなくて」
ソラの言葉に、佐藤博士の眼鏡の奥の瞳が鋭く光り、レンと無言で視線を交わした。
二人の間に流れた、凍りつくような一瞬の沈黙。何か心当たりがあるかのようなその微妙な空気に、私の胸の奥で再び小さなざわめきが疼いた。
「……わかったわ。データの解析は私たちに任せなさい」
レンは記録媒体をポケットにしまうと、すぐに普段の凛とした表情に戻り、私たちの肩を順番に叩いた。
「あなたたちは、まず泥と硝煙を落として休みなさい。……夜には、局長から特大のご褒美があるそうよ」
その日の夜。
仮眠とシャワーを済ませ、私服に着替えた私たちは、都内の隠れ家的な高級焼肉店の個室に集まっていた。
ジューッ!! という小気味よい音と共に、網の上で分厚い特上カルビと牛タンが焼かれ、香ばしいタレの匂いが部屋中に立ち込める。
「うおぉぉぉっ! 肉だ! 本物の日本の霜降り肉だぁぁっ!」
光輝が目を輝かせ、焼けたばかりの肉を白米の上にバウンドさせてから、豪快に口へと放り込んだ。
「んん〜っ! お口の中でとろけます……っ!」
メイが頬に手を当てて幸せそうに目を細め、隣ではソラが「メイ、そっちのロースも焦げる前に食べなよ」と世話を焼いている。
咲も「光輝くん、お肉ばっかりじゃなくて野菜も食べなきゃダメよ」と笑いながら、彼の小皿にサンチュを乗せていた。
死線を潜り抜けた仲間たちが、こうして温かい食事を囲んで笑っている。その当たり前の日常を取り戻せたことが嬉しくて、私も自分の小皿に取ってもらったお肉を箸で摘まんだ。
「お待たせいたしましたー。追加の上ハラミと、冷麺でございます」
個室の襖が開き、すらりとした長身の美人店員さんが、愛想の良い笑顔でお皿を運んでくる。
通路側の席に座っていた悠斗が、店員さんから自然にお皿を受け取り、「ああ、サンキュ」と短く礼を言った。
店員さんが、悠斗の鍛え上げられた体躯と大人びた顔立ちに、ほんの少しだけ頬を染めて会釈する。
たったそれだけの、何気ないやり取り。
なのに、私の胸の奥がチクリと小さく波立った。
(……そういえば悠斗って、もう二十歳になるのよね)
黒いVネックのシャツを着た悠斗は、戦場にいる時よりもずっと大人の男に見えた。それに比べて私は、まだ十代の幼さが抜けきらない、背伸びをして「先輩」と呼ばれているだけの女の子だ。
帰りの輸送機の中で、彼が耳元で囁いてくれた甘い言葉。
『俺の部屋に来いよ。……お前の魔力が空っぽになった分、俺の体温で朝までたっぷり満たしてやる』
思い出すだけで耳が熱くなるけれど、あれは極限状態から解放された直後の、いわゆる吊り橋効果だったのではないだろうか。あるいは、目が冴えて眠れなくなっていた私を安心させて寝かしつけるための、彼なりの冗談だったのかもしれない。
もし私だけが本気にして、この後ウキウキと彼の部屋に行って「え、マジで来たのかよ」なんて呆れられたら、恥ずかしすぎて重力魔法で地面に埋まるしかない。
ぐるぐると渦巻くネガティブな想像に、私の箸がピタリと止まる。
「……おい」
不意に、隣の席から低い声が飛んできた。
ハッとして顔を上げると、悠斗が呆れたように片眉を上げ、よく焼けた一番分厚いカルビを、私の小皿の上にポンと乗せたところだった。
「箸止めてどうしたんだ。肉、光輝たちに全部食われちまうぞ」
「う、うん。ごめん、ちょっと考え事してて……」
私が曖昧に笑って誤魔化そうとした、その時だった。
掘りごたつのテーブルの下で、悠斗の長い脚が伸びてきて、私のふくらはぎにコツンと触れた。
「っ……!」
ビクリと肩を揺らした私を、悠斗が横目で射抜くように見つめる。
テーブルの上では、光輝たちがデザートのアイスクリームを巡って賑やかに騒いでいる。
誰も私たちの足元に気づいていない。その秘密めいた状況の中で、悠斗の足先が、私の足首をゆっくりと撫で上げるように滑った。
「……余計なこと考えてねぇで、さっさと食え。体力つけとかねぇと、この後、持たねぇぞ」
焼肉の焼ける音に紛れて、私にだけ聞こえる声量で落とされた言葉。
私の喉が、ゴクリと小さく鳴った。冗談でも、寝かしつけるための方便でもなかったのだ。彼の黒い瞳の奥には、輸送機の中で見たあの深い熱が、今もしっかりと灯り続けていた。
それから一時間後。
お腹いっぱいになった光輝たちと寮のロビーで別れた私は、自分の部屋へ戻ることも許されず、悠斗に手首を引かれるまま彼の部屋へと連れ込まれていた。
バタン、とドアが閉まり、オートロックの電子音が静かな部屋に響く。
明かりもつけない薄暗い室内。窓から差し込む東京の夜景の光だけが、二人の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
「……ゆ、悠斗。私、まだ歯も磨いてないし、お肉の匂いが……」
急に押し寄せてきた緊張をごまかそうと、私が胸の前で手を泳がせながら後ずさると、悠斗は無言で歩み寄り、私の腰を強い力で抱き寄せた。
「俺も同じもん食ったんだから、今更だろ」
逃げ場を塞ぐように彼の顔が近づき、そのまま角度を変えて唇が重ねられる。
「……プラントで、お前があのデカい重力球を撃った時。魔力が切れて倒れるんじゃねぇかって、実は生きた心地がしなかった」
「悠斗……」
いつも余裕たっぷりで、怖いものなんて何もないような顔をしている彼が、私の知らないところでそんな風に怯えていたなんて。
さっきまで抱えていたちっぽけな不安や迷いが、熱い波に洗われるようにスッと消えていく。私は彼の黒髪に指を絡め、その頭を自分の胸へと優しく抱き寄せた。
「ごめんね。……でも、こうしてちゃんと帰ってきたわ。あなたの隣に」
「ああ。……だから、今夜はどこにも行かせねぇよ」
悠斗が顔を上げ、私を軽々と抱き上げてベッドへと運ぶ。
その時。
サイドテーブルに置かれた私の携帯端末が、ブブッ、と短いバイブレーションを立てて青白く光った。
画面に表示されたのは、『解析室・レン』という文字と、緊急を示す赤いマーク。
「あっ……レンさんから……」
私がそちらへ手を伸ばそうとした瞬間、悠斗の大きな手が私の手首を掴み、そのままシーツの上へと縫い止めた。
彼は片手でサイドテーブルの端末を裏返し、画面の光を完全に伏せてしまう。
「……今は、俺だけ見ろよ、梨花」
有無を言わさない、けれど甘く掠れた声。
少なくとも夜明けが来るまでの間だけは、私は思考のすべてを彼に委ね、愛しい人の体温の海へと深く溺れていった。
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