第183話:『越境の夜風と、冷たい案内人』
第183話:『越境の夜風と、冷たい案内人』
胃袋が浮き上がるような激しい縦揺れが、何度も機内を襲った。
光学迷彩と電波吸収塗料で漆黒に塗り潰された特殊作戦用のステルス輸送機は、隣国の厳重な防空レーダー網を掻き潜るため、荒れ狂う冬の日本海の波頭スレスレを超低空で飛行していた。
窓の外は完全な暗闇だ。月明かりすら分厚い雲に遮られ、ただ荒波の轟音だけが機体の外装を打ち付け続けている。
「……酔ってないか、お前ら」
向かいの座席に座る悠斗が、大剣星斬りを足の間に立てたまま、隣で青ざめている光輝たちに声をかけた。
「だ、大丈夫っすよ……。ちょっと、胃の中のカツ丼がシャッフルされてるだけで……」
光輝が強がって見せるが、顔色は悪く、口元を押さえる手は微かに震えている。隣のソラも、エチケット袋を片手に無言で首を横に振っていた。
無理もない。日本海を越えた先にある隣国の沿岸部までの数時間、この劣悪な乗り心地に耐え続けるのは、歴戦の兵士でも骨が折れるはずだ。
それに何より、今回の作戦は今までとは重みが違った。
極秘任務ゆえに、自衛隊からの公式なバックアップは一切ない。もし作戦が失敗し、敵に捕まれば、私たちは日本政府から、存在しないテロリストとして容赦なく切り捨てられる。文字通り、自分たちの力だけで生き抜き、帰還しなければならないのだ。
「目標の沿岸部まで、あと五分。降下準備を」
インカムからパイロットの無機質な声が響いた。
私はステッキを握り直し、大きく深呼吸をしてからシートベルトを外した。
「行くわよ、みんな。私の魔法を信じて飛び出して。そして、ここから先は、日本の常識が通用しない世界だから気を付けてね」
プシュゥゥゥッ……。
後部ハッチが開き、氷のように冷たい夜風が機内に吹き込んだ。
眼下には、見渡す限りの荒野と、錆びついたクレーンが立ち並ぶ廃港が広がっている。
私たちは一人ずつ、音もなく夜の闇へと飛び降りた。私は『重力操作』で全員の落下速度を緩め、誰一人着地音を立てることなく、コンクリートのひび割れた廃港の片隅へと降り立った。
頭上を通り過ぎたステルス輸送機が、再び光学迷彩に溶け込み、夜空の彼方へと消えていく。
これでもう、完全に後戻りはできなくなった。
「……咲ちゃん。周囲の状況は?」
私は身を低くし、瓦礫の影に隠れながら後ろの咲に尋ねた。
「やってみます。『遠隔透視、クレアボヤンス』……」
咲が目を閉じ、両手を額に当てる。
「……半径一キロ以内に、敵の巡回部隊はいません。ただ……」
「ただ?」
「この廃倉庫の屋上……私たちが着地したすぐ真上に、生体反応が一つあります。こちらをずっと見下ろしています」
「チッ!」
悠斗が即座に大剣を構え、上を見上げた。
ザッ、と微かな足音が響き、廃倉庫の屋上の縁から一つの人影が姿を現した。
「……殺気立つなよ、日本のお客さん。出迎えに来てやったんだぜ」
若い、けれどひどく掠れて乾いた男の声だった。
自動翻訳イヤホンの必要は無く、日本語での問い掛けだった。
男は屋上の縁から身軽に飛び降りると、私たちの数メートル前で音もなく着地した。
灰色のボロボロのコートのフードを深く被り、口元を汚れたマフラーで隠している。月明かりに照らされて見えたその瞳は、硝子玉のように冷え切っていた。年齢は、ソラたちとそう変わらない、十五、六歳といったところだろうか。
「……すみません。あなたが、レジスタンス『星屑の歯車』の案内人ですね?」
私がステッキを下ろし、前に進み出た。
少年はフードの奥で目を細め、私たちセクションゼロの小隊を、値踏みするように舐め回した。
彼の視線が、最新の防刃スーツを着た光輝や、まだあどけなさの残るメイやソラでピタリと止まる。
「……おいおい、冗談だろ。日本の特異点ってのは、こんな遠足気分のガキの集まりか?」
少年が心底呆れたように鼻で笑った。
「なんだと……?」
光輝がカチンときて、右手のガントレットを一歩前に突き出す。
「悪いが、俺たちは遊びでレジスタンスをやってるわけじゃない。AIの兵器プラントに潜入するんだぞ? 最新の装備を着せてもらっただけの温室育ちのガキは、足手まといになるだけだ。今すぐ海を泳いで日本に帰れ」
「お前……ッ!」
光輝が怒りでガントレットに電撃を走らせようとした瞬間、悠斗がその前にスッと立ち塞がり、光輝の胸ぐらを片手で押し留めた。
「やめとけ、光輝。……こいつはただの口が悪いガキじゃねぇ」
「風間センパイ……?」
悠斗は、大剣を肩に担いだまま、冷たい目で少年を見据えた。
「着地の時の膝の抜き方。それから、一瞬で俺たちの死角を二つ同時に押さえる立ち位置。……お前、異能使いじゃねぇな。だが、相当な死線を潜り抜けてきた動きだ」
悠斗の指摘に、少年の瞳の奥に初めて微かな驚きが浮かんだ。
そう、この少年からは魔力の波長が全く感じられない。だが、その佇まいは、血の匂いが染み付いた本物の戦士のそれだった。
「……さすがは、オリジナルってわけか。俺が戦ったコピーの人形とは、殺気の質が違う」
少年はマフラーを少しだけ下げ、冷たく笑った。
「俺の名前はジン。お前らをAIのプラントの裏口まで案内する。……だが、言っておくぞ」
ジンは、私たち一人一人の目を順番に射抜くように見つめた。
「ここでは、日本の常識も、人道も通用しない。気を抜けば秒で死ぬし、死んだ奴の骨を拾ってやる余裕なんて誰にもない。……覚悟がないなら、今すぐ引き返せ」
その言葉には、決して嫌がらせではなく、この国で生き抜いてきた者としての重く残酷な真実が込められていた。
最新の装備と、守られるべき日常がある日本から来た私たち。
ボロボロのコートを纏い、今日を生き延びるためだけにナイフを握る彼。
決して交わることのない価値観と環境の違いが、凍てつく夜風に乗って私たちの間に冷たい壁を作っていた。
「……心配いらないわよ、ジン」
私はステッキを握り直し、彼に向かって毅然とした態度で言い放った。
「この子たちは、地獄を越えてここに来た。誰一人、足手まといになんかならないわ。私たちを、そのプラントまで案内してちょうだい」
ジンは私の目をじっと見つめ返し、やがて小さく肩をすくめた。
「……なら、勝手についてこい。死んでも自己責任だ」
ジンは背を向け、廃倉庫の奥に広がる瓦礫の山へと歩き出した。
極秘の越境作戦。見知らぬ大地での、価値観の全く異なる同志との出会い。
私たちは互いの背中を守るように陣形を組み、冷たい夜風が吹く隣国の暗闇の中へと、静かに足を踏み入れていった。
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