第169話:『無慈悲な警報と、超法規の防衛線』
第169話:『無慈悲な警報と、超法規の防衛線』
別の世界での人生経験を積んで、なんだかドッと疲れている私は、深い海の底からゆっくりと浮上する様にして起き上がった。
カプセルの透明なバイザーは、プシュッと音を立てて開いていく。
無菌室特有の冷たい空気と消毒液の匂いが、肺に流れ込んでくる。私はゆっくりと額に貼られたジェルセンサーを取り外した。
「……んんっ、背中が痛ぇ」
隣のカプセルから身を起こした悠斗は、首をポキボキと鳴らしながら大きな伸びをしている。仮想空間での負傷は現実の肉体には反映されないが、精神的な疲労と筋肉の緊張は、確かな重みとして身体にフィードバックされている。
少し離れた場所に並ぶ四つのカプセルからも、起き上がってくる人の姿が見える。
「……光輝くん、咲ちゃん。気分はどう?」
私が声をかけると、カプセルから這い出す様に出てきた二人は、少し眩しそうに蛍光灯の光を見上げ、そして私たちに向かって静かに微笑んだ。
「……大丈夫です、梨花センパイ」
光輝は自分の右手を顔の高さまで持ち上げ、ゆっくりとグーパーを繰り返した。
富士演習場から帰還して以来、ずっと小刻みに震えていたその指先は、今はピタリと止まり、確かな力が込められている。
「もう、震えてないです。……あの箱庭、アルメルシアで、先輩たちの背中と、こいつらの頑張りを見てたら、ビビッてる自分が最高にダサく思えてきたんで」
光輝は隣でカプセルから出てきたソラの頭を、少し乱暴にガシガシと撫でた。
「わっ、ちょっとやめてくださいよ、光輝さん! 僕の計算されたヘアスタイルが!」
「何が計算だ、お前も箱庭ん中じゃ泥まみれで鼻水垂らしてただろーが」
ソラが抗議するが、光輝は楽しそうに笑っている。
その奥では咲がメイと手を繋ぎ、互いの無事を確かめ合うように嬉しそうに頷き合っていた。咲の瞳からも、見えない血の幻影に怯えていた暗い影は完全に消え去り、凛とした光が宿っていた。
「本当に……ありがとうございました、梨花センパイ、風間センパイ」
咲が私たちに向かって、深く綺麗な礼をした。
「私たちを絶対に見捨てないで、守ってくれたから……もう一度、前を向くことができました」
「お礼なんていらないわ。あなたたちが自分の力で立ち上がったのよ」
私は彼らの清々しい顔を見て、胸の奥にあった重い鉛のような不安がスッと溶けていくのを感じた。
過酷なPTSDを乗り越え、第3世代と第4世代は、お互いの弱さを補い合う、小隊としての確かな絆を結んだのだ。
この数日間の地獄のような治験は、決して無駄ではなかった。
私たちは無事に帰還し、教官としての最初の試練を乗り越えた。少しだけ休んで、彼らと一緒に温かいご飯でも食べに行こう……そう思っていた、その時だった。
ウゥゥゥゥゥゥンッ!!!!
突如、防衛省の地下施設全体を揺るがすような、けたたましいレッドアラートのサイレンが鳴り響いた。
純白の無菌室が、不吉な赤い回転灯の光に染まり、壁のスピーカーから無機質なアナウンスが繰り返される。
『緊急事態発生。緊急事態発生。セクションゼロ全隊員は、直ちに第一作戦司令室へ集合してください。繰り返します。緊急事態発生。緊急事態発生。セクションゼロ全隊員は、直ちに第一作戦司令室へ集合してください』
「……休ませてくれる気は、毛頭ねぇってことかよ」
悠斗が忌々しげに舌打ちをし、壁に立てかけてあった大剣星斬りを背中に背負い直した。
「行くわよ、みんな!」
私たちは治験用スーツのまま、駆け足で廊下を抜け、作戦司令室へと飛び込んだ。
「遅れました!」
司令室の自動ドアが開くと、そこには血の気が引いた顔の黒田局長と、恐ろしい速度でキーボードを叩き続けるレンの姿があった。
部屋の正面にある巨大なメインモニターには、荒れ狂う海と、黒煙を上げて炎上する巨大な要塞のような人工島の映像が映し出されていた。群れのように動くドローンも見える。
「……これは、何ですか?」
私が息を呑んで問いかけると、黒田局長が重苦しい声で答えた。
「日本海側の排他的経済水域、EEZ内に建設されていた、我が国の極秘の『海底資源探査および早期警戒プラント』です。……二十分前、所属不明のステルス艦隊と無人機スウォームによる強襲を受けました」
黒田局長がコンソールを操作すると、映像が切り替わり、施設内部の監視カメラの映像が表示された。
そこには光学迷彩を解いて姿を現した、漆黒のステルススーツを着た兵士たちの姿があった。彼らはアサルトライフルを構えるだけでなく、壁を垂直に走り抜け、指先から炎や真空の刃を放って、自衛隊の警備部隊を一方的に蹂躙していた。
「……また、隣国のドール部隊か」
悠斗が低い声で唸る。
「ええ。ですが、以前のような自我を失った単調な動きではありません。あいつら、日本のアルメルシアから奪ったサブサーバーのデータを使って、AIの戦闘アルゴリズムを飛躍的にアップデートさせているようです。……魔法の出力も、部隊としての連携も、富士演習場の時より格段に上がっています」
レンが複数のモニターにデータ解析のグラフを映し出しながら言った。
「自衛隊の初動対応部隊は、すでに通信が途絶しました」
黒田局長が、無念そうに目を伏せた。
「敵の目的は、プラントの占拠による我が国の防衛網の無力化と、軍事的な示威行動でしょう。……このまま施設を奪われれば、日本海の制海権は完全に隣国のものとなる。セクションゼロの全戦力をもって、ただちに施設の奪還と敵部隊の排除を命じます」
「黒田局長、ちょっと待ってください。私たち、特例の自衛隊員への戦闘指令を出す権限は、黒田局長にあるのですか。防衛戦争に参加して、実際に人を殺してこいという権限が……」
これは、アルメルシアでのデータ上の戦闘ではない。血が流れ、命が失われる、現実の人間同士の戦争だ。これはどうしても確認しておかなければ……。
「……私個人の権限ではありません」
黒田局長は、私の抗議を真っ向から受け止め、重苦しい声で答えた。
「これは『高度仮想防衛人材に対する特別措置法』に基づき、総理大臣および防衛大臣から直接下された、超法規的な防衛出動命令です。相手は国籍を隠したテロリストという扱いですが、これは実質的な国家防衛戦です。君たちは特任の自衛官として、この国を守るための実力行使の権限を与えられています」
「だからって、私たちに人殺しになれというのですか! 私は……敵の武装を解除して無力化することはできても、積極的な殺人にはまだ抵抗があります。それに!」
私は、後ろで不安そうに立っている二人の少女を振り返った。
「咲ちゃんやメイちゃんは、まだ中学生ですよ!? 十三歳や十四歳の未成年を、本物の戦場に出して、血を流させるなんて……狂ってますよ!」
「……俺たちも行きます」
私の言葉を遮り、光輝が一歩前に出た。
その瞳には、箱庭で見せた確かな覚悟の火が燃えていた。
「……光輝くん。ゲームじゃないのよ? 相手は本物の人間で……本当に、殺し合いになるのよ」
私が彼らのPTSDを案じて制止しようとしたが、光輝の横に、咲、ソラ、メイの三人も並び立った。
「わかってます」
咲が、毅然とした声で言った。
「怖いですよ。本物の血も、死ぬのも……すっごく怖いです。でも……だからって、先輩たちの背中に隠れてるだけの子供の心は、もうあの箱庭に置いてきました」
「僕の演算能力と、メイの盾が必要です。……先輩たちだけじゃ、あのドールの数と連携には苦戦するはずだ。僕たちを、誰も殺さずに制圧するための小隊として使ってください」
ソラが、新調した銀縁眼鏡を押し上げながら、冷静に、しかし熱を込めて進言した。
彼らの顔には悲壮感はなかった。ただ、自分たちの国と、仲間を守るという純粋な責任感が、そこにあった。
「……悠斗」
私が判断を委ねるように見上げると、悠斗は少しだけ黙り込み、そしてフッと口角を上げた。
「……みんな真剣な顔してやがる。いいかお前ら、敵の命は奪うな。徹底的に武装だけを破壊しろ。……足手まといになったら、海に叩き落として置いていくからな」
「へっ、誰が足手まといになるかっての。見ててくださいよ、センパイ」
光輝が、嬉しそうに自分のガントレットを拳で叩いた。
「……分かりました。セクションゼロ、全員で出撃します!」
私は黒田局長に宣言し、ステッキを手に取った。
箱庭での過酷な訓練を経て、彼らは確実に戦士として生まれ変わった。
だが、これから向かうのは、システムに守られた治験プログラムではない。引き金を引けば命が消える、残酷な現実の戦場だ。
赤い警報のサイレンが鳴り響く中、私たちは日本の命運を懸けた、冷たい冬の海への初陣に出撃するため、ステルスヘリの待つ屋上へと駆け出した。
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