第167話:『折れた心と、特異点の盾』
第167話:『折れた心と、特異点の盾』
土砂降りの雨を切り裂いて、四つの黒い影が一斉に動いた。
無音の縮地による、死角を突いた同時攻撃だ。かつて現実の富士演習場で、私たちを窮地に追い込んだ暗殺部隊の連携そのものだった。
「……遅ぇよ」
だが、悠斗の反応はそれよりもさらに速かった。
彼は『身体強化、フィジカルブースト』で全身のバネを極限まで引き絞り、泥だらけのアスファルトを爆発的に蹴り飛ばした。
狙うのは、左右から回り込もうとした二体の暗殺者。
「オラァァァッ!!」
大剣星斬りが、雨粒を弾き飛ばしながら凄まじい遠心力で横薙ぎに振るわれる。
暗殺者たちは風の魔法を刀に纏わせて流そうとしたが、悠斗はそれすらも織り込み済みだった。彼は刃ではなく、剣の広大な腹の部分で、彼らの刀ごと強引に叩き潰したのだ。
ガギィィィィンッ!!!!
圧倒的な質量の暴力だ。二体の暗殺者は、防御の姿勢をとったまま数十メートル後方へと吹き飛ばされ、監視塔の残骸に激突してポリゴンの破片となって消滅した。
「梨花!」
「ええっ!」
悠斗の死角を突き、上空から音もなく降下してきた三体目に対し、私はステッキを真っ直ぐに天へ突き出した。
頭の中で構築するのは、雨粒の表面張力と空気の密度を操作するイメージ。
「水球圧縮、ハイドロプリズン!」
降り注ぐ無数の雨粒が一瞬にして空中で集束し、三体目の暗殺者をすっぽりと包み込む巨大な水の球体へと変貌した。
そして、その水球の内部圧力を極限まで高める。
「悪いけれど、一気にいくわよ」
ズギュゥゥゥンッ!!
暗殺者は身動き一つとれないまま、深海の底のような超高圧に押し潰され、水球ごと弾けて消滅した。
開始わずか数秒で、三体の敵を瞬殺。
これが、私たちがアルメルシアの死線を越えて手に入れた特異点としての力だ。
「す、すげぇ……」
背後でソラが信じられないというように息を呑む。メイもまた、私たちの圧倒的な連携に目を見開いていた。
だが、倒れ込んだままの光輝と咲の顔色は、依然として死人のように蒼白だった。
「……いやだ。来ないで……っ」
咲が頭を抱えて震え続ける。
彼らの視線の先、最後の一体となったリーダー格の暗殺者が、不気味な行動に出た。
暗殺者は私たちに向かってくるのではなく、泥水の中に倒れていたアメリカ軍兵士の死体の幻影に近づき、その首に刃を突き立てたのだ。
ブシャァァァァッ!!
幻影の死体から、あり得ないほどの真っ赤な血が噴き出し、雨水に混ざって光輝と咲の足元へと流れてくる。
それは現実の富士演習場で光輝が浴びた、あの生々しい血の記憶の完全な再現だった。
「あ、あああぁぁぁっ……!!」
光輝が喉を掻きむしり、過呼吸を起こして泥の中に嘔吐した。
「ダメだ……! 血が、血が洗っても落ちねぇ……! 俺が、俺が殺される……っ!」
完全にトラウマのフラッシュバックだ。
治験AIは、彼らの心を徹底的に破壊するためだけに、戦闘のロジックすら無視して、悪意に満ちたグロテスクな演出を優先したのだ。
『……精神負荷レベル、危険域に到達。排除プロトコル、フェーズ2へ移行』
空から無機質なシステム音声が響き渡ると同時だった。
血の海と化した泥濘の中から、ボコボコと異様な音を立てて、新たな暗殺者たちが湧き出してきた。
五体、十体、二十体……。
それらはすべて、血まみれのアメリカ兵の死体や、引き裂かれた警備隊員の姿を模した、おぞましい亡霊のような姿をしていた。
「……悪趣味にも程があるわね」
私はステッキを握りしめ、強烈な吐き気と怒りを飲み込んだ。
「光輝さん、咲ちゃん! 目を閉じてちゃダメです!」
ソラが叫び、指先から青白いプラズマを放って亡霊の一体を牽制する。メイも必死にハニカムシールドを展開し、光輝たちに飛んでくる血飛沫や泥を弾き返していた。
しかし、PTSDの発作を起こした二人には、後輩たちの必死の呼びかけすら届かない。
「ヒィィィッ! 来るな、来るなァァッ!」
光輝がパニック状態のまま、ガントレットから無差別に電撃を放ち始めた。
バチバチバチッ!!
統制の取れていない乱放電は、敵を倒すどころか、味方であるメイのシールドを裏側から叩き、彼女の体勢を崩してしまった。
「きゃあっ!?」
メイがよろめき、防御の壁に一瞬の穴が空く。
その致命的な隙を、亡霊の姿をした暗殺者たちが見逃すはずがなかった。
四体の亡霊が音もなく跳躍し、無防備な光輝と咲の首を刈り取らんと、凶刃を振り下ろす。
「やめろぉぉぉっ!!」
光輝が絶望の悲鳴を上げた。
だが、刃が彼らの肉体を裂くことはなかった。
ドォォォォォンッ!!!!
凄まじい地鳴りと共に、彼らの目の前に巨大な壁がそびえ立ったのだ。
「……ぐ、おぉぉぉぉっ!!」
悠斗だった。
彼は大剣星斬りを横に構え、自らの肉体を完全な盾として、四体の亡霊の刃を真っ向から受け止めたのだ。
ガギィィィンッ!!
刃が大剣と衝突し強烈な火花が散る。しかし完全に防ぎきれたわけではなかった。弾ききれなかった一本の凶刃が、悠斗の左肩に深々と突き刺さる。
「悠斗さんッ!!」
ソラが悲鳴を上げた。
「……風間、センパイ……?」
光輝が、顔を血や泥で汚しながら、信じられないというように悠斗を見上げた。
「……言っただろ。俺の背中に、隠れていろってな」
悠斗は左肩から赤い血を流しながらも、決して膝をつかなかった。
それどころか、彼は刺さった刃を筋肉の収縮で強引に挟み込み、敵の動きを封じたのだ。
「お前らのトラウマだか何だか知らねぇが……。俺たちがいる限り、このクソシステムに、お前らの命は指一本触れさせねぇ……っ!」
悠斗の瞳には、血よりも熱い、激しい怒りと意志の炎が燃え盛っていた。
「梨花ッ!! いまだ!!」
「ええっ!!」
私は悠斗の背後から飛び出し、ステッキを天高く掲げた。
頭の中で組み上げるのは、この陰湿で悪趣味な幻影の舞台そのものを、根こそぎ焼き尽くすための究極の熱力学だ。
「大気中の水分を臨界まで加熱……! 急激な相転移による、超爆発を……!」
私は降り注ぐ雨と、足元の泥水、そして彼らを苦しめる血の海すべてに、莫大な熱エネルギーを強制的に注ぎ込んだ。
「蒸気爆散、スチームブラスト!!!!」
ドバァァァァァァァァンッ!!!!
次の瞬間、私たちの周囲を取り囲んでいたすべての水分が、一瞬にして数千倍の体積へと気化膨張した。
発生した超高温の蒸気爆発は、凄まじい衝撃波となって全方位へと吹き荒れる。
亡霊の姿をした暗殺者たちは、悲鳴を上げる間もなく、爆発的な蒸気の圧力によって文字通り木端微塵に吹き飛ばされ、赤いポリゴンの塵となって消え去っていった。
数秒後。
もうもうと立ち込める白い水蒸気が晴れると、そこには幻影の血の海も、暗殺者たちの姿も、一切残っていなかった。
ただ、えぐり取られたアスファルトのクレーターの中心で、悠斗が大剣を杖代わりにして、静かに、だが決して倒れることなく立ち尽くしていた。
「……ハァッ……ハァッ……。どうだ、光輝。咲」
悠斗が、肩から血を流したまま、ゆっくりと二人を振り返った。
「血の匂いは……消えただろ?」
光輝と咲は、呆然としていた。
自分たちがどれだけパニックに陥ろうとも、どれだけ無様に見捨ててくれと叫ぼうとも、目の前の先輩たちは、絶対に背中を向けず、その圧倒的な力と覚悟で、理不尽な死の運命を文字通り、捻じ曲げてみせたのだ。
「……なんで」
光輝の目から、恐怖とは違う大粒の涙が溢れ出した。
「なんで……そこまでして……俺たちみたいな、役立たずを庇うんだよ……っ!」
「役立たずなんかじゃないわ」
私はステッキを下ろし、光輝と咲の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「あなたたちはあの日、私たちに憧れて治験に志願したんでしょ? ……誰かを守れる強さが欲しいって」
私は彼らの泥だらけの手を優しく握りしめた。
「ヒーローっていうのは、最初から強いわけじゃないの。……絶望して、……心を折られて、……それでも……誰かの背中を見て、もう一度立ち上がろうとする人のことよ。私たちは、そのための盾になるわ」
悠斗の決して折れない背中と私の言葉。
それが、恐怖に凍りついていた第3世代の心に、どんな魔法よりも確かな、熱い火種を灯すことを祈って。
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