第166話:『精神の最適化』
第166話:『精神の最適化』
深い電子の海を抜け、意識が仮想の肉体へと定着する独特の浮遊感がする。
だが、視界が開けるよりも先に、私の五感を容赦なく殴りつけてきたのは、あの廃墟の乾いたコンクリートの粉塵ではなかった。
ザァァァァァァッ……。
鼓膜を打ち据えるような、激しい雨の音。
鼻を突くのは、重く湿った泥の匂いと、そして……生々しい鉄錆のような、血の悪臭だった。
「……嘘、でしょ」
目を開けた私の目の前に広がっていたのは、どんよりと垂れ込める鉛色の雲と、見渡す限りの泥濘に覆われた荒野だった。
ファンタジーの世界でも、市街地の廃墟でもない。
「……ここ、富士演習場じゃないか」
隣で大剣を実体化させたものを担いでいる悠斗が、周囲の景色を睨みつけながら低く唸った。
間違いない。プレハブの監視塔の残骸、泥だらけのアスファルトの亀裂。それは数日前、私たちが現実世界で中国の暗殺部隊から強襲を受けた、あの東富士演習場の惨劇の現場と全く同じ光景だった。
「いやだ……っ! なんで、なんで……っ!」
背後から、悲鳴にも似た嗚咽が上がった。
振り返ると、咲が泥水の中にへたり込み、頭を抱えてガタガタと全身を震わせていた。
彼女の焦点の合っていない瞳は、雨に濡れた地面ではなく、記憶の中の凄惨な死体を見つめているようだった。
「……おい、ふざけんなよ。AIの野郎……俺たちの脳の中を……」
光輝もまた、両腕のガントレットを震わせながら、青ざめた顔で後ずさりをしていた。
「精神の……、マインドのハックだわ」
私はステッキを握りしめ、土砂降りの雨の向こう側を睨み据えた。
治験AIは、ダイブした彼らの脳波から「最も強い恐怖とストレスを感じる記憶」を読み取り、それを環境データとして再現したようだった。
ただ強い敵を出すよりも、トラウマを直接抉り出す方が、精神を極限状態に追い込み、異能を強制覚醒させるには効率的だと、システムが冷酷に判断した結果だった。
「……咲ちゃん、光輝さん! しっかりして!」
メイは怯える咲の背中を小さな手で必死にさすりながら声をかけている。
「教官、まずいです……! 光輝さんたちの心拍数と脳波が異常な数値で跳ね上がってる! このままだとパニック発作を起こします!」
ソラは新調した銀縁眼鏡の奥で焦燥に満ちた声を上げた。
彼ら第4世代は現実の死体を見ていないため、この風景に特別なトラウマはない。だが、先輩である第3世代の二人の異常な怯え方は、ソラとメイにも伝播するような強い恐怖を放っていた。
その時だった。
ピチャッ……。
土砂降りの雨の中、不自然に雨粒が弾かれる空間が、私たちの前方三十メートルほどの位置に現れた。
一つ、二つではない。四つの陽炎のような空間の歪みが、泥濘の上を滑るようにしてこちらへと近づいてくる。
「……来るぞッ!!」
悠斗が咆哮し、私たちを庇うように前に躍り出た。
ゆらりと光学迷彩が解け、姿を現したのは、漆黒のステルススーツに身を包み、顔の半分をタクティカルマスクで覆った四人の暗殺者たちだ。
現実の演習場で、アメリカ兵を無惨に切り刻み、私たちを死の淵まで追い詰めた、あの無音の殺戮部隊の再現だった。
「ヒィィィッ……! 来るな、来るなァァッ!」
光輝が半狂乱になって叫び、ガントレットを突き出した。
バチバチッ! と青白い電流が走るが、恐怖で指先が制御できておらず、放たれた電撃は暗殺者たちのはるか手前の泥水に落ちて虚しく蒸発した。
暗殺者たちは、そんな光輝の無力な反撃を一瞥もせず、チタンの刃を逆手に構えて、無音の縮地で一気に距離を詰めてきた。
彼らのターゲットは、最も心が折れ、隙だらけになっている光輝と咲のようだ。
「させないわよ!」
私がステッキを振り上げ、『気流断絶、エアシールド』で彼らの進路を塞ごうとした瞬間。
暗殺者の一人が、私の魔法が展開されるよりも速く、腕を鋭く振るった。
ヒュンッ!
音を殺された三本のクナイが、光輝の喉元めがけて飛来する。
「光輝さんッ!!」
カチィィィンッ!!!!
絶望的なタイミングで光輝の前に割り込んだのは、メイだった。
彼女の小さな両手から展開された黄金色のハニカムシールドが、飛来したクナイを見事に弾き落とす。あの廃墟での特訓の成果だ。恐怖に震えながらも、彼女は確実に仲間を守る盾としての役割を果たしていた。
「しっかりしろ、先輩だろッ!!」
ソラが、光輝の横をすり抜けながら叫んだ。
彼は雨の降る上空の冷たい空気と、足元の泥の摩擦熱を瞬時に計算し、暗殺者たちの足元に向けてピンポイントで魔力を解放した。
「局地熱膨張、サーマルエクスパンション!」
ドムッ!!
暗殺者たちの足元の空気が破裂し、強烈な突風が泥水を巻き上げた。
完全な不意打ちの物理干渉だが、AIが再現した暗殺者たちは、現実の彼らと同じように、風の魔法を刀に纏わせて瞬時に衝撃を逃がし、体勢を崩すことなく着地してみせた。
「……くそっ、やっぱり僕の計算じゃ、決定打にはならないか……!」
ソラが唇を噛む。
ソラとメイの連携は素晴らしい。しかし、彼らの魔法だけでは、あの極限まで洗練された暗殺者を押し返すには力不足だった。
暗殺者たちが再び陣形を組み直し、今度は四方向からの同時攻撃を仕掛けようと身を沈める。
光輝と咲は、後輩たちに守られながらも、未だに泥の中にへたり込んで震え続けていた。
「……上等だ」
その絶体絶命の包囲網の中央で悠斗が、大剣星斬りを片手で軽々と振り回し、泥だらけの地面に深く突き立てた。
ズドォォォォンッ!!
大剣の質量が地面を揺らした。これは最早、物理的な現象というよりも、大剣を媒介とした魔法だろう。本人は気付いていない様だけど。
結果として悠斗の圧倒的な存在感が、暗殺者たちの殺気を一瞬だけ押し留める。
「おい、光輝。咲」
悠斗は振り返り、震える二人を真っ直ぐに見下ろした。
「怖いなら、俺の背中に隠れていろ」
降り頻る雨の中、彼の広い背中が、二人をすっぽりと覆い隠す盾となる。
「……でも、目は絶対に逸らすなよ」
悠斗の声は雷鳴のように重く、そしてどこまでも力強かった。
「お前らの恐怖も、そのトラウマも、俺と梨花が全部まとめて叩き斬ってやる。……だから見届けろ。俺たちが、どうやってこの理不尽をぶっ壊すのかをな」
悠斗が星斬りを引き抜き、獰猛な笑みを浮かべて暗殺者たちへと向き直る。
私もステッキを構え、悠斗の隣に並び立った。
「行くわよ、悠斗。……AIの悪趣味な幻影ごと、吹き飛ばしてあげるわ」
「ああ。一秒で終わらせるぞッ!」
私たちの教導陣としての意地と、トラウマを乗り越えさせるための、雨と泥にまみれた本当の特別授業が、今ここから始まった。
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