第165話:『優しい嘘の終わりと、見えない傷跡』
第165話:『優しい嘘の終わりと、見えない傷跡』
防衛省の地下深くにある医療ブロックの廊下は、どこまでも白く、そして冷たかった。
空調の低いモーター音だけが響く中、私は三日間の絶対安静という名の休暇を終え、指定されたメディカルチェックに向かって歩いていた。
手には、一昨日メイが不器用な指先で編んでくれたシロツメクサの花冠を持っている。少ししおれかけているけれど、私にとってはどんな高価な宝石よりも価値のある勲章だ。
「……梨花先生、血圧も心拍数も正常値みたいです! 悠斗先生も、筋肉の数値がまた上がってるって、研究員のお兄さんが驚いてましたよ」
診察室から飛び出してきたメイが、パタパタと小走りで近づいてきた。
その隣には、新しく作り直してもらった銀縁眼鏡をかけたソラが、タブレット端末を片手に歩いている。
「僕の脳波データも完全に安定しています。……というか、むしろ以前より処理速度が上がっている気がする。あの箱庭での極限状態が、シナプスの結合を強制的に最適化させたのかもしれない」
ソラは早口で分析結果をまくし立てた。
二人の顔に、アルメルシアで味わった深い絶望の影はない。もちろん恐怖は完全に消えたわけではないだろう。だが、彼らは一度心が折れかけた後、自らの力で小さな魔法を顕現させ、生き残った。その強烈な成功体験が、彼らの足元を確かに支える土台となっていた。
「二人とも、無理は禁物よ。まだ身体が完全に回復したわけじゃないんだから」
私が微笑みながら注意すると、二人は「はいっ」と元気よく頷いた。
彼らのこの笑顔を守り抜くことができた。その事実が、私の心を温かく満たしてくれていた。
だがその温もりは、別の病室の前に立った瞬間に、冷たい氷水のような現実へと引き戻された。
私はソラとメイを待合室に残し、少し離れた区画にある特別個室のドアをそっと開けた。
そこは、富士演習場で本物の戦場を経験した第3世代、橘光輝と結城咲の病室だった。
「……光輝くん、咲ちゃん。調子はどう?」
私が努めて明るい声で尋ねたが、返事はなかった。
カーテンが半分閉められた薄暗い室内。
咲はベッドの上で膝を抱え、毛布にくるまったまま、虚空をじっと見つめていた。彼女の瞳には、かつて私に向けられていたキラキラとした憧れの光は微塵もない。ただ、焦点の合わない目で、見えない何かに怯え続けている。
「……血が」
咲が、乾いた唇を震わせて呟いた。
「赤い血が、いっぱい……。あの外人のおじさんたち、穴があいて……ドクドクって……。私、何もできなくて……怖い、もう誰も死ぬのを見たくないよぉ……」
彼女は自分の両手で耳を塞ぎ、頭を左右に激しく振った。
隣のベッドでは、光輝が支給されたばかりの新しいガントレットをテーブルの上に置き、それを憎悪と恐怖が入り混じった目で見下ろしていた。
「……俺は、不良ぶってただけのただのガキだ」
光輝は、血の気が引いた顔で自嘲気味に笑った。
「あんな……頭を吹き飛ばされた死体とか、内臓が飛び出た兵士とか……そんなの、テレビゲームの中だけの話だと思ってた。俺の手から出るこの電気で、あんな風に人が壊れるのかって思ったら……指が震えて、力が入らねぇんだよ」
光輝は自分の右手をギュッと握りしめようとしたが、指先は小刻みに震え、完全に力が入っていないようだった。
私は彼らにかける言葉を見つけられなかった。
あの凄惨な富士演習場。中国の暗殺部隊による無音の蹂躙と、アメリカ軍兵士の死。
彼らは、仮想空間での死の恐怖ではなく、現実世界で流れる生々しい血と肉の破壊を、何の準備もなく見せつけられたのだ。彼らの心には、深いPTSDという見えない傷跡が、生々しく刻み込まれていた。
「……もう、戦わなくていいわ」
私は咲のベッドの端に座り、毛布の上から彼女の震える背中をそっと撫でた。
「少し休んでいいのよ。あなたたちに、これ以上あの地獄を見せるような真似は……」
「それは困りますね、瀬戸さん」
突然、病室のドアが開き、冷徹な声が響いた。
黒田局長だった。銀縁の眼鏡の奥で、蛇のように冷たい光を放つ瞳が、私と二人の子供たちを見据えている。
「黒田局長……。どういうことですか。彼らはまだ、PTSDの症状が酷い。これ以上の実戦や治験は不可能です」
私は立ち上がり、光輝と咲を庇うようにして黒田の前に立った。
「世界は、彼らの回復を待ってはくれません」
黒田局長は手元のタブレットを操作し、壁のモニターに幾つかの報告書を映し出した。
「数日前のコアデータ奪取事件以降、隣国のみならず、世界各国の軍事的挑発が急激に活発化しています。我が国の防衛戦力拡充は、一刻の猶予もない状態なのです」
黒田局長は冷たく事実を突きつけた。
「彼ら第3世代も、直ちにアルメルシアでの『第2フェーズ』、適応訓練へ合流させます」
「……ふざけないでッ!!」
私は思わず大声を上げていた。
「あの子たちをもう戦場に出さないって、あの惨劇の後に約束したじゃないですか! 彼らの心はもう限界なのよ! これ以上あの箱庭に放り込めば、今度こそ完全に精神が壊れてしまうわ!」
「優しい嘘は、彼らのためになりませんよ」
黒田局長は私の怒りを柳に風と受け流し、淡々と言葉を紡いだ。
「現実の戦場で彼らが生き残るためには、アルメルシアの箱庭で『精神を最適化』し、死の恐怖をコントロールする術を学ぶしかない。……ただ怯えているだけの異能者は、次の戦場で確実に命を落とす。心を壊してでも戦う術を身につけさせる。それが、国としての彼らの生かし方であり、唯一の生存戦略です」
「……っ!」
私は奥歯を強く噛み締めた。
黒田局長の言葉は、国家という巨大なシステムが持つ、圧倒的で残酷な正論だった。
彼らをこの安全な病室に閉じ込めておけば、確かに今は心休まるかもしれない。だが、現実世界ではすでに異能戦争の火蓋が切って落とされている以上、安全な場所など地球上のどこにもないのだ。
「……なら」
病室の入り口から、低く地を這うような声が響いた。
悠斗だった。
彼は腕を組み、壁に寄りかかりながら、黒田局長を鋭く睨みつけていた。
「なら、俺たちがあの箱庭の中で、あいつらのトラウマごと叩き斬って引き上げるしかないだろ」
「悠斗……」
悠斗はゆっくりと歩み寄り、光輝と咲を見下ろした。
「おい。お前ら、一生ここで毛布にくるまって震えてるつもりか」
「……風間センパイ」
光輝が、顔を伏せたまま震える声で答える。
「俺だって……俺だって、戦えるなら戦いてぇよ……! でも、あの血が……あの時の匂いがこびりついてて、どうしようもねぇんだよ……っ!」
「だったら、その匂いごと俺たちが上書きしてやる」
悠斗は、光輝の首根っこを掴んで強引に立たせた。
「怖いなら、俺の背中に隠れていろ。だが、目は絶対に逸らすな。……お前らが自分の足で立てるようになるまで、俺と梨花が、何度でもお前らの盾になってやる」
悠斗の瞳には、一切の迷いがなかった。
理不尽な国家の決定に怒るのではなく、その理不尽すらも飲み込んで、後輩たちを絶対に守り抜くという、教官としての、そして先輩としての圧倒的な覚悟をしている様に感じた。
「はぁ~、……悠斗の言う通りね」
私は大きく深呼吸をし、黒田局長に向き直った。
「私たちが彼らを導きます。……でも、もしシステムが彼らの限界を超えた負荷をかけてきたら、その時は私が物理的にサーバーを破壊してでも強制ログアウトさせますからね」
「……承知しました。それでは君たち特異点の教導に期待していますよ」
黒田局長はわざとらしく深く一礼し、病室を後にした。
数時間後。
特別治験区画の純白のフロア。
ずらりと並んだ治験用カプセルの前に、私たちは立っていた。
少し前まで泣き叫んでいた咲も、顔を蒼白にさせた光輝も、ブカブカの治験用スーツを着せられ、震える足でカプセルの前に立っている。
「……大丈夫だよ、咲ちゃん。僕たちも一緒にいるから」
ソラが、不器用ながらも励ますように咲に声をかける。
「わたしが盾を張ります。……絶対に、守りますから」
メイもまた、小さな胸を張って先輩たちを勇気づけようとしていた。
怯える第3世代と、覚悟を決めた第4世代。
私たちは彼らを連れて、再びあの独自進化を遂げ、悪意を増したアルメルシアの箱庭へとダイブする。
「行くぞ、お前ら」
悠斗がマスターカプセルに乗り込みながら、力強く告げた。
私も自分のカプセルに身を横たえ、冷たいジェルセンサーの感触を額に受け入れた。
バイザーが閉まり、現実の光が遮断される。
彼らの心に刻まれた見えない傷跡を、私たちがどうやって癒やし、そして戦う意志へと変えていくのか。
意識が深い電子の海へと沈んでいく中、私はステッキを握る己の手の感覚を、強く、強くイメージし続けていた。
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