第164話 閑話『温かなスープと、かりそめの家族』
第164話 閑話『温かなスープと、かりそめの家族』
防衛省の地下深くにある極秘施設。その一角に設けられた「特異点および帰還者用・特別居住ブロック」は、無菌室の冷たさとは無縁の、驚くほど快適な空間だった。
私たちに与えられたのは三日間の絶対安静という名の休暇だった。それは、あの灰色の粉塵と絶望に満ちた仮想空間アルメルシアから帰還した私たちの心と身体を解きほぐすための、優しくて温かい時間だった。
ふかふかの羽毛布団から這い出し、居住ブロックの共有リビングへと足を踏み入れると、そこにはすでに、信じられないほど美味しそうな匂いが漂っていた。
「……おはよう、梨花先生」
ダイニングテーブルの椅子にちょこんと座っていたメイが、私に気づいてふわりと微笑んだ。
彼女は施設が用意した少し大きめのパジャマを着ていて、その頬には、地下駐車場でガタガタと震えていた時の土気色はなく、年相応のほんのりとした赤みが戻っていた。
「おはよう、メイ。よく眠れた?」
「はいっ。ベッドがすごく柔らかくて熟睡でした」
私がメイの隣に座って頭を撫でてやると、彼女はえへへと嬉しそうに目を細めた。
オープンキッチンの奥では、大きな背中がエプロン姿でフライパンを振るっている。悠斗だ。大剣星斬りの代わりにフライパンを握るその姿は少し滑稽で、けれど少しだけ頼もしかった。
「よぉ、お寝坊さん。顔は洗ってきたか?」
悠斗が振り返り、出来立てのベーコンエッグと、温かいコーンスープの入ったマグカップをテーブルに静かに置いた。
「もう、私そんなに寝坊してないわよ。……それにしても、悠斗が料理なんて珍しいじゃない」
「施設の食堂の飯も悪くないが、こういうのは手で作った方が生きてるって気がするだろ」
悠斗は少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「教官、僕の分のスープ、おかわりもらってもいいですか?」
キッチンのカウンター席で、ソラがすでに二杯目のご飯を平らげながら声を上げた。
銀縁眼鏡の奥の瞳はすっかり穏やかになり、あの尖っていた天才少年の面影は、今はただの育ち盛りの十五歳の男の子のものだ。
「アルメルシアのデータポイントの水や止血剤とは大違いですよ。味も、匂いも、喉を通る時の温かさも……全部が本物のデータ……じゃなくて、現実の物理現象なんだって、噛み締めるだけで感動します」
ソラは、少しオタクっぽい早口でそうまくし立てながら、温かいスープを幸せそうに喉に流し込んだ。
「ほらよ、食い過ぎて腹壊すなよ。……メイも、遠慮しないで食べな」
悠斗がソラのマグカップになみなみとスープを注ぎ足し、メイの皿には焼きたてのパンを乗せてやる。
「いただきますっ」
メイが両手を合わせて、パンを小さくちぎって口に運ぶ。
「……おいしい。すっごく、おいしいです……っ」
その瞬間、彼女の大きな瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
悲しいわけでも、怖いわけでもない。ただ、安全な場所で温かいご飯を、誰かと一緒に食べられるという当たり前の幸せが、極限状態を生き抜いた彼女の心を優しく解かしたのだろう。
「……泣きながら食うと、パンがしょっぱくなっちまうぞ」
悠斗が苦笑しながら、不器用な手つきでメイの頭をポンポンと撫でた。
私も無言で彼女の背中をさすってから、自分のマグカップを両手で包み込んだ。手のひらから伝わる本物の熱が、じんわりと身体の奥底まで染み渡っていく。
この何気ない朝食の風景が、私には何よりも尊い奇跡のように思えた。
***
休暇の二日目。
私たちは、居住ブロックに併設されている人工日光庭園で午後を過ごしていた。
地下施設とは思えないほど広々としたその空間には、青空を模した巨大な天井モニターと、本物の芝生や花壇が広がっていた。
これはあれかな。宇宙での生活拠点用に開発されたものの流用かな。
「ソラくん、見て! このお花、すっごくいい匂いがするよ!」
「本当だ。……すごいな、この空間の環境制御システム。気温と湿度の乱数が完璧に調整されてて、風の吹き方まで自然そのものだ。光合成のための波長も計算されてる……」
芝生の上で、メイが楽しそうに花を摘み、ソラが庭園の設備をブツブツと観察しながらその後を歩いている。
「あいつら、すっかり元気になったな」
庭園の隅にあるベンチに腰掛け、悠斗が自動販売機で買った缶コーヒーを私に差し出しながら言った。
「ありがとう」
私はプルタブを開け、コーヒーのほろ苦い香りを吸い込んだ。
「……でも、あの二人があんな風に笑えるようになったのは、悠斗があの赤い空の下で、絶対に諦めずに背中を見せ続けてくれたからよ」
「俺一人の手柄にするなよ。お前が自爆のエネルギーを真空で抑え込んでくれなきゃ、全員仲良く灰になってたさ」
悠斗は隣にどっかりと腰を下ろし、自分の缶コーヒーを一気に半分ほど飲み干した。
「……それに、俺が諦めないのは、最初から決まってることだろ」
悠斗が、ふと真面目な声色になり、私の方を向いた。
「俺が空っぽだった時、お前が俺のために泣いてくれた。……だから俺は、お前を守るために剣を振る。それがあの狂った箱庭で見つけた、俺のたった一つの真実だからな」
その言葉に、私の心臓がドキンと大きく跳ねた。
普段はぶっきらぼうな彼が、不意に見せるこういう真っ直ぐなところは、現実世界に戻ってきても全く変わらない。
放課後のグラウンドで、遠くから見つめているだけで満足していたあの頃の私に教えてあげたい。今、私は彼の一番隣で、彼のその言葉を直接聞いているんだよと。
「……もう。そういうキザなセリフは、缶コーヒーじゃなくてオシャレなカフェで言ってよね」
私は真っ赤になった顔を誤魔化すように、わざとツンとした態度でそっぽを向いた。
「はぁ? カフェなんて柄じゃないだろ、俺は」
悠斗が呆れたように笑う。その穏やかな笑い声が、人工の風に乗って庭園に溶けていく。
「あっ、悠斗さん! 梨花先生!」
遠くから、花冠を手にしたメイが、ソラを引っ張るようにしてこちらへ走ってきた。
「これ、作ってみたんです! 梨花先生に、似合うと思って……」
メイが少し恥ずかしそうに差し出したのは、シロツメクサで編まれた不格好だけれど可愛らしい花冠だった。
「わあ、ありがとう! すっごく嬉しい」
私がそれを受け取って頭に乗せると、悠斗が「ぷっ」と吹き出した。
「お前、なんか頭にお花畑が咲いてるみたいでマヌケだな」
「ちょっと、悠斗~! せっかくメイが作ってくれたのに、マヌケとは何よ!」
私がポカポカと彼の広い肩を叩くと、悠斗は「いてて、悪かったって」と大げさに身をよじった。
そのやり取りを見て、ソラとメイも声を上げて笑い出す。
理不尽なシステムと大人たちの都合によって、無理やり集められただけの、かりそめの関係から始まったが、本当の家族ではないけれど、今では命を掛け合った大切な戦友だと思っている。
この温かな笑い声と、お互いを想い合う絆は、間違いなく本物だった。
三日間の休暇は、あっという間に過ぎていく。
明後日からは再び、システムが進化を続けるあの地獄の箱庭での、第2フェーズの訓練が始まるだろう。
でももう怖くはない。
無機質な無菌室ではなく、この温かいスープの匂いと笑い声を掛け合った私たちは、絶対に誰も欠けることなく、この日常へと帰ってくるのだから。
人工の夕日が庭園をオレンジ色に染め上げる中、私たちは決意を胸に秘めながら、優しい時間の余韻に静かに身を委ねていた。
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