くねくね 1
さてさて皆様、お立ち会い!
のどかな田舎の青い空、どこまでも広がる緑の田んぼ。
一見すれば平和そのもの、日々の都会の喧騒を忘れさせてくれる美しい日本の原風景でございます。
ですが皆様、決して騙されてはなりませぬ。
人の噂という名の毒は、こうした美しい静寂のなかにこそ、最も深く、最もおぞましく染み渡るものでございます。
右を見りゃあ黄金色に輝き始めた稲穂の波、左を見りゃあ澄んだ冷たい水を運ぶ用水路。 そんな美しい景色を走るガタゴト電車の車窓から、本日も賑やかな三人組がのどかに姿を現しました。
トントントン、と車輪が小気味よいリズムを刻みます。
「わあ……! 綺麗な川ですねえ! 私、こういう自然の小川って、ただ眺めているだけでも心が洗われる気がします」
私鉄の無人駅からあぜ道へと出たところで、天羽莉紗がキラキラと赤い瞳を輝かせ、嬉しそうに用水路を指差しました。
東京のビル群を離れ、久しぶりに吸い込む澄んだ空気に、彼女の銀髪がさらさらと風に揺れております。
「昔、住んでいた村で見た川を思い出します。冷たくて、透き通っていて……。こういう川辺を歩くだけで、なんだか凄く癒されますよね」
莉紗がそんな少女らしい素直な感傷に浸っていると、そのすぐ隣を歩く大男とインテリが、不意に顔を見合わせてニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべました。
「おいおい、大将。川といえば、昔とびきり傑作なバカンスがあったのを覚えてるかい?」
身長百九十センチのスタイリッシュな筋肉巨漢、森繁龍。
タイトな黒いジャケットのポケットに手を突っ込み、だらしなく歩きながら、口の中のガムをクチャリと噛んで虎徹を振り返りました。
「ああ、よく覚えているとも、相棒。地獄の川下りツアーのガイドだって、お前のあの恐ろしいショーを見たら、自分のボートを川に沈めて転職活動を始めるレベルの大爆笑だったからね」
上等なスーツを着こなした仲介屋、虎徹博光が、上品に笑いました。
「え? 昔のバカンスって、何か面白いことでもあったんですか?」
莉紗が不思議そうに小首を傾げると、虎徹は極めて日常的な世間話のトーンで語り始めたのです。
「何、大した話じゃないさ。昔、龍と一緒に山奥の渓流へ出かけたとき、前日の大雨で川を渡るための吊り橋が跡形もなく崩れ落ちていてね。幅が五十メートルはある激流で、普通なら引き返すか、ボートを呼ぶところなんだが……」
虎徹はフッと不敵に笑いました。
「こいつは平然とこう言い放ったんだ。おいおい大将、水の上なんて、片方の足が沈みきる前にもう片方の足を前に出せば、沈まずに走れるに決まってるだろ、とね」
「……え?」
莉紗の表情が、一瞬で引きつりました。
「そしてこいつは、本当にその激流の川の上をダッシュで、水しぶきを上げながら向こう岸まで一瞬で走り抜けてしまったんだよ。あの時、下流でのんびり釣りをしていたおじいさんが、人間の形をした筋肉弾丸が水面を爆走していくのを見てねえ。腰を抜かして持っていた釣竿を川に落とし、そのまま近くの神社へお祓いに直行していたよ」
「はは、あの爺さん、今頃は地獄の川の渡し守にでもお賽銭を握らせて、水上の怪物理論を熱心に勉強してるこったろうよ」
龍は他愛もないアメリカンジョークでも話すように、肩をすくめてケラケラと笑いました。 ですが皆様!
それを聞いた一般人の代表、天羽莉紗は、一瞬だけぽかんと開いた口が塞がらなくなりましたが、すぐに我に返ると、あぜ道に響き渡るほどのキレ味抜群のツッコミを炸裂させました!
「いや、おかしいでしょ! なんで沈まないんですか! 物理法則を忍術かなんかと勘違いしてませんか!? 沈む前に次の足を出すって、それただのアメンボか水蜘蛛の理屈ですよ! 人間の体重でそんなことできるわけないじゃないですか!」
「おっとお嬢ちゃん、科学の教科書を熱心に信じるのは結構だが、現実の俺は、そんな退屈に付き合ってやるほどお行儀が良くないんでね。嘘だと思うなら、今ここでその用水路を三往復して、お前のそのお洒落な銀髪を泥水でデコレーションしてやってもいいんだぜ?」
「絶対にやめてください! そもそも、なんでそんなことできる人が、便利屋なんてやってるんですか! 国際的なスポーツ選手にでもなれば、大富豪になれたはずでしょ!」
「フッ、金メダルをかじる趣味は俺にはないんでね。俺の胃袋を満足させるのは、いつだって目の前の高額前金と、頑丈な怪異だけさ」
龍は不敵に笑うと、ポケットをポンと叩きました。
そんな軽妙な会話劇を繰り広げながら歩くこと数分、三人はついに、周囲を見渡す限りの田んぼに囲まれた、一軒の高雅な別荘へとたどり着きました。
「さて、到着だ」
虎徹が立ち止まり、手元の資料と目の前の景色を交互に見比べました。
「この別荘の主が、ここ数週間、田んぼのあぜ道に蠢く白い影を目撃している。……龍、莉紗ちゃん、くれぐれも注意してくれ。今回の怪異は、これまでのように近づいて物理的に襲ってくるタイプじゃない」
虎徹の声音から、いつもの軽薄な皮肉がスッと消え、言葉に重みが戻ってまいりました。
「そいつの名は、くねくね。ネット掲示板でバズりにバズった、新興の情報の怪物だ。……絶対に、あの白い蠢く影を、双眼鏡やカメラで凝視しちゃいけないよ。そいつの正体を脳内で理解しようとした瞬間、人間の脳の許容量は一瞬にしてオーバーフローを起こし、精神が完全に崩壊して、二度と元の人間には戻れなくなる」
「ひええ……」
莉紗はゴクリと唾を飲み込み、自分の肩をきゅっと抱きしめました。
「触らなくても、見るだけで頭が焼き切れちゃうなんて、そんなのどうやって近づけばいいんですか……」
「フッ、お化け屋敷の仕掛けがどれほど巧妙だろうと、客がその仕掛けをただの安いプラスチックだと笑い飛ばしちまえば、恐怖のプログラムは作動しない。……おい大将、その白いお嬢さんは、一体どこの特等席で踊ってやがるんだい?」
龍は気だるげに首を左右に鳴らし、まったく怯える様子もなく田んぼを見渡しました。
「あそこだよ」
虎徹が静かに、遥か数百メートル先、陽炎が立ち上る田んぼの細い一本道を指差しました。 広大な緑の絨毯のような稲穂の波、そのちょうど真ん中あたり。
おや、おかしいですねえ。
風もないのに、ぽつんと。
本当にぽつんと、白く、細長い、人間の形をしたような何かが、あぜ道の上に立っておりました。
それは、まるで関節をすべて抜き取られた軟体動物のように、あるいは水中で揺らめく白いリボンのように、奇妙な角度でくねくね、くねくねと蠢いているのでございます。
遠目に見ても、それがこの世の生物ではないことが、一目で理解できる不気味さ。
「絶対に、目を凝らして見つめるんじゃないぞ」
虎徹が重ねて鋭く警告いたしました。
風が莉紗のフードを優しくかすめました。 ほんの一瞬、ただの好奇心、あるいは視線をそらそうとした瞬間の、ほんのわずかな偶然。
莉紗の赤い瞳が、遥か彼方で蠢く、それの姿を、完璧にその網膜のピントに捉えてしまったのでございます!
その瞬間!
しん……。
莉紗の耳から、すべての音が消失いたしました。
それまで田んぼの葉を揺らしていた爽やかな風の音も、遠くで響いていた電車の音も、鳥のさえずりも。 世界全体が、冷たい真空パックのなかに無理やり閉じ込められたかのような、息が詰まるほどの、完璧なる無音の異界。
「……え?」
莉紗が声を漏らそうとしましたが、自分の喉から音が一切出ないことに、深い絶望を覚えました。
空気は一瞬にして凍りつき、彼女の吐き出す息が、冷たく白く凍りついて視界をぼかします。
そして、その底知れぬ静寂を切り裂いて、彼女の脳髄に直接、鳴り響き始めたのでございます。
キチ、キチキチ、ギギギギギギ!
それは、錆びついたハサミなどという生易しい金属音ではございません。
まるで、おぞましく濡れた長い爪を持った怪物が、黒板を狂ったように激しく、執拗に引っ掻き回し続けているかのような、脳みそを直接中からかきむしられる、おぞましき精神汚染の不快なノイズ!
「う、あ……あう……」
莉紗は耳を塞ごうと手を上げようとしましたが、身体が泥のように重く、指先一つ動かすことすら叶いません。
そして、信じられない恐怖が、彼女の視界を襲いました。
パチリ、と莉紗が恐怖に耐えかねて一度、瞬きをしたその瞬間。
ガタッ!
「……ッ!?」
あんなに遥か遠く、数百メートル先にいたはずの白い影が、一瞬にして時空を飛び越え、百メートルほどの距離にまで瞬間移動で近づいてきているではありませんか!
うねる、うねる、くねくねと蠢く。
その白い輪郭は、よく見れば人間の皮膚などではなく、水死体の皮膚をパッチワークのように継ぎ接ぎしたような、おぞましき情報のノイズの塊。
パチリ。
莉紗がもう一度、恐怖のあまり涙をこぼして瞬きをいたしました。
ガタガタッ!!!
今度は三十メートル。
もう、その狂ったように蠢く不快な影の動きが、風圧となって莉紗の顔面を冷たく叩くほどの至近距離!
脳内に、津波のように直接、狂気の情報が雪崩れ込んできます。
私を理解して、私を見て、私を理解して。
脳内に直接響く、悍ましい呼び声。
「あ……あう、ううう……!」
莉紗の赤い瞳は焦点が完全に合わなくなり、その脳の許容量は限界を迎え、口元から白い泡が零れ落ち、正気を失って床に崩れ落ちようといたしました。
もうダメだ。
このまま、この不気味な白い影に脳みそを焼き切られて、私は一生、狂ったまま生きるんだ。
絶望の奈落が、少女の魂を完全に飲み込もうとした、まさにその瞬間!
ドクン、と、地獄の無音を踏み荒らす、重厚極まりない男の靴音が響き渡りました。
「おいおいお嬢ちゃん。そんなところで白目を剥いてダンスの練習をするには、ちと時間が早すぎるぜ」
冷たく凍りついていた空気を、何の躊躇もなく不作法にぶち壊す、だらしなくも不敵な男の声。
莉紗の前に、スッと立ちはだかったのは、身長百九十センチの圧倒的な質量。
森繁龍が、いつものように気だるげに、けれどその双眸にギラリと獰猛な肉食獣の光を宿して、そこに立っていたのでございます!
ああ、なんという安心感、なんという不遜なる救世主の登場でしょうか!
見るだけで精神を崩壊させる最恐の怪異を前にして、この男、一体いかにして粉砕するというのか!?
この続きは、次回のお楽しみ!




