ある田舎町の怪異について
さてさて皆様、お立ち会い!
人の噂というものは、風に乗ってどこまでも飛んでいく綿毛のようなものでございますが、それが一度地面に落ち、恐怖という名の湿った土に触れたなら、なんともおぞましき、奇妙な芽を吹くものでございます。
右を見りゃあスマホの画面でバズる最新の怪談、左を見りゃあ田舎のあぜ道に伝わる古びた伝承。
たかが噂、されど噂。
人が畏れ、人が語り、その不気味な影を脳裏に思い描くたびに、実体のなかったはずの影法師は、みるみるうちに本物の質量を得て、人の命を啜る化け物へと成り上がるのでございます。
トントントン、と時が過ぎまして。
ところ変わってこちらは都内、中央区の片隅に建つビルの二階、森繁便利事務所。
ガラリとドアを開ければ、おやまあ、なんということでしょう!
あのゴミ溜めのようだっただらしのない男の城は、今日もホテルのロビーのようにピカピカに片付いており、窓ガラスからは秋の柔らかな日差しが眩いほどに差し込んでおります。 ですが、事務所の主の態度はといえば。
「なんてこった! 七番のあのノロマな駄馬め、スタートゲートが開いた瞬間に自分が競走馬だってことを忘れて芝生の上で瞑想でも始めやがった! 走る代わりに芝の味見でもしてたんじゃないかってくらいのんびりした足取りだったぜ。おかげで俺のサイフは今や、地獄のドライヤーで一晩中乾かされたみたいにカラカラの空っぽさ!」
身長百九十センチのスタイリッシュな筋肉巨漢、森繁龍。 この男、タイトな黒いジャケットを着崩したまま、綺麗になったソファーにこれでもかと長い手足を投げ出し、競馬新聞を片手に不機嫌極まりない顔で悪態を吐き散らしておりました。
「もう! 森繁さん! 帰ってくるなり競馬の文句ばかり言わないでください! せっかくお部屋を綺麗にして、美味しいお昼ご飯を作っておいたんですから!」
キッチンのほうから、ハタキをお盆に持ち替えて、エプロン姿の天羽莉紗がひょっこりと顔を出しました。
フードを外したその頭には月の光を溶かし込んだような美しい銀髪、そしてその奥でくるくると表情豊かに動く深紅の瞳。
今やこの事務所の完璧な日常のオアシスとなった少女が、湯気の立ち上る大皿をテーブルの上に置きました。
「ほら、お肉もジャガイモも柔らかく煮込んでおきましたから。さっさとそれ、食べてください!」
莉紗が差し出したのは、なんとも香ばしい和風の出汁の匂いが漂う、極めてオーソドックスで美味しそうな肉じゃがでございました。
「おいおいお嬢ちゃん。俺の胃袋はもっとエキゾチックでワイルドな珍味を求めて叫んでるんだぜ。こんなお行儀の良い肉じゃがじゃ、地獄の三ツ星シェフも退屈すぎてあくびを噛み殺すのが関の山だ」
龍は競馬新聞を放り投げ、いつもの吹き替え調で心底嫌そうに悪態をつきました。
ですが、皆様!
口ではどれほど悪態をつこうとも、この男の胃袋は莉紗の手料理の美味さを百も承知でございます!
バタバタバタ、ガチガチ、バシィ!
言葉とは裏腹に、龍は凄まじいピッチで箸を動かし、お肉を、ジャガイモを、ニンジンを一瞬にして口へ放り込んでいきます。
そして莉紗が唖然として見守る中、わずか数分足らずで、大皿の上は一滴の煮汁すら残らずピカピカの更地へと変貌を遂げてしまったのでございます!
「……フゥ。まあ、皿を洗う手間を省いてやったと思えば、お前も俺の親切心に涙を流して感謝するこったな、お嬢ちゃん」
龍は満足げにゲップを噛み殺し、不敵に笑ってつまようじをくわえました。
それを見た莉紗は、両手を腰に当ててキレ味の鋭い常識人ツッコミを炸裂させました!
「文句言うなら残してくださいよ! なんで一瞬で完食してるんですか! 感謝するのは私のほうじゃなくて、そのお皿を綺麗に平らげた森繁さんのほうでしょうが!」
「ははは! 相変わらずいいコンビだねえ。莉紗ちゃん、こいつにはそれくらい口うるさく言ってやったほうがいい。油断するとすぐにソファーの一部になろうとするからね」
コツコツと小気味よい革靴の音を響かせ、部屋の入り口から入ってきたのは、上等なスーツを乱れなく着こなしたインテリ。
公認会計士にして、裏では厄介なオカルト案件を捌く情報通の仲介屋、虎徹博光でございます。
「あ、虎徹さん! お疲れ様です。今、お茶を淹れますね!」
莉紗は嬉しそうにキッチンへと戻り、手際よく温かい日本茶を淹れてテーブルへと運びました。
虎徹は莉紗が淹れたお茶を上品に口に含むと、ふぅと満足げに息を吐き出しました。
「ありがとう、莉紗ちゃん。貴女が来てくれてから、この男の事務所もずいぶんと人間らしい生活臭がするようになって本当に嬉しいよ。……さて、龍。七番の駄馬に全財産をスったお前に、これ以上ない極上のご馳走案件を持ってきたんだが、どうだい、少しは聞く耳を持つ気になったかい?」
虎徹はニヤリと不敵な笑みを浮かべました。
「お断りだね、大将。今日の俺は、その七番の駄馬の馬主の家に突撃して、馬の蹄鉄で奴の高級ソファーをズタズタにしてやる計画を練るのに忙しいんだ。お化け屋敷のタダ券なら、他の暇な学生にでもくれてやるこった」
龍はフイと顔を背け、再びソファーに沈み込もうと目を閉じました。
ですが!
虎徹はいつものように、このだらしのない超人を動かすツボを完璧に心得ております。
ドサリ、と重みのある音がテーブルに響きました。
カバンから取り出されたのは、あの異様なまでの厚みを持つ茶封筒!
「今回は依頼人もかなりの資産家でね。これは前金の半分だ。……興味がないなら、この話はなかったことにして、他の便利屋にでも極上のステーキを奢ってやるとするかねえ」
「……おっと、大将」
さきほどまで競馬で燃え尽きていた龍の目が、ギラーンと肉食獣のような獰猛な光を宿して見開かれました。
ソファーからバネのように跳ね起き、一瞬にして虎徹の目の前まで間を詰め、不敵な笑みを浮かべます。
「……おっと、席を立つにはちと早すぎるぜ、大将。俺の人生設計に貯金の二文字はないが、向こうからウィンクしてきた幸運の女神の誘いを無視するほど、俺は無作法な男じゃないんでね。で、その最高にゴージャスな封筒に名前が書かれているのは、どこのどいつだい?」
「はは、お前のその身の軽さはいつ見ても傑作だね。サハラ砂漠のカメレオンだって、お前のその素早い変色ぶりを見たら、恥ずかしくて砂に潜っちまうだろうよ。」
虎徹はニヤリと笑い、お茶をもう一口すすりました。 そのやり取りを見守っていた莉紗は、ふと首を傾げ、温かい湯呑みを両手で包み込みながら、素朴な疑問を二人に投げかけました。
「あの……虎徹さん、森繁さん。そもそも怪異って、本当は何なんですか? お化けや幽霊とは、何か違うんですか?」
「おや、莉紗ちゃん、良い質問だね」
虎徹は瞳を優しく細め、講義を始める大学教授のように丁寧な口調で語り始めました。
「いいかい、莉紗ちゃん。一般に人々が恐れる幽霊や悪魔というのは、かつて生きていた人間の霊魂やオカルト的な実体だと考えられている。……だが、俺たちが相手にしている怪異の正体は、それらとは全く異なる、いわば情報の怪物なんだ」
「情報の、怪物……?」
「そう。人々の怖いという負の感情や、ネットの掲示板、放課後の教室で囁かれる噂話やバズり。そういった無数の情報が集まり、集合的無意識の中で結びつくことで、この現実世界に物理的な質量を持って受肉した存在なんだよ」
虎徹はテーブルの上の茶封筒を指先でトントンと叩きました。
「噂が広まり、信じる人が多ければ多いほど、その怪異は強固な物理質量と圧倒的なパワーを得ることになる。だからこそ、口裂け女やトイレの花子さんのような有名な怪異は恐ろしく強大なんだ」
「でも……だったら、どうしてそんな化け物に森繁さんのパンチやキックが効くんですか? お化けって普通はパンチなんか通り抜けて効かないんじゃ……」
莉紗は不思議そうに龍の大きな拳を見つめました。 虎徹はニヤリと不敵に笑い、龍の顔を盗み見ました。
「それがこの男の持つ最大の理不尽であり、怪異にとっての致命的な天敵である理由さ。莉紗ちゃん、怪異の最大の強みはなんだと思う? それは、人間が彼らを恐れ、畏敬することで生まれる強力な恐怖が装甲なんだ」
「恐怖……」
「そう。だが、この男は怪異を前にしても恐怖するどころか、あくびを噛み殺し、ハエ叩きやスッポンといったおよそ武器とは呼べない日用品でおもちゃのように扱ってコケにするだろう?」
「あ、確かに……」
「その怪異に対する完全な無関心と侮蔑こそが、彼らの恐怖を剥ぎ取る世界で唯一の弱体化なんだよ。装甲を剥がされてただの物理的な肉の塊に成り下がった怪異に対して、この男の規格外のフィジカルが純粋な質量兵器として炸裂する。だから物理的にボコボコにして灰にできるというロジックさ」
莉紗は目を見開き、感心したように深く頷きました。
「なるほど……! 恐怖のバリアを剥がしちゃえば、オバケもただの肉の塊だから、森繁さんのパンチがそのまま効くんですね。……でも、なんで森繁さんには怪異の呪いやルールが効かないんですか?」
「簡単な話さ、莉紗ちゃん。こいつが、ただの常識外れのバカだからさ」
「おいおい大将、聞こえてるぜ」
龍はソファに深く沈み込んだまま、気だるげにぼやきました。
「俺の繊細なハートにそんな百マイルの毒舌ストレートをぶつけるのはやめてくれよ。俺はただ、ジメジメした化け物どもに俺のハンサムなツラを見せてやって、ちょっとばかり肩を貸してやってるだけさ。で、今回のターゲットはどんな可愛いお嬢ちゃんだい?」
「フン、可愛いお嬢ちゃんとは程遠い、正真正銘のバケモノさ」
虎徹は手元の資料を開き、その表情を少しだけ真面目なものへと戻しました。
「今回の依頼人は、とある由緒正しい地方の広大な田園地帯に建つ別荘を買い取った資産家だ。……その別荘の周囲を取り囲む見渡す限りの田んぼの真ん中に、ここ数週間、不気味な影が現れるようになった。……真っ白で、くねくねと蠢く、正体不明の影がね」
その言葉に、莉紗の肩がピクリと震えました。
「くね、くね……?」
「ああ。ネットの掲示板や都市伝説の愛好家の間ではあまりにも有名な怪異さ。それを見て正体が何であるかを理解しようとした別荘の管理人は、脳の許容量を超えた精神汚染を食らい、一瞬にして廃人のようになって病院へ担ぎ込まれた」
虎徹は言葉を区切り、怪異の厄介な生態を解説します。
「そいつは姿を見ただけで精神を崩壊させる。直接触れるどころか、どれほど離れていようと、その存在を理解しようとするだけで脳が焼き切れるという、極めて厄介なルールを持っているんだよ」
「ひええ……見るだけで頭がおかしくなっちゃうなんて、そんなの、どうやって退治するんですか!?」
莉紗は怯えたように自分の腕を抱きしめました。 ですが皆様! 森繁龍はそんな最恐のルールを前にしても、不敵に笑ってあくびを漏らすだけでございます!
「フッ、見つめ合うだけで脳みそをシェイクしてくれるなんて、ずいぶんとお熱いダンスパートナーじゃないか。地獄のジュークボックスもお前のその恐ろしい噂話を聞けば、ボリュームを最大にして大歓迎のダンスナンバーを流すだろうよ」
龍はソファーから立ち上がり、タイトな黒いジャケットの襟を正しました。
「お嬢ちゃん、そんな白いミミズの盆踊りに震えるのは今日でお終いにしてやるぜ。大将、その分厚い前金を俺のポケットにねじ込んで、さっさとその別荘ってやつへ案内してもらうとしようか」
「もちろんさ、相棒。今回の怪異はずいぶんと脳に直接響く硬い仕上がりのようだがね」
虎徹はニヤリと笑い、莉紗を振り返りました。
「莉紗ちゃん、君も来るかい? 別荘地はなかなかのどかな田舎だから、ちょっとしたピクニック気分で行くといい。……もっとも、そこに待ち受けているのはピクニックとは程遠い、絶望的な悪夢の入り口かもしれないがね」
「わ、私も行きます! 森繁さんを一人にしておくと、また学校のドアみたいに別荘を木っ端微塵にしちゃいそうですから!」
莉紗はぷんぷんと怒りながらも、どこか嬉しそうにフード付きのパーカーを羽織り、二人の後ろへと小走りでついていくのでございました。
おやおや、皆様!
のどかな田舎に蠢く、最恐の白い影。
はたして、森繁龍の圧倒的な物理暴力は、見るだけで精神を崩壊させるという理不尽なオカルトルールを、いかにして粉砕するのでございましょうか!?
物語のあぜ道には早くも不穏な夕闇が迫りつつあるようでございます。
この続きは、次回のお楽しみ!




