トイレの花子さん 1
さてさて皆様、お立ち会い!
怪しい噂のその影に、潜むは怨念、あるいは人の心のひずみ。
物言わぬコンクリートの壁が、夕闇に染まるその瞬間の、なんとも言えぬ薄気味悪さ。
昼間の賑わいが嘘のように消え去り、静まり返った学び舎は、夜の帳が下りるのを今か今かと待ち構えているのでございます。
右を見りゃあ整然と並ぶ無人の机、左を見りゃあ夕日に赤黒く照らされた廊下の窓。
そんな日常の延長線上にこそ、奈落の入り口は口を開けて待っているのでございます。
トントントン、と拍子木の音が重く、寂しげに響き渡ります。
ところ変わってこちらは都内、天羽莉紗の通う私立高校。 秋の陽光は釣瓶落とし、まだ午後五時を回ったばかりだというのに、空は茜色を通り越して、紫がかった薄暗い影を校舎に落とし始めておりました。
部活動の掛け声も、遠くのグラウンドからかすかに聞こえるのみ。
いつもは賑やかな一般校舎の三階廊下を、カツ、カツ、と場違いなほど力強い革靴の音を響かせて歩く男が一人。
「やれやれ、お嬢ちゃん。放課後のデートにしちゃあ、ずいぶんと陰気で退屈な場所を選んだもんだ。俺の古いジャケットに、この安っぽいワックスの匂いが染み付いちまいそうだぜ」
身長百九十センチのスタイリッシュな巨漢、森繁龍。
タイトな黒いジャケットのポケットに両手を突っ込み、だらしなく長い足を交互に前に出しながら、面倒くさそうに生あくびを噛み殺しておりました。
「すみません、森繁さん……。わざわざこんなところまで、ついてきてもらって」
そのすぐ後ろを、天羽莉紗が小走りでついてまいります。
銀髪と赤い瞳を、季節外れの深いフードの奥にすっぽりと隠し、まるで行き先のない仔犬のように、龍の背中の影にぴったりと寄り添っておりました。
「謝る必要はないさ、お嬢ちゃん。お前のそのしおらしい顔を見るためなら、地獄の閻魔様への挨拶状を何通書いたって構やしない。もっとも、その手間に見合うだけのデカい前金が、俺のポケットを温めてくれているからだがね」
龍はニヤリと不敵に笑い、ポケットの中で分厚い茶封筒をポンと叩きました。
「でも……本当に、その……出るんでしょうか」
莉紗は怯えたように周囲の廊下を見回しました。
並んだ教室のガラス窓はどれも静まり返り、夕方の冷たい風が、窓枠をガタガタと小さく揺らしております。
「フッ、お化け屋敷のタダ券を握りしめて入った途端に、仕掛けが壊れてたってのはよくある話さ。ここまで一時間、お前の学校の隅から隅まで散歩したってのに、埃っぽい美術室の彫像と、音楽室のベートーヴェンの肖像画が俺を睨みつけてきただけだ。あいつら、俺のハンサムなツラに嫉妬でもしてるのかもな」
龍は肩をすくめ、まったく緊張感のない調子で皮肉を飛ばします。
ですが、皆様!
怪異とは、そう簡単に人間の前に姿を現すものではございません。
「あの、……私の勘違いだったんでしょうか……」
莉紗は俯き、自分の袖口をぎゅっと握りしめました。
「おいおい、お嬢ちゃん。自分を疑うのは、三流のギャンブラーがポーカーで負け越した時だけにするこった。お前が震え上がったあの冷たい空気は、ただの風邪の引き始めにしちゃあ、ちと手が込みすぎている。だがまあ、今日はお化け共も、俺という上等なゲストを前にして緊張で個室に引きこもっちまったらしい」
龍は首の骨を軽く鳴らし、階段の手前で足を止めました。
「今日のところは引き上げて、美味い中華でもつつくこった。お前には、あのケーキ屋の特製タルトを丸ごと三個、胃袋に叩き込ませてやるって約束したからな。甘いもんは、おびえたお嬢ちゃんの頭を冷やすには一番の薬だぜ」
「……はい。ありがとうございます、森繁さん」
龍のいつもの不遜で、けれどどこか安心感を与えるキザな物言いに、莉紗の暗い横顔にほんの少しだけ、ほっとしたような光が灯りました。
トントントン、と場面は下りまして、二人は一階の昇降口へと向かいます。
「あの、森繁さん。帰る前に、ちょっとだけ、お手洗いに行ってきてもいいですか? すぐに戻りますから」
莉紗は昇降口の手前で、廊下の奥にある女子トイレを指差しました。
「おっと、構わないぜ。だが、あんまり長居するんじゃない。俺の胃袋はすでに、極上の北京ダックを迎える準備を完璧に整えちまってるんだからな。五分過ぎたら、お前のタルトを半分俺が平らげるってルールを追加するぜ」
「あはは、急いで行ってきます!」
莉紗はフードの奥から少しだけ笑顔を見せると、薄暗い廊下の先にある女子トイレへと、弾むような足取りで向かってまいりました。
トイレの白い扉は静かに開かれ、彼女の身体を吸い込んでしまったのでございます。
パタン、と扉の閉まる軽い音。
それが、この世とあの世を分かつ、最後の境界の音でございました。
トイレに入った莉紗は、いつも使っている一番奥の個室のドアを開け、中へと入りました。 鍵をカチャリと掛け、ふぅと深い息を吐き出します。
ですが、どうしたことでしょう。
莉紗が鍵を掛けた、まさにその瞬間。
耳が痛くなるほどの、異様な無音が、突如として空間を支配したのです。
ポタ、ポタ。 それまで聞こえていた、グラウンドからの部活動の掛け声も、窓の外を走る電車の遠い音も、木の葉を揺らす風のささやきも。
すべてが、まるで冷たい真空パックに閉じ込められたかのように、一瞬にして消え去ってしまいました。
聞こえるのは、自分のドク、ドクと高鳴り始める心臓の音と、どこかの蛇口から滴り落ちる、水滴の音ばかり。
「……あれ?」
莉紗は、ごくりと唾を飲み込みました。 空気が、一瞬で凍りつくように冷たくなっていきます。
自分の吐き出した息が、夕方のトイレだというのに、白く、うっすらと凍りついて空間に漂うではありませんか。 個室のわずかな隙間から見える、窓の外。
さっきまで茜色に輝いていたはずの夕空が、どうしたことでしょう、まるで腐ったドブ川の泥をぶちまけたような、赤黒く濁った異様な暗闇へと変貌を遂げている。
慌てて制服のポケットからスマートフォンを取り出しますが、液晶画面に映し出された電波表示は、激しく明滅した後に圏外の文字へと切り替わりました。
「嘘……なんで……」
莉紗の頭の裏を、一週間前のあの恐怖が激しくノックします。
嫌な予感に心臓を鷲掴みにされながら、彼女が個室の鍵に手をかけ、外に出ようとしたその時。
カチャ、カチャ。
「え……?」
開かない。
鍵のつまみは確かに開く方向に回っているというのに、個室の木製の扉は、まるで外側からぶ厚いコンクリートで固められてしまったかのように、びくとも動かないのでございます。
「開いて、お願い、開いて……!」
莉紗は必死にドアノブをがちゃがちゃと揺らしましたが、冷たい金属の感触が、彼女の絶望を嘲笑うように冷たく跳ね返るばかり。
べちゃ。 べちゃ、べちゃ。
しんとした静寂を切り裂いて、聞こえてまいりました。
それは、水に濡れた小さな裸足が、コンクリートの床を這い回るような、湿り気を帯びた足音でございました。
ゆっくりと、確実に。
トイレの入り口から、莉紗の閉じ込められている一番奥の個室へと向かって、一歩、一歩、間を詰めて歩いてくる。
おやおや、これはいけません!
あの時の悪夢が、さらに濃い怨念を孕んで、この狭い密室に押し寄せてまいりました!
「ひっ、あ、ああ……」
莉紗はドアから手を離し、個室の隅へとじりじりと後ずさりいたしました。
背中が冷たい便器のタンクに当たり、もうこれ以上、後ろへは逃げられない。
べちゃ、べちゃ、べちゃ……。
足音は、ついに莉紗の目の前。
個室の扉の一枚を隔てた、すぐ真向かいで、ピタリと止まりました。
静まり返る密室。
莉紗は呼吸を止め、両手で自分の口をきつく塞ぎました。
声を漏らせば、その瞬間に何かが終わってしまう。
そんな絶対的な死の気配が、扉の向こうからじっとりと染み出してくるのでございます。
トントン。
心臓が止まるかと思うほどの、軽やかで、それゆえに不気味なノックの音。
「――莉紗ちゃん」
「――あーそーぼー」
ひぃっ、と莉紗の喉が引きつりました。
その声は、耳鳴りのように頭の芯を揺さぶる、ひどく掠れた子供の声。
まるで、錆びついたハサミで喉の肉をぐしゃぐしゃにかき回しながら喋っているような、この世のものとは思えぬ濁った響き。
ですが、それだけではございません。
個室のドアの下、わずか十数センチの隙間から、何かがぬうっと侵入してきたのでございます。
それは、真っ黒く汚れた、水に濡れてぶよぶよにふやけた、子供の足でございました。
ただの足ではございません。
その足元から、じわりじわりと、おぞましい赤黒い水が染み出し、莉紗の立っている足元へと向かって、床を這うように広がっていく。
「嫌、来ないで……来ないで!」
莉紗は頭を抱え、床にへなへなと座り込んでしまいました。
空間そのものが歪み始めます。
個室の四方の壁から、じわり、じわりと、黒い脂のような粘着質の液体が染み出し、それが壁を伝って滴り落ちる。
見上げる天井の蛍光灯は、チチチ……と不快な音を立てて明滅し、その光は奇妙にねじ曲がって、まるで無数の白い目が莉紗を見下ろしているかのように、ぐにゃりと波打つのでございます。
トントン。 トントン、トントン、トントン!
ドアを叩く音が、徐々に激しさを増してまいります。
最初は指先だったものが、拳になり、やがては体ごとぶつかってくるような、凄まじい衝撃へと変わっていく。
がちゃん! がちゃん!
扉の鍵が、外からの凄まじい暴力によって、壊れんばかりに激しく揺れ動く。
「莉紗ちゃん!」
「開けて!」
「どうして遊んでくれないのォォォォ!」
狂気に満ちた叫び声が、トイレ全体に反響し、莉紗の脳髄を直接かきむしるように響き渡ります。
逃げ場のない、圧倒的な密室の恐怖。
それが、このジメジメとしたトイレの個室で、受肉した化け物の形をとって、今まさに莉紗を食い殺そうとしている。
「……誰か、誰か助けて……!」
莉紗は涙で視界を濡らし、膝を抱えて、ただ嵐が過ぎ去るのを祈るように小さく丸まりました。
ですが、鉄の扉は今にもへし折れ、あの耳元まで引き裂かれたようなおぞましい異形が、そのハサミのような爪を伸ばして彼女の喉元を切り裂こうと、すぐそこにまで迫っている。 もうダメだ。
化け物が、私を連れていくんだ。
絶望が莉紗の心を完全に塗りつぶし、彼女が諦めてぎゅっと目を瞑った、その瞬間!
カツ、カツ、カツ。
空間を揺るがしていたおぞましい咆哮が、一瞬にしてピタリと止まりました。
代わりに聞こえてきたのは、この地獄のような異界の静寂を、これでもかと無神経に踏み荒らす、あの場違いに軽快な、実にもって重厚な男の靴音でございました。
「おいおいお嬢ちゃん。いくら北京ダックが美味そうだからって、そんな狭い個室に立てこもって、お腹の心配をするにはちと時間がかかりすぎてるぜ。俺の胃袋はもう、そこらの安いダイナーの冷え切ったポテトじゃ誤魔化せないレベルで悲鳴を上げてるんだがね」
トイレの入り口の扉が、何の躊躇もなく、ガシャァン!と不作法な音を立てて蹴り開けられました。
その向こうに佇むのは、身長百九十センチの圧倒的な質量。
森繁龍が、いつものように気だるげに、けれどその瞳にギラリと獰猛な光を宿して、そこに立っていたのでございます!
ああ、なんという不敵なる救世主の登場でしょうか!
この続きは、次回のお楽しみ!




