出会い
さてさて皆様、お立ち会い!
お釈迦様でも気づくまい、人の世の欲望というものは尽きないものでございますが、それと同じくらいに尽きないのが、口から口へと伝わる噂の恐ろしさ。
右を見りゃあネットの掲示板、左を見りゃあ放課後の教室の片隅。
たかが噂と侮るなかれ。
トントントン、と拍子木の音が不穏に響きます。
ところ変わってこちらは都内、中央区の片隅に建つ、いささか年季の入ったビルの二階。 おや、窓ガラスには掠れた文字で森繁便利事務所と書かれておりますねえ。
ガラリとドアを開けて中を覗けば、そこにあるのは、お世辞にも片付いているとは言えないだらしのない男の城。
時刻はとうに昼を過ぎ、秋の暖かな日差しが室内に差し込んでいるというのに、事務所の主はといえば……。
「……やれやれ、世界中が日曜日の朝みたいに静かだったら、俺の睡眠はもっと完璧だったんだがね」
身長百九十センチのスタイリッシュな筋肉巨漢、森繁龍。 この男、タイトな黒いジャケットを着崩したまま、事務所の薄汚れたソファにこれでもかと長い手足を投げ出し、死んだ魚のような目で天井を見つめておりました。
手元には、ウィスキーのマヨネーズ割り。
偏食家として知られる彼の、本日の気まぐれな珍味でございます。
「おいおい、相棒。昼間から酒なんていいご身分だな。お前がそうやってソファーのクッションと一体化している間にも、世の中の勤勉なビジネスマンは汗水を流して働いているんだ」
コツコツと小気味よい革靴の音を響かせ、部屋の入り口に佇んだのは、上等なスーツを乱れなく着こなしたインテリ。
龍の昔からの知り合いであり、公認会計士にして、裏では厄介なオカルト案件を捌く情報通の仲介屋、虎徹博光でございます。
虎徹は呆れたように首を振り、書類カバンをテーブルの上に置きました。
「うるさいぜ、大将。俺の貴重な睡眠時間を削る気なら、地獄の閻魔様も驚くような数字を提示してもらわなきゃあ、寝返りを打つエネルギーすら湧きやしない。ちょうど、三ツ星レストランの極上ステーキの最後の一切れを賭けた、緊迫したポーカー勝負に勝つ夢を見ていたところなんだ」
龍は気だるげにウィスキーのマヨネーズ割りを飲み、グラス片手に、片目で虎徹を睨みつけました。
「ほう、そいつは傑作だ。お前のその極上ステーキよりも、はるかに美味そうなご馳走を持ってきたんだがね。どうだい、少しは聞く耳を持つ気になったかい?」
虎徹は、不敵な笑みを浮かべました。
「お断りだね。今日の俺は、お前の長ったらしいお説教を聞くより、冷蔵庫の霜を眺めている方がよっぽど有意義だと思ってる。お化け屋敷のタダ券なら、他の暇な学生にでもくれてやるこった」
龍はフイと顔を背け、再び眠りの深淵へと落ちようと目を閉じました。
ですが皆様!
仲介屋の虎徹も、このだらしのない超人を動かすツボを、百も承知でございます!
「やれやれ、そう言うと思ったよ。だが、依頼人はかなりの資産家の関係者でね。今回は前金として、こちらの数字が提示されているんだが……まあ、興味がないなら、この話はなかったことにして、他の便利屋に美味いパスタでも奢ってやるとするかねえ」
虎徹はわざとらしくため息をつき、書類カバンから、一通の分厚い茶封筒を取り出しました。
その封筒の、異様なまでの厚み!
中身がすべて、透かしの入った最高額の紙幣であることは、疑いようもございません!
机の上に、ドサリ、と重みのある音が響きました。 その瞬間!
「……おっと、大将」
さきほどまで死んだ魚のようだった龍の目が、ギラーンと肉食獣のような獰猛な光を宿して見開かれました。
ソファーからバネのように跳ね起き、長い手足をしなやかに動かして、龍は一瞬にして虎徹の目の前まで間を詰めておりました。
「話は最後まで聞くもんだぜ、相棒。俺の辞書には不労所得という言葉はないが、目の前にある幸運を蹴り飛ばすほど、俺は信心深くもないんでね。で、その封筒に相応しいターゲットは、どこのどいつだい?」
「ははあ、現金な奴だ。お前のその変わり身の早さは、地獄のコウモリでも追いつけないだろうよ」
虎徹はニヤリと笑い、茶封筒を指先でトントンと叩きました。
「だが、今回の件は少々訳ありでね。仕事の内容は、俺の口から説明するよりも、当事者から直接聞いた方が早い。……おい、入ってきなさい。もう大丈夫だ」
虎徹が事務所のドアに向かって優しく声をかけると、ノブがゆっくりと回り、一人の少女が恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れてまいりました。
少女は、季節外れの深いフードのついたパーカーを頭からすっぽりと被り、うつむき加減に歩いてまいります。
ですが、フードの隙間から覗くその髪は、まるで月の光を溶かし込んだかのような、美しい銀髪。
そして、長い前髪の奥で不安げに揺れる双眸は、妖しくも美しい、深紅の赤い瞳でございました。
なんとも浮世離れした美少女。
ですが皆様、今の彼女は、まるで世界中の不幸をその背中に背負っているかのように、ひどく暗く、恐怖にガタガタと震えておりました。
「初めまして、森繁さん。……天羽莉紗、です」
少女は、蚊の鳴くような震える声で名乗りました。
「やれやれ、大将。ずいぶんと可愛らしいお嬢ちゃんだが、ここは迷子の保護施設じゃないぜ。それとも、その銀髪に似合う極上のチョコチップクッキーでも、俺に焼いてほしいってのかい?」
龍はいつもの吹き替え映画風の調子で肩をすくめましたが、莉紗は怯えたように身を縮め、龍の身長百九十センチの威圧感に、さらに一歩後ずさりました。
「おい、龍。女の子を怖がらせるんじゃない。天羽さんは、現在、都内の由緒正しいお嬢様高校に通っているんだが、そこである怪異の事件に巻き込まれかけているんだ」
虎徹がいつもの紳士的な営業スマイルを浮かべ、莉紗にソファを勧めました。 莉紗は恐る恐るソファーの端に腰掛け、両手で温かいお茶のカップを握りしめました。
「あの、私……本当に怖くて。普通に毎日を過ごして、普通に学校に通っていただけなのに、どうしてあんな恐ろしい目に遭わなきゃいけないのか、今でも夢じゃないかと思うくらいで……」
莉紗はぽつりぽつりと話し始めました。
「最近、私の通う学校の女子トイレに、出るって噂があるんです。いつも私たちが普段使っている校舎の女子トイレなんですけど……トイレの花子さんが……」
「おいおいお嬢ちゃん、高校生にもなってトイレの花子さんかい?」
龍はテーブルに肘をつき、おかしくてたまらないというように鼻で笑いました。
「てっきりランドセルを背負った小学生たちの専属アイドルかと思ってたがね。最近のハイスクールじゃ、そんな古典的なお伽話に震え上がるのが流行りなのかい?」
「ふざけるな、龍。笑い事じゃない」
虎徹が目を鋭く光らせ、龍を制しました。
「天羽さんが体験したのは、そんな子供騙しの噂話なんかじゃないんだ」
莉紗は赤い瞳に涙を浮かべ、さらに声を震わせました。
「そうなんです……! あれは、ただの噂の化け物なんかじゃ……。一週間前、私が放課後に、そのいつも使っているトイレに一人で残っていた時、誰もいないはずなのに、個室のドアの向こうから、はっきりと声が聞こえたんです」
「声?」
「はい。……私の名前を呼ぶ、声が。莉紗ちゃん、あーそーぼーって。……掠れていて、まるで、喉をハサミで切り裂かれたような、変な声で……。」
莉紗の言葉に、部屋の空気が一瞬にして、ひやりと凍りつくようでございました。
「その声が聞こえた瞬間、個室のドアの鍵が外からがちゃがちゃと激しく揺れて、何かが入ってこようとしたんです。私は必死でドアを押さえて、大声で叫んだら……通りかかった先生が来てくれて、なんとか助かったんですけど」
莉紗は自分の肩を抱きしめ、震えを抑えるように強く目をつむりました。
「それから毎日、夕方になると、どこからか水滴のポツポツと聞こえてきて……まるで私を追い詰めるみたいに、どんどん近づいてきている気がするんです……。もう怖くて、学校に行くこともできなくて……」
莉紗の悲痛な告白に、事務所は静まり返りました。
龍はウィスキーのマヨネーズ割りを最後の一口まですくい上げると、コップを流し場へと放り投げました。
「フッ、こいつは傑作だ。トイレの個室で女の子の名前を連呼するなんて、お世辞にも上品な趣味とは言えないねえ。だが、そこまで俺を歓迎してくれているお嬢さんがいるなら、挨拶に行かないのは紳士のガラじゃないな」
龍は不敵に笑い、ソファーから立ち上がりました。
「お嬢ちゃん、その深いフードは、明日には外して、街で一番お洒落なケーキ屋の特製タルトでも笑って食べられるようにしてやるぜ。そのために、この俺が、そのジメジメしたトイレの化け物を、完膚なきまでにデコレーションしてやるってわけだ」
ああ、なんという頼もしさ、なんという不遜なヒーロー!
高額の依頼料と、新たなサンドバッグの気配に、森繁龍の心が浮きたちます。
はたして、校舎の暗がりに潜むトイレの花子さんとは!?




