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口裂け女(後編)

 さてさて皆様、お立ち会い!

 突如として現れた身長百九十センチのスタイリッシュな筋肉巨漢、森繁龍。

 彼が鉄万力のごとき素手で、口裂け女の振り下ろした凶刃、あの悍ましい裁ちバサミをむんずと受け止め、さらにはそのおぞましき引き裂かれたお顔を生ゴミのパックとこき下ろしたところで、お話は一時停止、ちょうど幕が下りたところでございました。

 さあさあ、ここからが皆様お待ちかね。

 本日の大立ち回りでございます!



「あ……アア……!?」

 耳元まで引き裂かれた、おぞましくも醜いその口から、信じられないものを見たというように、掠れた声が漏れ出します。

 それもそのはず、これまで数多くの人間を恐怖のどん底に突き落とし、その喉笛を冷たく切り裂いてきた口裂け女にとって、己の自慢のハサミを素手で、それもミリ単位すら動かせぬほどの圧倒的な怪力で受け止められたことなど、かつてただの一度もございません。

 化け物退治の常識を根底からへし折るこの暴挙! 

 女は屈辱に顔を真っ赤に染め、狂ったようにハサミを引き抜こうと腕に力を込めます。

 が、龍の腕はまるでコンクリートに深く埋め込まれた太い鉄柱のごとく、ピクリとも動きゃあいたしません。

「おいおいお嬢ちゃん、そんなに顔を真っ赤にして踏ん張るんじゃないぜ。お前のその自慢のハサミ、ずいぶんと手入れを怠っているようだ。地獄の刃物研ぎ師も呆れてスプーンですら研がせてくれないだろうよ。少し油でも差してやろうか?」

 龍は口の中のガムをクチャリと噛みながら、至近距離に迫るおぞましい怪異の顔面を平然と見つめ、フンと鼻で笑いました。

「ギ、ギギギ……キエエエエエ!」

 言葉にならない叫びを上げ、女はさらなる力でハサミを引き抜こうと抵抗します。

 しかし、龍は全く意に介さず、空いた左手を上着のポケットへとゆっくり突っ込みました。

 おやおや、皆様、龍の旦那が何かを取り出しましたよ!

 暗がりの中で取り出されたのは……なんと、カラフルなプラスチック製のおもちゃのハエ叩きではありませんか!

 いやはや、緊迫した怪異との対峙で取り出すものがハエ叩きとは、なんとも人を食った男でございます!

「やれやれ、きれいかどうかだと?お前、さっきから俺の相棒の小言よりもしつこいぜ。だが、そんなみっともない引き裂かれたツラを見せつけられて、俺がきれいだなんて言うとでも思ったかい?」

 龍は、前編で口裂け女から投げかけられた狂気の問いかけに対し、おもちゃのハエ叩きを肩にポンポンと当てながら、呆れたように答えを返します。

「お前が俺の好みのタイプじゃないことだけは確かだ。残念だったな、お嬢ちゃん。俺の答えはこうだ」

 言うが早いか、龍は左手のハエ叩きを、まるでお気楽なテニスラケットのように滑らかにしならせました。

 シュッ!

 ペちん!

 乾いた、それでいて妙に気の抜けた音が、夜霧の立ち込める不気味な路地裏に、やけに響き渡りました。

 なんと、あの恐るべき都市伝説の女王の額を、龍はただのハエ叩きで小気味よく叩きはたいたのでございます!

「あ痛っ!? ――な、何を……!?」

 怪異が痛がるというのもおかしな話ですが、あまりの理不尽な仕打ちに、口裂け女は大きく目を見開いて絶句いたしました。

「おいおい、そんなに大声を出すなよ。耳元まで裂けた口から漏れ出すその息、お世辞にもバラの香りとは言えないぜ。まるで三年前に廃業した下水処理場のど真ん中で、腐った生魚を煮詰めたような悪臭だ。お前のママは歯磨きの仕方を教えてくれなかったのかい?」

 龍はそう言いながら、ハエ叩きを器用にポケットに引っ込め、今度は別のものを取り出しました。

 それは、家庭のトイレでよく見かける市販の消臭スプレーでございます!

 ノズルを平然と怪異の鼻先へ向け、龍はためらいなく引き金を引きました。

 シュッ、シュシュッ!

 霧状に噴射された爽やかなラベンダーの香りが、口裂け女の全身から漂うドブ川のような腐臭を、力技で一瞬にして包み込んでまいります。

「ケホッ! ゲホッ! な、ななな、何をするのォォォ!」

「おっと、じっとしてろよ。少しはマシな匂いになった。これでママのアップルパイの香りとまではいかなくても、せめて地獄の入り口の芳香剤くらいにはなったってわけだ」

 口裂け女は屈辱と怒りに震え、目から怨念の涙を流さんばかりに顔を歪めました。

 ですが、龍のおもちゃ扱いはこれだけでは終わりません。

 次に龍が取り出したのは、大工仕事で使う金属製の巻尺でございました。

 龍はハサミを掴んだまま、巻尺をシュルシュルと滑らかに伸ばし、口裂け女の裂けた口元にピタリと当てがったのです。

「ふむ……右の耳から左の耳まで、きっかり十五センチといったところか。お嬢ちゃん、これは形成外科の専門医に診てもらった方がいいぜ。もっとも、彼らが最初に処方するのはお薬じゃなくて、精神病棟の個室への片道切符だろうがね」

「キエエエエエエエエエエ!」

 ついに口裂け女の堪忍袋の緒が、音を立ててぶち切れました!

 女の髪が逆立ち、トレンチコートの下から無数の黒い影のような触手が這い出し、周囲の夜霧が怨念の力で禍々しい赤黒い色へと染まってまいります。

 空間が、彼女の怒りに呼応してビリビリと不快な音を立てて震動し、先ほどタカシ少年を追い詰めたあの歪んだ迷宮が、さらに深くその呪いの口を開くかのようでございます。

 ひええ、これはいけません! 

 怪異が本気を出してしまいました! 

 空間が、世界そのものが怒り狂っております!

 ですが皆様!目の前の男は、そんな怪異の最大火力の怒りを前にして、かえって満足げに、凶暴な笑みを深めたのでございます!

「くそったれ、やっとまともに殴り甲斐のあるサンドバッグになってくれたようだな」

 龍は掴んでいたハサミの刃に、グッと力を込めました。その瞬間。

 ミシ、ミシ、ミシ……バキィ!

 なんということでしょう!

 口裂け女が長年愛用し、無数の生血を吸ってきたはずの、あの巨大な鋼鉄の裁ちバサミが、龍の凄まじい鉄万力によって、まるで乾燥したビスケットのようにぐしゃぐしゃにひしゃげ、粉々に握りつぶされてしまったのでございます!

「あ、あ、私のハサミが……!?」

「お前のハサミはおもちゃの工作用としては上等だったが、プロの解体作業にはちと強度が足りなかったようだな」

 ハサミの鉄クズをアスファルトへポイと容赦なく投げ捨てた龍は、両手の拳をポキポキと不気味な音を立てて鳴らしました。

「さて、お嬢ちゃん。ここからは、俺の日頃のストレス解消に付き合ってもらうぜ。相棒から持ち込まれる退屈な案件のせいで、こちとら肩が凝って仕方がないんだ」

「オ、オオ、オオオオオ!」

 武器を失った口裂け女は、裂けた口を限界まで開き、獣のようなおぞましい咆哮を上げて龍へと飛びかかりました。

 長い爪の生えた両手が、龍の喉元をめがけて凄まじい風を呼んで迫ります。

 ですが、龍の動きは、それを遥かに凌駕する神速でございました。

「おっと、遅いぜ」

 龍が軽くステップを踏んだ、その瞬間。

 口裂け女の視界から、龍の巨体がふっと消え失せました。

 いや、消え失せたのではございません。

 右を見りゃあ龍、左を見りゃあ龍、前にも後ろにも龍!

 なんと、龍が高速ステップによって作り出した残像分身が、口裂け女の周囲をぐるりと、隙間なく取り囲んでいるではありませんか!

「な、何人いるのォォォ!?」

 パニックに陥り、狂乱する怪異。

 その隙を、龍の本尊が見逃すはずもございません。

 残像の一体が、口裂け女の背後にピタリと実体化いたしました。

「こっちだぜ、お嬢ちゃん」

 ドゴォッ!

 肉と肉が激突する、およそ怪異退治とは思えぬほどの鈍い爆音があたり一面に轟きました。龍の鍛え抜かれた右ストレートが、口裂け女の脇腹へと正確無比に突き刺さったのです。

「ガハッ……!?」

 内臓をすべて吐き出すかのような悲鳴を上げ、口裂け女の細い身体がくの字に折れ曲がりました。

 そのまま時速百キロを超える弾丸のように吹き飛び、新興住宅街の頑丈なコンクリートの壁に激しく激突します。

 壁には蜘蛛の巣状の深いひびが入り、激しい衝撃音とともに白黒の砂埃が激しく舞い上がりました。

 ひえええ!なんという暴虐!なんという絶対的な暴力の塊!

 さきほどまでタカシ少年をあんなにも震え上がらせ、空間すらねじ曲げた恐るべき口裂け女が、今やただの打撃用サンドバッグのように、無残に、徹底的にボコボコにされております!

 これには、あまりの主客逆転ぶりに、思わず化け物の方にお可哀想にと同情の涙を禁じ得ません!

「おいおい、これしきで終わりか? 頑丈さが取り柄の怪異にしちゃあ、ちと打たれ弱すぎるんじゃないかい?」

 龍は煙のように素早く距離を詰め、立ち上がろうとする口裂け女に対して、容赦のないローキックを叩き込みました。

 バキィ!

 嫌な骨折音が響き、女の右足が不自然な方向に折れ曲がります。

 しかし龍は攻撃の手を緩めません。

 手刀、パンチ、そして強烈な回し蹴りが、光の速度のような凄まじいスピードで、口裂け女の肉体へと雨あられと降り注ぎます。

 バキ、ボコ、ドガァ、バシィ!

 殴られるたびに、口裂け女の赤いトレンチコートはズタズタに引き裂かれ、その異形の身体はボロ雑巾のように宙を舞い、アスファルトの上を無様に転がります。

 空間を歪めていた呪いの力も、龍の絶対的な暴力の前に霧散し、ねじ曲がっていた街灯の光も、不気味に黒い脂を流していたコンクリート壁も、みるみるうちに普通の静かな住宅街の景色へと引き戻されてまいりました。

「あ、あう、あ……」

 地面に這いつくばる口裂け女。 耳元まで裂けた口からは、赤黒い液体が止めどなく溢れ、生まれて初めて体験する死への恐怖に、その全身がカタカタと激しく震えておりました。

 怪異が人間に、生命としての根源的な恐怖を抱いている。

 それは、都市伝説の歴史が始まって以来、おそらく初めての異常事態でございました。

 龍は気だるげに首を左右に鳴らし、這い蹲る女を見下ろしました。

「やれやれ、これでお終いってわけだ。地獄に帰ったら、ママにフィジカルが足りなかったとでも報告するこったな」

 龍が最後の一撃を、その右拳に込めました。

 空気が、龍の拳の圧力だけでキィンと金属のように鋭く鳴り響きます。

「せいぜい、地獄で安らかに眠りな、お嬢ちゃん」

 ドゴォッ!!!

 龍の放った最大の一撃が、口裂け女の脳天へと真っ直ぐに炸裂いたしました。

 その凄まじい衝撃波により、周囲の霧が一瞬にして円形に吹き飛ばされるほどでございました。

「――ッ!?」

 声にならない絶句を上げた口裂け女の身体が、一瞬、激しく硬直いたしました。

 次の瞬間、彼女の異形の身体に、まるで見えないガラスにひびが入るように、全身へピキピキと赤黒い亀裂が走り始めたのでございます。

「あ……ああ……」

 口裂け女は、もう逃げ去る力すら残されておりません。

 彼女の身体は、足元からゆっくりと、カタカタと震えながら、まるで古い紙が燃え尽きるかのように灰へと変わり始めました。

 耳元まで裂けたあの凄惨な口も、赤黒い亀裂に飲み込まれ、サラサラと音を立てて崩れてまいります。

 引き裂かれた赤いトレンチコートも、怨念の塊であったハサミの残骸も、すべてが漆黒の、それでいて光を吸い込むような不思議な灰となり、冷たい秋の風に攫われて、夜霧の彼方へと消え去っていきました。

 あとに残されたのは、ただの静まり返った新興住宅街の、少し壊れたアスファルトの路面だけでございました。

 おやおや、なんということでございましょう!

 あれほど夜を震え上がらせた都市伝説の女王が、逃げ去ることも叶わず、純度百パーセントの物理暴力によって木っ端微塵、いえ、一掴みの灰となって、完全にこの世から消滅してしまったのでございます!

 これぞまさに、スタイリッシュにして冷酷なる、現代の怪異物理討伐!

「ふぅ……。上着にゴミがついちまった。クリーニング代、高くつきそうだな」

 龍はジャケットについた黒い灰をパッパと面倒くさそうに払い、フゥと深く息を吐き出しました。

 そして、龍はゆっくりと振り返り、まだ地面に座り込んで腰を抜かしているタカシへと歩み寄りました。

「おい、兄弟(ブラザー)」

「ひっ……あ、あの……」

 タカシは自分を救ってくれたはずの男を見上げましたが、その圧倒的な存在感と暴力の余韻に、やはり怯えて声が震えます。

 龍はそんな少年の前に不敵な笑みを浮かべてしゃがみ込み、ポンとおもちゃのハエ叩きで彼の頭を優しく叩きました。

「夜更かしは肌に悪いぜ。それに、こんな暗い路地裏で泥パックを試すのは、お前のような若い男にはまだ早い。さっさと立ち上がって家に帰り、温かいココアでも飲んで寝ちまうこった」

 龍はそう言うと、親指を不敵に立ててみせ、ポケットに両手を突っ込んで、まだ薄く残る夜霧の向こうへと、だらしなく歩き去っていきました。

 タカシは呆然とその背中を見送り、ようやく自分が地獄の迷宮から生還したことを理解し、へなへなと安堵の息を漏らすのでございました。




 トントントン、と時が過ぎまして。 ところ変わってこちらは――

 中央区の片隅に建つ、いささか古びたビルの二階。

 そこには、木製のプレートに森繁便利事務所と書かれた森繁龍の事務所がございました。

「おいおい、相棒。帰るなりその死んだ魚のような目はやめてくれよ。せっかく俺様が、お前のためにとびきりの高額案件を捌いて、わざわざ現場まで案内してやったってのに」

 事務所のソファに深々と腰掛け、上等なスーツを着て眼鏡をかけた男が、呆れたようにため息をつきました。

 この男こそ、龍の昔からの知り合いであり、厄介なオカルト案件を捌いて持ち込む仲介屋、虎徹博光でございます。 普段は依頼人の前で完璧な営業スマイルを見せるこの男も、身内である龍の前では、ずいぶんと口の悪い相棒へと早変わり。

「うるさいぜ、大将」

 龍は事務所の冷蔵庫から怪しげな缶詰、ハブ茶のゼリー寄せという偏食家好みの珍味を取り出し、スプーンで口に運びながら、ソファの背もたれに体を預けました。

「高額案件なのは結構だが、お陰で上着が灰まみれだ。あいつ、消滅する時にずいぶんと汚い灰を撒き散らしやがってね。クリーニング代を今回の取り分に上乗せしてくれないと、明日からママのアップルパイどころか、カップラーメンの粉末スープすらすすれなくなっちまう」

「ははあ、そいつは傑作だ。お前がジャケット一枚の心配をしている間に、こちらは依頼人の資産家から『娘が夜道で襲われる悪夢を見なくなった、霧が晴れた』と、大感謝の連絡が届いているんだぜ。おかげでこちらの口座には、予定通りの額が振り込まれたってわけだ」

 虎徹はフッと不敵に笑い、テーブルの上に、厚みのある茶封筒をポンと放り出しました。

「ほらよ、お前の取り分だ。これで上着を十回クリーニングに出すなり、お前のお気に入りの怪しい偏食メニューを買い漁るなりするこった。ただし、事務所の家賃の滞納分は、きっちりここから差し引かせてもらうがね」

「やれやれ、相変わらず抜け目のない大将だ。地獄の取り立て屋もお前には頭が上がらないだろうよ」

 龍は茶封筒を受け取り、中身の札束を確認して満足げにニヤリと笑いました。

「まあいい、サンドバッグとしては上等な硬さだったしな。次の退屈しのぎの相手も、これくらい頑丈な奴を用意してくれよ、相棒」

「フン、お前のような規格外のバケモノに付き合わされる怪異の身にもなってみるこった。だが安心しろ、お前の『サンドバッグ』になりたがっている怪しげな噂は、この東京の闇にいくらでも転がっているからな……」

 二人の不敵な笑みが重なり、事務所の窓の向こう、東京の夜景が静かに煌めいておりました。

 さてさて皆様、本日の口裂け女の物理討伐、これにて一件落着!

 しかしながら、この世に闇がある限り、怪異は生まれ、それを拳一つで粉砕する男の物語は続いてまいります。

 お次のお話は、一体どんな怪異が出てくるかが……。

 それは次回のお楽しみ!


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