口裂け女(前編)
さてさて皆様、お立ち会い!
今宵お話しいたしまするは、昭和の夜を震え上がらせ、平成を駆け抜け、令和の今なお暗がりに燻る、あの余りにも有名な怪異の物語でございます。
右を見りゃあ街灯の頼りない光、左を見りゃあうっそうと茂る黒い生垣。
その細い路地の真ん中に、ぽつねんと佇むのは、赤いトレンチコートを羽織った一人の美しき女。
ですが皆様、決して声をかけてはなりませぬ。
その美しい顔の半分を覆うは、異常なほどに白い立体マスク。
耳元まで引き裂かれた、おぞましい秘密が隠されているのですから……。
トントントン、と拍子木の音が響くように、夜の帳がしんしんと下りてまいります。
ところ変わってこちらは都内、とあるうらぶれた新興住宅街。
冷たい秋の雨がアスファルトを濡らし、夜霧が街灯のオレンジ色の光をぼんやりと滲ませておりました。
時刻は夜の十時を回ったところ。
塾の帰り道を、一人の男子高校生、佐藤タカシが重い自転車のペダルを漕いで急いでおりました。
「くそ、急に霧が濃くなってきやがった……」
タカシは首をすくめ、息を吐き出しました。
白い息が霧に溶けて消えていきます。
普段通る大通りが工事中で通行止めだったため、彼は渋々、入り組んだ住宅街の路地裏へと迷い込んでしまったのです。
静まり返った住宅街。
聞こえるのは、自分の自転車のチェーンが立てる小さな金属音と、べちゃべちゃと濡れた路面をタイヤが踏みしめる音ばかり。
いや、果たして本当に、それだけでしょうか?
「――カツ、――カツ、――カツ」
不意に、タカシの背後から奇妙な音が聞こえ始めました。
それは、硬いヒールが濡れたコンクリートを叩く、一定のリズムを持った足音でございました。
おやおや、皆様、このタカシという坊や、まだ後ろの不穏な気配に気づいておりませんよ! ああ、危ない、早く振り返るのです!
「なんだ? 誰か歩いてるのか……?」
タカシは怪訝に思いつつも、ペダルを漕ぐ足を少し早めました。
しかし、どうしたことでしょう。
「カツ、カツ、カツ、カツ!」
後ろの足音もまた、タカシの速度に合わせるかのように、ピタリと速度を上げてついてくるではありませんか!
ああ、哀れなものでございます。
逃げようとすればするほど、背後の影は間を詰めてくる。
冷たい汗がタカシの背筋を伝い落ちるのが、こちらまでヒヤリと伝わってくるようでございますねえ。
タカシは恐怖を振り切るように、ペダルを全力で踏み込みました。
路地を右に曲がり、さらに左に曲がり、複雑に入り組んだ道を迷路のように進みます。
「はぁ、はぁ……これで撒けたか……?」
自転車を止め、タカシが肩で息をしながら、恐る恐る振り返ったその時。
「――ねえ」
ひっ、とタカシの喉が凍りつきました。
目の前に、いたのです。
いつの間に先回りしたのか、それとも最初からそこに立っていたのか。
霧の中から、ぬうっと赤いトレンチコートを着た背の高い女が姿を現しました。
女の身長はゆうに百八十センチはあるでしょうか。
不自然なほどに長い手足、そして何よりも異常なのは、顔の下半分を覆う巨大な白いマスクでございます。
ただの風邪予防のそれとは明らかに違う、まるで顔面を拘束するかのようにきつく巻かれた布地の厚いマスク。
その上の隙間から覗く、凍りついたように見開かれた双眸が、じっとタカシを見下ろしておりました。
女の全身からは、甘ったるい、それでいて鼻を突くような腐臭、古い化粧水に腐肉のにおいを混ぜ合わせたような、おぞましい悪臭が漂ってまいります。
「ねえ……私、きれい……?」
女の声は、まるで擦り切れたカセットテープを再生したかのように、不自然に低く、濁っておりました。
タカシの脳裏に、かつてネットのオカルト掲示板や、学校の怪談で聞いたあの都市伝説が電撃のように駆け巡ります。
口裂け女だ、本物が目の前にいる。
蛇に睨まれた蛙とはまさにこのこと。
タカシの膝はがくがくと震え、自転車を支えることすらままなりませぬ。
答える選択肢は二つ。
きれいと答えれば、マスクを外した女から同じ裂けた口にされ、不細工と答えれば、その場でハサミで切り刻まれるのでございます。
タカシは震える唇を必死に動かし、オカルト対策として有名な第三の答えを絞り出しました。
「ふ、普通……普通です……!」
どうだ、これならどうだ!タカシは心の中で祈るように女を見つめました。
ですが皆様、怪異とは人間の都合の良いルールだけで動いてくれるほど、生易しいものではございません。
女はピクリとも動かず、ただじっとタカシを見つめておりました。
いや、ただじっと見つめるばかりではございません。
長い指がゆっくりと、その白いマスクの紐へと掛けられたのでございます。
「――これでも、普通、って言えるかしらァ……?」
女がマスクを引き剥がした、その瞬間!
タカシは、あっと叫んで絶句いたしました。
マスクの下にあったのは、人間の口などと呼べる代物ではございませんでした。
唇は左右の耳元まで完全に裂け、剥き出しになった真っ赤な歯茎が、ぬらぬらと濡れた犬歯を不揃いに覗かせております。
裂けた頬の肉からは、赤黒い血と粘り気のある唾液が滴り落ち、彼女が言葉を発するたびに、ベチャ、ベチャ、と不気味な音を立てて波打つのでございます。
ひえええ!なんとおぞましい、なんと悍ましいビジュアルでしょうか!
これを見せられて普通などと言えるわけがございません。
女はコートのポケットから、ギラリと冷たい光を放つ、巨大な裁ちバサミを取り出しました。
錆びついた刃と刃が擦れ合う、「チリ、チリ」という不快な金属音が、静寂な夜の霧に響き渡ります。
「きれい……! きれいでしょう……! ねえ、あなたも私と同じにしてあげるわァァァ!」
狂気に満ちた叫び声とともに、女が襲いかかってまいりました!
「うわあああああああ!」
タカシは自転車をその場に投げ出し、なりふり構わず走り出しました。
とにかく大通りに出なければならない。
街灯の明るい、車や人の通りがある場所へ逃げ込めば、この化け物も追ってこられないはずだ。
そう信じて、彼は泥水を跳ね上げながらアスファルトを蹴りました。
ハサミを振りかざした女が、背後から驚異的なスピードで追ってまいります。
シャー、シャーと、トレンチコートの裾が風を切る不気味な音が、すぐ後ろから聞こえるのです。
右を見りゃあコンクリートの壁、左を見りゃあどこまでも続く不気味な生垣!
タカシは角を右に曲がりました。
ですが、どうしたことでしょう!
曲がったその先、濃い霧の向こう側に、すでにあの赤いトレンチコートの女が、ハサミを握りしめて立っているではありませんか!
「な、なんで……!?」
慌てて引き返し、今度は左の路地へと逃げ込みます。
走って、走って、角を曲がる。
しかし、曲がるたびに、まるで時空を無視したかのように、女が先回りして立っているのです。
「ねえ……」
「きれい……?」
「逃げられないわァ……」
あちらの角からも、こちらの角からも、女の裂けた口から漏れ出る狂気の囁きが響いてまいります。
ここからでございます、皆様。
この新興住宅街が、まるで獲物を絶対に逃がさぬ底なしの歪んだ迷宮へと、じわじわと変貌を遂げていくのでございます!
タカシが必死の思いで駆け抜けるアスファルトは、いつの間にか不自然なほど長く引き伸ばされ、走っても走っても一向に次の角へたどり着きません。
見上げる街灯のオレンジ色の光は、ぐにゃりと奇妙な角度にねじ曲がり、まるで巨大な怪物の濁った目玉のように、ぬらぬらと濡れた夜霧の中に浮かんでおります。
「はぁ、はぁ、はぁ……おかしい、何なんだよここ……!」
おかしい。あまりにもおかしうございます。
右に曲がっても、左に曲がっても、目の前に現れるのは全く同じ表札の家、さっきタカシが通り過ぎたはずの壊れたビニール傘が立てかけられた錆びたゴミ箱、そして、無機質なハチの羽音のような重低音を響かせる、不気味に明滅する自動販売機……。
まるで同じ悪夢の1ページを、何度も何度も強制的にめくられているかのような、恐ろしい無限ループ。
空間そのものが意思を持って、この憐れな坊やを弄んでいるかのようでございます。
冷たいコンクリートの壁からは、じっとりと黒い脂のような油脂が染み出し、夜霧はさらに深く、重く、タカシの肺を冷たく蝕んでまいります。
耳鳴りのように頭の芯を揺さぶる「キィィィィン」という不快な高音。
そしてその音の隙間を縫うように、タカシ自身の「バタバタ」という足音に、わずかに遅れて重なる「べちゃ、べちゃ」という粘り気のある別の足音……。
「カツ、カツ、カツ、カツ」
音が、空間全体から響いてくる。
前からも、後ろからも、上からも、下からも!
「ねえ、きれい……?」
闇のあちこちから、赤いコートの残像がぬうっと染み出すように現れては消え、現れては消える。
まるで世界全体が、巨大な口裂け女の胃袋の内部に変貌してしまったかのような、逃げ場のない、圧倒的な精神的絶望感!
「ひっ、あ、頭がおかしくなる……! 誰か、誰か助けてくれ!」
涙と冷や汗で視界はぐちゃぐちゃににじみ、限界を超えた心臓が、肋骨の内側を壊れんばかりに叩いております。
もう一歩も動けぬ、いや、走っているのか、それともその場で足掻いているだけなのかすら分からなくなったその時、タカシのつま先が、濡れた濡れ落ち葉に無残に滑りました。
「あっ――!」
冷たいアスファルトに、激しく叩きつけられるタカシ。
膝をすりむき、手のひらから血を流しながら、彼は必死に立ち上がろうといたしました。
ですが、ああ、なんということでございましょう!
恐怖に完全に支配された彼の足は、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、がくがくと震えるばかりで全く力が入らない。
ずりずりと、無様に後ずさりする彼の視線の先。
濃い夜霧を引き裂くように、ゆっくりと、あの血のように赤いトレンチコートの裾が近づいてまいりました。
「みィつけたァ……」
見上げれば、そこには街灯のねじれた光に照らされた、耳元まで引き裂かれた狂気の笑み。
女は巨大な裁ちバサミを両手で天高く振りかざし、獲物の息の根を止めるべく、その邪悪な刃をタカシの喉元へと狙い定めたのでございます。
「これで、おしまいよォォォ!」
死の風を孕み、一気に振り下ろされる鉄の刃!
タカシは絶望し、ぎゅっと目を瞑りました。
ああ、もうダメだ。ここで、この暗い迷宮で、僕は切り刻まれて死ぬんだ。
ですが皆様!
ここからが本日の見せ場でございます!
死を覚悟したタカシの耳に届いたのは、肉を引き裂く悍ましい音でも、ハサミの冷たい感触でもございませんでした。
「カツ、カツ、カツ」
あれ?おかしいですねえ。
ハサミの落ちる音がいたしません。
代わりに聞こえてきたのは、先ほどの怪異の足音とは明らかに異なる、どこか場違いなほど軽快で、かつコンクリートを力強く踏みしめる重厚な男の靴音でございました。
「おいおい、大将。そんなところで泥水を這い回って、新しい泥パックの実験でもしてるのかい?」
霧の向こうから、呆れたような、ひどくダウナーで、それでいて芯の通った男の声が響いてまいりました。
タカシが恐る恐る目を開けると、そこには、信じられない光景が広がっておりました。
振り下ろされるはずだった口裂け女のハサミが、ピタリと空中で止められているのです。
それも、その錆びついた凶器の刃を、男の手が、むんずと直接掴み取っているではありませんか!
「え……?」
タカシは呆然と見上げました。
そこに立っていたのは、身長百九十センチはある、スタイリッシュなガッチリ体型の大男でございました。
タイトな黒いジャケットに身を包み、長い手足をだらしなく伸ばしたその男は、口裂け女の異形を前にしても、眉一つ動かしておりません。
男の名は、森繁 龍。
龍は、タカシの腰の抜けた無様な姿をちらりと見下ろすと、口の中のガムをクチャリと噛み、不敵な笑みを浮かべて語りかけました。
「大丈夫か、お寝坊な兄弟。少し寝相が悪かったようだが、夢から覚めるにはちょうどいい時間だぜ。その泥水を這い回る趣味は悪くないが、風邪をひいちまう前にさっさと立って、家に帰ってママのアップルパイでもつつくこった」
目の前で死にかけていた哀れな少年に、まるでお気楽な日曜の朝のような調子で声をかけるこの男。
なんという余裕、なんという不遜でしょうか!
タカシが呆気に取られていると、龍は視線を目の前の赤いコートの女へと戻しました。
「おっと、そいつは感心しないな、お嬢ちゃん」
龍は、口裂け女がハサミを引き抜こうと狂ったように力を込めるのを、片手だけでいとも容易く抑え込みながら、さらに言葉を紡ぎます。
「そんな物騒なハサミを振り回して、この迷子のお寝坊さんを脅かすなんて、お行儀が悪いぜ。ママのアップルパイでも切り分けようってのかい? だが残念ながらここはキッチンじゃないし、俺も気の利いたパティシエってガラじゃないんでね」
口裂け女は、自分のハサミが人間の素手で、それもびくともしない怪力で受け止められていることに、明らかに困惑しておりました。
「あ……アア……?」
マスクのない裂けた口から、濁った声が漏れます。
「私……きれい……?」
女は、いつもの狂気の質問を、目の前の大男に投げかけました。
すると、龍は深いため息をつき、空いている左手で気だるげに耳の裏を掻きながら、心底うんざりしたように言葉を返したのです。
「やれやれ、こいつは傑作だ。その質問、本気で聞いてるのかい? 鏡を見たことがないのか、それともメイクのセンスが八十年代で止まってるのか。お世辞にもきれいとは言えないねえ。耳まで裂けたその口は、まるで売れ残りの生ゴミのパックを引きちぎったみたいだぜ。そうは思わないか、兄弟?」
「き、キエエエエエエエエエ!」
龍の度重なる侮辱、それも、怪異としてのプライドを根底から踏みにじるような辛辣な煽りに、口裂け女の目が怒りで真っ赤に染まりました。
女は狂ったようにハサミを引き抜こうとしますが、龍の握力左右百五十キロ、いや、本気を出せば三・五トンを誇るその指先は、鉄万力のようにハサミの刃を固定して離しません。
「くそったれ、退屈な夜だと思ってたが……お前、なかなかタフそうなツラしてるじゃないか」
龍のダウナーだった瞳に、邪悪な、そして獰猛な光が宿りました。
「絶対に壊れない怪異が、向こうから歩いてきてくれたってわけだ。おい姉ちゃん、赤子の手をひねるより簡単だろうが、ちょうど日頃のストレスが溜まっててね。お前のその頑丈そうな肉体で、ちょっと俺の拳の硬さを試させてもらおうか」
はたして、哀れな口裂け女の運命やいかに!?




