2話
ときに人は理想の姿を投影しようとして、現実の厳しさや難解さに打ちひしがれてしまうこともある。想像の中の自分は上手くいっているのに身体はまったく追い付いてくれない。それに直面した時の苦しさ、倦怠感はどうしようもなく、カップラーメンに卵を入れようとして床に落として無駄にしたり、新しい卵を片手で割ろうとして失敗したりと散々な現実に憂鬱になっている。
部活の見学終わりに何も食べていなかったと思い出してからは、ずっと空腹で雑草すら食えそうな気分なのに、やっているのはカップラーメンに混入させた卵の殻を割り箸で取り除く地味な作業だ。
大きいのはあらかた取り出して、残っているかどうかもわからないのはもういいやと食べ始める。床掃除してからずっと置いていたせいで食べやすい温度になっている麺をいっきに口に運ぶ。
あっという間に食べ終わり、ストックしてあるカップラーメンの数を確認した。日常的に食べているカップラーメンはもう残り一つとなり、重い腰を上げて買いに行くことにする。制服のワイシャツとズボンのまま上は赤いダウンジャケットを着て、財布も忘れずに持ち靴を履き、さあ外へ出ようとする。
「あれ!? 開かねえ!」
立て付けの悪い扉もとうとう寿命か。今日はつくづく運が悪い。思い切ってタックルでもしようかと構えたところで扉の向こうから砂波の声がした。
「すまんちょっと靴紐結んでる」
「ここでやんなよっ!」
どうしてわざわざオレを閉じ込めるように靴紐を結ぶ必要があるんだ。自分が空腹のままだったらここで暴れていたかもしれない。それほど待たずに砂波はすぐ扉を開いた。オレはそのまま外に出て、この野郎に不平不満と八つ当たりをしてやろうと言葉を探した。
「子供みてぇないたずらするなよ……」
いろいろ考え抜いた末にこれしか出なかった。どうも悪口は苦手だ。力のこもってない悪態をついたところで響かないだろう。
「すまない。これから買い物だったか」
相変わらず砂波は首や足元に素肌が見えて寒そうなのに身震い一つしていない。寒さとか感じていないんだろう。中学の頃から暑がっているところも寒がっているところも見たことがない。
「ああ、なんか買ってこようか?」
お互い買い物に行くときに相手の用事もまとめて済ませる事が多い。仲の良いご近所さんの特権だ。
「大丈夫だ」言い切ってから思いついたように「……いや、これで中林に飲み物買ってやってくれ」と言って使い古された折りたたみ財布を開いて小銭をくれた。受け取りながらどういう訳だと考えてから思い出す。
「ああ、昨日ジュース奢られたままだったな。珍しく気が利くじゃん」
あの時の砂波はどちらかというといやいや受け取ってるように見えたけど、あれで感謝していたのか。砂波はいつも無表情だから、長い付き合いでも今だに感情が読み取れない。
初対面の時は気味の悪い奴だと思ったのも懐かしい。あの頃は絶対に仲良くなれないと思っていたのに、何があるかわからないもんだ。未だによくわからん奴だというイメージは変わらないけど。
「あっ、そうだ砂波……」
昼に部活で見た砂波の作品について聞いてみようとしたが、何も考えてなさそうだし、そもそも覚えてもいなさそうだしやめた。
「……なんでもない」
日が落ちて身を切るような寒さになった。オレは砂波みたいに寒さに強くないから身体を動かしに行こう。
階段下に置きっぱなしの自転車は土汚れが付いたままで、鍵をかけないまま放置している。サドルの汚れは手で払って、跨ると微妙に座面が高い。きっと砂波も使って調整していたんだろう。元々は中学校に通学する時に使っていた物を、現在は砂波とたまに中林も共用している。買い物だけなのでこのまま調節しないで漕ぎ始める。
ところどころ錆びついた部品を閑静な通りにキイキイと鳴り響かせて、駅とは反対に向かう。駅の中にあるデパートが距離的には一番近いが値段が高いので、住宅地方面にあるスーパーマーケットまで少し遠いが通っている。
どこかの家の夕食の香りに食欲を刺激されつつスーパーマーケットに到着。中に入るとダウンジャケットが暑くなる。良い運動もできたようだ。買い物かごを取ってまっすぐカップラーメンの陳列棚まで行く。味の好みより安さを選び、手早くかごに入れていく。次に総菜コーナーで夕飯のお弁当を買おうと物色しながら、目ぼしいものがないなと唸っていると見覚えがある人がいた。
「園継先輩? ああ、やっぱりそうだ。高名です」
園継先輩は長い髪をポニーテールにして結んで学校とは違った雰囲気だ。片手にホームセンターの紙袋を下げていて、ちょうど買い物の締めという頃だろうか。
「高名か、久しぶりだな」
確か夏休み以降会っていなかった気がするから三、四か月ぶりか。先輩は顔を綻ばせて挨拶してくれたが、オレの買い物かごの惨状を見てすぐに笑みが引きつる。
「男の子の一人暮らしだから理解してやりたいが、さすがに健康面に気を遣った方がいいぞ」
「いやぁ、頭ではわかってるんですけどね。やっぱり自炊はめんどくさくて」
何度か挑戦したことはあるけど、卵を割るのも失敗するような不器用な男だ。過去に簡単なレシピも上手くいかずに諦めてしまって以来、簡単で美味いのが一番とものぐさな性格が悪さしている。
「そうだろうな。中林にでも作って貰ったらどうだ?」
思わず苦笑いが出た。冗談として笑って終わればいいけど、頼めばちゃんと作ってくれそうだから困る。昨日カレーに投入されたほうれん草もちゃんと美味しかったし、もし作ってくれれば嬉しいけどさすがに気が引ける。オレや砂波は代価をくれと言われた方が気楽なのに、中林は優しいからそういうことをしてこないから、本当にただ作って貰うだけになってしまう。
「先輩はどうなんですか。まさかその総菜弁当ばかりじゃないでしょうね」
先輩がかごに入れているハンバーグ弁当とフライドポテトを指さした。人に注意しているわりに油っこいではないか。
「たまには我慢せずに食べたい日があるだろう? だから、これから元気出すために食べるんだ」
「そんなに気合を入れるような事をするんですか?」
やたらと大仕事を匂わしているのが気になった。勝手に抱いているイメージでは、そんなに精力的に何かをするような人だと思ってなかった。
「女には秘密があった方が魅力的だと思わないか?」
ミステリアスな女性は目の前にいる変な先輩としか会ったことない。大人の魅力がある女性というと、なんか違う気がするけど。先輩は口ぶりが偉そうに聞こえるから、魅力という点を打ち消している気がする。なんて、そのまま言えるわけもないけど。
「そうですね。そういう魅力のある女性は大人っぽくて素敵ですね」
目を逸らして棒読みっぽくなってしまった迂闊さを見逃してはくれなかった。
「まったくどいつもこいつも」
どこかの恨みもまとめて買ってしまったみたいだ。会話をしながら自然と足が飲み物コーナーに向いていたので、先輩の愚痴はさて置き、砂波の頼み事を消化しよう。
中林は確か紅茶のペットボトルをよく飲んでいたはずだ。買う立場になってみると種類が多い。その中で中林がよく飲んでいた気がするラベルを手に取る。
「意外だな。紅茶を飲むイメージは無かった」
「おつかいを頼まれたんです。昨日は中林に奢られちゃったんで」
本を正せばあなたが中林に押し付けた事が遠因なんだけど。しかしジュースを買ったのは中林本人なので責めてもしょうがない。口喧嘩になれば勝てないのも分かりきってる。
「この新商品、中林は飲みたがっていたぞ。駅前には売ってなかったとか言っていたな」
「マジですか。んじゃ、これも買っておこう」
ラベルに目立つように新商品と書かれた紅茶を取った。中林が愛飲しているものとメーカーは同じらしい。意外にこの先輩は細かく人を見ていて、憎めないように調整してくる。このままでいれば、いつか背中を刺されるとか自覚しているんじゃないだろうか。
「先輩は? まだ何か買いますか?」
「買ってくれるのか?」
「なわけないでしょ。聞いてるだけですよ」
反射的に強めの口調になったが先輩は笑い飛ばした。
「化粧品かな。安いのしか使ってないから、どこでも買えるものだがね」
化粧と聞いて最近思い出すことがあった。
「そういえば、学校にメイクして来てるらしいですね。先生がぼやいてましたよ」
男のオレにはわからないけど薄くメイクをしているらしいと女の先生が言っていたのを覚えている。男性の先生には気づいていない人もいたらしいが、やはり同性の目はごまかせない。
「君のその髪で何か言うつもりかな」
苦笑いしながら中途半端な金髪を触った。この話を耳にしたのもオレが髪を染めたことで先生に呼び出しを食らった時だ。そもそも先輩に注意しようとしたわけではないけど、そう返されると何も言えなくなってしまう。
「ははっ、中学を卒業してからメイクする女子は意外に多いものだよ。今では学校も、頭ごなしに禁止と言って強引なメイク落としはさせられないようだしね。君のその髪も同じ理屈だろう?」
夏休み明け、登校初日にこの髪を見た教師は職員室にオレを引きずり込んだ。そこで顔が怖い中年教師に「私が学生の時は先生に殴られて、その場で真っ黒に染め直させられた」とか、色々とありがたいお説教を頂いた。最後に染め直しておけとも言われたけど、ずっと無視していたらとうとう何も言われなくなったが、その教師の担当教科で指名の回数が増えたり露骨に嫌味なことを授業中に言われたりと陰湿な嫌がらせを受けた。
「そうですね。染め直さずには済みましたよ」
品数の少ない化粧品コーナーで、事前に決めて来たような早さで化粧品をかごに入れ、さらにオレのかごから二本の紅茶を取っていった。
「最近妙に感づいていけないな。私が中林に頼んだ件でこうなったのだろう。私が買うからこれで丸く収まらないか?」
「あ、はい。砂波も納得すると思います……」
どういう風の吹き回しなんだろう。前触れなく優しさが見えると、不幸の前兆のような気分になる。いやいや、不吉なのはこの思考そのものだ。
「どうした。私がちょっとでも人が喜びそうなことをしてやると疑いを持つのか?」
「まさか! そんなんじゃないですよ!」
なんでもないですと背中を押してレジまで行った。会計の終わった紅茶を受け取って袋に入れる。外に出て自転車の前かごに荷物を入れ、盗難防止のネットで蓋をする。これを付けないとたまにパトロール中の警察から呼びかけられることがあり、親切心からだとはわかっていても心臓に悪いからすぐに購入した。
「じゃあな。楽しかったよ」
「はい。……そうだ、途中まで一緒に行きましょうか?」
辺りは暗いし、街灯も充分な明るさじゃない。この先輩といえど女性だから送る方がいい。
「家はもうけっこう近いんだ。だから大丈夫。寮の方が遠いだろう?」
寮からこのスーパーまで十分とかからないくらいか。遠いと言うほどじゃないと食い下がっても「大丈夫だから」と言われたので、しつこくするのも男らしくない。
重いペダルを漕ぎ出し、帰りながら思う。手を振って別れる直前、表情はあまり変わってないのに晴れやかな顔をして見えた。




