5話
何の音も耳に入らない。身体も見えない糸で縛られたように動かない。ただ誰もいなくなった屋上で眩い空に茫然とし、重々しい首の動きで一枚絵のように固まった景色から眼を引きはがした。
階段に戻る。一歩一歩降りる足音が頭にやたらと響くのと、自分の頭が妙に冷静なことに苛ついた。これからどうしようか、園継先輩にはなんて言おうか、俺はどうなるだろうか。そんな詮無い事が頭を巡る。
「君! おい、そこの君!」
野太い男の声がした。首を向けると見たことある男性教師が息を切らしながら階下から呼んでいる。自分の他に人の姿がないので、俺に声をかけているようだ。
「はい」
大きくない声で返事をした。先生はよほど急いで来たのだろう、話そうとする度に息を切らし、少しの間をおいて短く聞いてきた。
「君、屋上に行ったか」
本当は侵入禁止の屋上だ。条件反射のように「いえ、行ってません」と嘘が出てしまっていた。返事もないまま先生は上の階へ上がっていく。
俺はそのまま外に出て古谷の落ちたであろう場所まで行ってみる。数人の教師がそこで立ち止まって会話しているのが見えた。
「あら、砂波。どうしたの?」
女性の数学教師が俺に気づいた。
「なんだか校内が慌ただしいので……何かありましたか」
俺は悟られないようにしらばっくれながら集まった教師たちの足元に目を凝らす。あのあたりに落ちただろうと目星を付けて痕跡を探してもそれらしいものは見えない。
「どうもしてないから、早く帰りなさい。ほら」
先生に肩を掴まれて半ば強引に連れ出される。だが俺は人の隙間から確かに見えた。それは死体や血痕ではなく、抜け殻のような古谷の衣服だった。
外は暗くなりあれから何時間経ったのか、経っていないのかもはっきりしない。このままでいてもしょうがないと園継先輩に電話する決心がついた。
「もう用事か。早いな、それとも恋しかったか?」
いつも通りの園継先輩の声がする。それは少し気が楽になるようであり、これから訃報を伝えることが苦しくもあった。
「……どうした? ゆっくりでいい。聞かせてくれ」
俺の様子がおかしいのを察知したのか、らしくない気遣いをしてくれる。そのおかげで努めて平静に状況を伝える。
「古谷さんのことですが、さっき、学校の屋上から飛び降りました」
電話の向こうで息を呑む音が聞こえる。そして沈黙の後、強い口調で言った。
「これから君の部屋に行く。二十分くらいかかるが、そこを動かないでいてくれ。いいな」
返事をした途端に電話が切れた。思いがけず一息つく暇ができた。ついさっきまで冷静だと思っていた自分のことも、複雑な感情が渦巻いて言語化できていなかっただけだと振り返る余裕がある。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、その場でいっきに飲み干す。自分が感じていたより身体は水分を求めていた。注ぎ直して座ろうとしたところ、ズボンのポケットに違和感がある。それを取り出すと古谷とたっちゃんが写ったあの写真が入っていた。きっと古谷が俺を抱きしめたときに入れたのかもしれない。
写真の中で古谷と、俺とよく似た顔の男がこちらに笑顔を向けてくる。それを直視しないまま、部屋の隅に置いているバッグのポケットに突っ込んだ。
ほとんど正確に二十分後、玄関が荒々しくノックされて園継先輩が来た。険しい表情と目が合い、部屋に入ってもらう。
「こうなるとは想像もできなかった。いや、可能性の一つに含めることを心のどこかで拒否していたのかもしれない。君には辛い役目を負わせてしまった。申し訳ない。これは私たちの迂闊さが招いたことだ。君だけに責任はない」
腰を落ち着けた先輩のしたことは俺への謝罪だった。正直、なぜ先輩が謝る必要があるのかはわからなかった。
「やめてください。俺は古谷がそうなると予想できたのに止めることが出来ませんでした。身体は動かないし声も出なかったんです」
目の前で人が死を選んだ事実は、俺が生かしてやれなかった事実でもあった。出会って間もない人間に何をしてやれば良かったのか、たっちゃんの代わりになるように身を捧げれば良かったのか。
「いいか、砂波。君は悪くない。なにか回避できる方法があったのかなんて考えなくていい。私が知っている古谷なら、君のせいだとは絶対に言わないから。私が頼んだことを、君はよく頑張ってくれた」
一言一言を慎重に、丁寧に俺に与える。それに甘んじようとする自分と、どういうわけか反論したがる自分がせめぎ合っていた。意味のない内なる論争は無言を生み、部屋に静寂が訪れた。遠くの大通りを行くエンジン音すら聞こえてくる無音を破って先輩は話しを始めた。
「中学の時は私と古谷と……一春の三人でよく集まっていた。今思えば不思議な関係だったな。仲が良いとは少し違って、はみ出し者が自然と輪になったのが私たちだった。お互いを友達と記号的に呼び合って、実際は相手のことなんて知らないままだった。時間が勝手に友達にしてくれると思い込んでいたんだが……そうなる前に二人ともいなくなってしまったな……」
最後はほとんど声が消えかかって、聞き取るのがやっとだ。先輩の方が古谷を失ったショックは大きいはずだから当然のことだろう。むしろ俺を慰めることが出来るのが不思議なくらいだ。
「屋上での古谷さんとの会話、先輩にとっては聞くのは辛いかもしれませんが……」
そう言ったうえで本当に聞かせるべきかは迷いながら、唇を一文字に結んで深く頷いた先輩を見て重い口を開いた。
「古谷さんは最期、家族とたっちゃんだけが頼みの綱のようでした。それが失われたから、もうどうしようもないかのようで……古谷にとって俺たちは頼れる存在になれなかったのかもしれません」
俺や先輩がどう助けても関係なく、古谷は心から孤独だったのかもしれない。家族を失い、大好きな人も失い、社会からの助けも得られない立場だと思い込んでしまった。そしてその思い込みは命を蝕んでしまった。
「古谷からしてみれば重要だったのはそこかもな。私たちがいくら家や食事を共有しても、相手に負担をかけさせていると自分のことを責めていたかもしれない」
やるせなさでお互い言葉が出てこない。先輩は回避できる方法を考えなくていいと言ったものの、話せば話すほどそこへ向かっていってしまう。無言に気が付く度に古谷の最期の表情が頭に浮かんでくる。それは思い出すなんて優しいものではなく、悪い言い方をすれば呪いをかけられた気分だ。胃にふつふつとした不快感が沸き上がる。俺はこの感覚との付き合い方がわからず、とにかく実のある話に変えてしまおうと記憶を辿る。
「先輩は人造人間についてどれくらい知っているんですか。気になることがあって」
先輩は少しだけリラックスした姿勢になって、天上に視線を向けて考えた。
「私も詳しくは知らないんだ。そういう存在が人に紛れているとかそれくらいだな」
製造者と知り合いとはいえ意外に知らないものなのか。そもそもどういう関係かもわかっていないが、どうしても不可解なことをはっきりさせたい。
「古谷さんは屋上から飛び降りて間違いなく地面に落ちたと思うんですが、死体はなかったんです」
「……どういうことだ?」先輩は眉をひそめる。「着地してどこかへ行ったとでも?」
「いえ、四階建ての屋上ですからひとたまりもないでしょう。ただ、落下したと思われる場所には古谷の服だけがありました。これについてどういうことかわからないんです」
まさかあの場にいた教師が古谷の衣服を脱がして隠したわけもないだろうし、そもそも血痕も無いのは不自然だ。何か理解できない事態が起こっていて、しかもそれは気の良い事実ではないかもしれない。
「私に答えはわからない。だから、君が望むなら会ってみないか? どうせそれが手っ取り早いだろう」
「会うってもしかして」
当然一人しかいないだろう。人造人間に最も詳しく、図らずも古谷に絶望的な真実を伝えてしまった人物。
「人造人間を製造した本人。彼なら全ての疑問の答えを持っているだろう」
もちろん「はい」と返事した。好奇心で会いたい気持ちも否定できない。人造人間という突然の非日常的な単語に関わりたい野次馬根性に似たものはある。しかしそれ以上に、一刻も早く古谷の存在を記憶の中の収まりが良い場所にしまいたかった。呪縛のように扱わないために、少しでも早く思い出に変えられるならそうしたい。だから今しばらくはあの写真を直視できる気分にはなれそうになかった。




