2話
昼の暖かさは太陽と一緒に去っていった。日が出ている内に砂波家……つまり実家に帰って来て、寮の契約終了を伝える書類を両親に渡した。そして空き部屋に住み始めた舞とは食卓を共にしたものの、やはり話すことがなくて会話がない。しかし俺の目の前で両親と舞が普通に会話していたから、きっと話しかければ答えてくれるようにはなっただろう。
舞に会ったり親に書類を渡すことは今日の主な目的ではなかった。俺が寮に入る前に使っていた部屋に、舞と時を同じくして迎え入れた女の子がいるらしい。克己さんに舞と合わせて頼まれたらしく、生活費としてなかなかの金額も渡されたと話していた。様々な話を電話で済ませていく中での会話で聞いたために女の子の名前を聞きそびれていたが、まあ誰かは予想できる。
母に頼まれてお粥と揚げ出し豆腐の皿を盆に乗せる。台所から玄関前の廊下に出て、一階の奥まった位置にある四畳半の部屋に入る。寮にテーブルを持って行った以外は出て行った時とほとんど変わらない。何かの荷物が入った段ボールが二つ壁際に並べられていて、ベッドに人が寝ているくらいだ。その人は俺を見てにっこりと笑顔を作った。
「また……会えたね」
「会いに来たんじゃないのか」
女の子の正体は想像通りリエルだった。先週クリスさんの家で会ったときよりも力が無い様子で、どうやら起き上がるのも自力では難しいようだ。上半身を起こそうと力んでも僅かに体が震えるのみで上手くいかない。俺は持って来たお盆を傍らに置いてリエルに力を貸す。
「ふぅ……ありがと」
一度起きれば自分でバランスがとれるようだ。お粥とスプーンを手に持ってリエルに向く。
「食べさせてくれる?」
「ああ」自分で食べられなさそうだと見てわかる。俺はスプーンで一口分をよそってリエルの口元に寄せた。リエルはお粥をほとんど噛めずに飲み込んだ。
「どんどん力が入らなくなってね。先月はまだ歩いて生活できたけど……もう、あっという間」
最初に会った時から二週間も経っていないのに、もう起き上がれなくなっている。もう長くないと克己さんは話していたが、悪化がここまで急速だとは想定していなかった。年は越せるだろうか、もしかしたらクリスマスまで保てないかもしれない。
「明日は休みなの?」
「ああ。親が俺を帰すつもりがないから泊まりになった」
「そうなの、それは良い事じゃない」
「そうなのか」
「ええ。嫌われていないのだから、一緒にいる時間が長い方が嬉しいと思うの。季之もそうでしょう?」
綺麗に空になった茶碗を盆に戻す。
「かもしれないな。豆腐は食べるか」
「一口だけ……残りは代わりに食べてくれる?」
箸で揚げ出し豆腐を一口サイズに切って食べさせる。ゆっくり味わっているのを見て、俺も残った分を食べる。飲み込んだのは俺の方が早かった。
「……クリスさんが捕まったのは知っているか」
リエルは時間をかけて飲み込んでから頷いた。
「ここに来る前に直接聞いてる。お父さんはもう二度と会えないって覚悟してた」
「クリスさんがそう言ったのか」
「ううん、違うよ」リエルは慌てて否定した。「目を合わせればわかるの。思い込みかもしれないけど、でも当たってる自信はある。ねぇ、隣に座って」
リエルは自分の左側の布団の上を手で叩いて示した。食器をひとまとめにしてどかし、ベッドにイスのように座る。「もっと近く」と言われたので満足するまで身を寄せると、俺の右腕とリエルの左肩がぴったりとくっついた。華奢な体だと再認識していると、自然とリエルが体重をかけてきて楽な姿勢をとった。
「私、きっともうすぐ死ぬの。体の中で、どんどん感覚が消えるのがわかる。それに気づいたとき、ふと直感した。私はもう……」
言葉を切られて肩に震えが伝わる。近くに迫る死を感じながら今日まで生きていたのだから、俺の想像できないような恐怖があるはずだ。今こうして話してくれているということは、次に会うことがないと覚悟しているんじゃないか。
「クリスさんが捕まったのは俺の責任もある。一緒に暮らす時間を奪ったようなものだ」
USBの中にクリスさんの名前が消せない形であった。だからUSBを警察に提出されるということは、研究のパトロンであったクリスさんを逮捕に導く行為でもある。そしてそれがリエルとクリスさんの時間を奪う行為でもあると理解していた。理解したうえで、園継先輩へ渡すことを俺は選択した。もしUSBのデータからクリスさんの名前を削除することができたとしても俺は消さなかっただろう。研究に関わった人間が、刑罰でもって罪を清算するために。
「安心して、それは正しい事だから。季之が奪ったんじゃなくて、お父さんの責任を果たす時がきたの。季之はお父さんにチャンスをくれたのだから、本当にありがとう」
顔は見ていないが声色で笑顔なのがわかる。リエルに怨恨を残すだろうと腹を括っていたのに、逆に礼まで言われると用意していた言葉が頭から飛んでしまう。
「お父さんはね、犯した罪は必ず裁かれると言って覚悟してた。普通の生活をしているつもりでも、それは悪事を働く以前と同じ意味の普通じゃない。後ろめたさが頭の奥に黒く渦巻いて、決して明るく前を向けない人生を送ることになって、幸福を授かっても良心の呵責に苛まれる」
クリスさんと克己さんは自分たちの罪に苦しめられていた。それは同情の余地が無い自業自得なのだが、リエルのように他人事で済ませられない立場のクローンもいる。愛する娘ともう一度過ごしたいという思いで、自分の娘に死の恐怖と戦う人生を与えた心労は大きなものだろう。
「私が不自由なく暮らせるように、お父さんはなんでもしてくれた。もちろん幸せだったし、私が嬉しい時はお父さんも喜んだ。けど……お父さんの目の奥に見えたの。自分がこの喜びを受け取っても良いのかっていう、お父さんが自分自身に向けた疑いの目をね」
「これで良かったと思うか」
「うん、これ以上は無いと思う。季之には損な役割をさせているね」
リエルの左手が俺の太腿の上に置いた右手に重なる。リエルの皮が薄くて小さな手は冷たく、俺が手を握っても握り返す力がないようだった。それでも力を込めようとしている震えが伝わった。
「いつも楽してるからな。こういう時くらい苦労をしておけと、お世話になった人に言われたんだ」
「ふふっ、素直なのね。いつも理知的な人なのに、頼まれると素直に聞いてくれるなんて面白いのね」
笑うほどだろうか。俺としてはあまり深く突かれたくない話題なのだが、リエルは「ねえ、その時のこと、お話してくれる?」と興味を示した。
「……中学生の時だ。俺は協調性が無いし、人の言う事も聞かない自己中心的な性格だから嫌われてた」
「あ、悪い事を聞いたかな……」
「いい、俺も悪かった部分はある」クラスメイトにされたことは俺が悪いで済ませられないが、リエルに聞かせて良い事は何も無い。「とにかくその人に、まずは人の言葉を受け取りなさいと叱られた。それがきっかけで聞くようにはなっただろうな」
「それが前に会わせてくれた夏海と上秋?」
「いいや、一春という先輩だ。人の相談を聞くのが趣味みたいな人だった」
右腕への重みが増した。リエルの自重を支える力が弱まって、より俺の方へ体を預けていた。「横になるか」と聞くとゆっくり首が動く。
「このままで……続けてくれる? まだ聞いていたいの」
一度右手を離し、リエルの左肩に乗せて体を支えてやる。肩を当てているだけより安定するだろう。手放されたリエルの左手が太腿に下りたのを見て、空いている左手で握る。
「人の頼みはできるだけ聞いてみたが、どうしようもないこともあった。家族を事故で亡くした古谷水樹というクローンを園継という先輩に紹介されたんだ。行く当ての無い古谷を一度寮に居てもらおうとしたが、それは古谷にとっての助けにならなかった」
リエルが手に力を込めようとしたのが伝わる。俺は古谷が亡くなったことやたっちゃんのこと、そして自分がたっちゃんのクローンであると伝えた。リエルは驚かず、知っていたかのような、それとも反応する力もないのかのどちらかだった。
「クリスさんに言われたんだ。俺が人が答えを出すべきではない無量の答え、人造人間の存在の先にある回答に辿り着くだろうって。俺にはまるで意味がわからなくてな」
無量という言葉は計り知れないほどの量、限りの無い量という意味らしい。クリスさんはおそらく、感覚的あるいは感情的な意味で使っているだろう。だが思考はそこで行き詰った。出されていない問題の回答はしようがなかった。
「私にもわからないけど、お父さんが少しひねくれてるのは確かね」
「俺はまた振り回されてるのか」
リエルは軽く笑う。俺に伝えようというよりは独り言のように話していたから、クリスさんの中で勝手に解決すればいいだけの事だ。
「俺が引っかかっているのは、その答えというのが何かじゃない。クリスさんはどうして、俺を特別視したのかだ。他のクローンには無い何か……リエルには感じるか」
「ええ、もちろん」力の入っていない、空気を多く吐き出す声だった。「季之は……まったく違う。他のクローンとは……まったくね」
「聞いていいか」そう言うとリエルは一度深呼吸してから話した。
「季之は、たっちゃんとして……生きる事を求められてないもの。クローンはオリジナルの模倣だけど……季之だけは違う。あなたは砂波季之として生きているから」
クローンの存在を知ってから、他のクローンがどう生活しているのか考えた事はある。園継先輩ですら、自分は一春と違う人間だと自分に言い聞かせた。ならばクローン側も自分のアイデンティティについて苦しみ、考えるだろう。そういう意味では俺は悩まなかった。名前や生い立ちに関わらず、自分という一人の存在の認知を持ち続けた。
「そうか。確かにそうだ。他のクローンよりは苦しんでいないだろうな。人のことも、クローンのことも同列に見えている」
「お父さんは……人とクローンの壁は、それぞれが勝手に作ってるだけだって言ってた。存在しないものを想像で作り上げて……自分たちの世界を守ろうとしているって。人がクローンを、クローンが人を自分の世界に受け入れたとき……その存在によって世界の見方が壊れてしまうのが怖いんだって」
認識が変わったとき、その人の認識する現実も変わる。世界は何も変わっていなくても、主観は変化して影響を受ける。クリスさんの言うことも杞憂ではないだろう。
「でも季之は……どちらでもあって、どちらでもないんじゃないかな。季之なら人の世界にも、クローンの世界にも受け入れられると思うの」
「どうだろうな。俺はあまり好かれないから」
リエルの体を支えている俺の右手に、リエルの右手が添えられた。
「そんなことない。あなたはきっと……いろんな人に支えられて、長生きできる」
舞を砂波家で引き取るという連絡を受けた際に、自分もいつかリエルのように動けなくなって死ぬのかと克己さんに尋ねた。この件について克己さんの回答は俺には難しく正確に理解しきれなかったが、簡単にまとめると可能性はゼロだと言い切れないが、その歳まで体に異常がなければ大丈夫という内容だった。
「そうだといいな」
自分がいつ死ぬかなんてクローンではない普通の人間にもわからない。まったく平等なはずの死を受け入れるのは誰にだって難しい……これから死にゆく人も、その死を知る人にも。
「そう……そうに違いない。だってね……私は……」
リエルは深く息を吸って、かすかな声を出した。
「私は……あなたのこと……」
息をする音が聞こえなくなる。体の震えも消えて、力が抜けた右手が体を撫でるようにゆっくりと落ちていく。その動きがあまりにもゆっくり見えて、古谷が落ちていく記憶と重なる。
古谷が目の前で飛び降りた時、人として止めるべきなのは当たり前だが、古谷の過去を聞いて自分の選択が相手を苦しめるだけなのではないかと迷ってしまった。けっきょく何が正解だったのか今さら考えたくはないが、少なくとも自分が考えたことを正直に伝えたり、抱きしめられたなら抱きしめ返せば古谷に一考の余地を残せた。だからリエルの左手をしっかり握りしめる。リエルが安心できるならいい、そして俺が今日という日に取り残されないためにも。
「リエルに会えて良かった。もしも俺らがクローンじゃなかったら出会えなかったんだ。俺が会えたリエルは君だけだ」
力を込めて瞼を閉じる。最後に抱き寄せたとき、右手が空を切ってバランスを崩した。布団に手を付いて、しっかり目を開いてリエルが消えた事実を直視する。悲しまずに去れたならそれでいい。いなくなってしまった人に思いを引きずられ過ぎてもリエルのためにはならない。
思いを断ち切る必要はない。背負うのでもなく、受け入れる。たったそれだけだ。古谷の時とは違ってこれは必ず訪れてしまう終わりであり、間違いなくできるだけのことはした。そうやって考えられるようにしなければ、古谷やリエル、そして園継先輩からなにも学べていないことになる。誰のことも悲劇で終わらせてはいけない。認識を変えられるのは俺の中だけだ。




