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6話

十二月十六日 月曜日


 目を覚ますと室内は薄暗い。いつもより早い時間に起きているだけでなく、空を厚い雲が覆っているせいだ。あと一時間で校門前の通りは登校する生徒が行き交う。その前に済ませておく用事があった。


 一春の部屋の前で合図のノックをして少し待つと扉が開く。早朝なのに園継先輩はまったく眠気を感じさせない調子で中に入れてくれた。


「貸してくれた作務衣だが、悪くないな。おかげで夜を越せている」


「暖房くらい付けてもいいのではないでしょうか。電気はまだ通ってますから」


「室外機が動くだろう。数日程度だが、最善の行動をしないとな。体が冷えれば風呂で温まるさ」


 玄関と直結しているキッチンから奥の和室に進む。畳を踏むと視界は一春の写真に囲まれ、大人数の視線に囲まれているかのようだ。写真以外はごく普通の部屋という印象がある。家具は白でまとめられ、小さなテレビが乗っているテレビ台と三段の背の低い本棚には、小説や様々なジャンルの教養本が詰められている。反対の壁には腰ほどの高さの箪笥と、先輩が寝ていたのだろう布団が制服を一番上に乗せて畳まれている。


「もともと室内で撮影する為に光の反射を抑える半光沢紙を使っていた。カメラの画角より人の視野の方が広いせいで多めに準備する羽目になったが、半光沢紙は割安で済んだのも得だった」


「いつの間に印刷をしていたんですか」


「文化祭の準備の時に用意したものを保管していた。さすがに壁全面に貼るには足りなかったが、急場しのぎにしては事足りている。この中で眠るのはなかなか落ち着かなかったぞ」


「夢に出そうですね」


「……私の夢に出るなら、高名や中林に会ってやれと伝えたよ。夢で言っても意味はないだろうがね」


 晴れていれば周辺の家の合間から陽光が差し込んでくるが、あいにくの天気のせいで部屋が薄暗い。光が届かず、特に暗いキッチンに戻ってイスに座っている先輩の前に立つ。


「あれで完成ですか、意外に簡素ですね」


「完璧とはこれ以上削るものがない状態を指すと言うからな。先人の格言に(なら)おうというわけだ。今日は曇ったせいで見えないが、窓から入る光に照らされている部分には、喜怒哀楽全ての表情が収まるように配置している。朝だろうと昼だろうと光が消える間際までそのルールを守った。これがもっとも洗練された状態だ。……まあ講釈はいいとして、ひとつ仕事を頼みたい」


「克己さんを呼ぶんですか。展示ができれば、文化祭で見せようとした相手を」


「ははっ! 察しがいいな。私がスマホを使うわけにもいかないから、代わりに呼び出してほしい」


 電話は面倒だが四の五の言う場合でもない。昼休みに連絡しておこう。


「……今日ですか」


「今日だ」力強く言い切った。「無駄に引き延ばしても私が捕まるだけだ。今日の夕方にしたい。大丈夫、克己さんは砂波の頼みを断れんよ」


 その意味は理解している。きっと仕事が途中でも投げ出してくれるかもしれない。そして俺は克己さんに強く言える理由がある。


「じゃあ俺からもひとつ、克己さんと一緒に藤橋先生も連れて来ていいですか」


「藤橋先生を?」少し首を捻って考えるとすぐに次の言葉が出た。「聞こうか」


「藤橋先生も研究に関係していたと、昨日クリスさんから確認を取りました。教師という立場もあって園継先輩がこの部屋にいると聞いたら飛んで来るはず」


「なるほど、部活中に寮におびき寄せ、部室に持ち込んだバッグからUSBを回収するわけだな」


 俺はしっかりと頷く。


「これでUSBがなかったり、中身を削除されていたら頼りになりません。そのつもりで、説得の方をお願いします」


 今日、これで全てが終わるだろう。藤橋先生が通報しなければすぐに警察が介入することはないだろうが、そうなったら腕を押さえて連れて行くなり強硬手段を取るしかない。


「引きこもっているだけと思われないようにやるだけやるさ。……そうだ、最後の頼みがある。砂波にこそ頼みたいことだ」


「さっきひとつって」


「これが最後だ。この先はない」


 そう言って机の上に置いてあった封筒を手に取った。渡されたので中を確認すると一万円札が入っている。


「写真を入れていた茶封筒だ。全部終わったら部屋に貼った一春の写真を寺に持って行って、お焚き上げをしてほしい」


 中身を取り出さずに「これはなんでしょうか」と聞く。


「お焚き上げというのも料金が必要だ。その分と、今までの迷惑料になる。ああ出所は安心してくれ、私が一年生の時にアルバイトで身を粉にして稼いだ一万だ。いやいや危険な物は渡さんよ」


「そうであって下さい。巻き添えで逮捕は困りますから」


 先輩が両親を殺したときの盗品ではないなら受け取っておく。


「この辺りだと駅向こうのお寺で月末にやってくれるはずだ。一春の魂が写真に囚われないように、私の未練が写真に囚われないように焼いてもらう……理解してくれるか?」


「俺がどう考えるかに関係なく、信じる人には必要な行為でしょう。なら、やりますよ」


 外を歩く生徒の声が聞こえてくる。人が増える前に部屋を出なくてはならない。おそらくこれが先輩との最後の会話になる。気の利いた言葉でも掛けるのが人情かもしれないが、送り出すような言葉は何もない。


「お前が人を慰める人間じゃなくて良かった。話していると現実を意識させられて、生半可な希望で語る気が失せる。今日まで自分を律することができたのは、そのおかげなんだ」


「褒めていないように聞こえますね」先輩は穏やかな顔で笑う。「俺なんて人の心がないだけかもしれませんよ。芯の通っていない言葉に騙されていたらどうしますか」


「良いんだ……どちらでも。私にとっては、お前がお前のままでいてくれるのが嬉しいんだよ。一春がアイデンティティに苦しんだ姿を見たから、お前を見ると安心するんだ。だからつい、頼ってしまうんだろうな」


 古谷にも俺は俺のままでいてくれればいいと言われていた。ずっと忘れていたが、古谷の望みは叶えていたようだ。そうか、あの時、古谷は俺がたっちゃんのクローンであると知っていたんだ。だから、俺がアイデンティティで苦しまないように言葉を掛けてくれたのか。自分とは何者なのか。考えたところで役には立たなそうだが、クローンからしたら一笑に付す問題ではない。それも、オリジナルが生きていた一春にとってはなおさらだ。


「さて、長居させたな。そろそろ学校の準備をした方がいい。ほら、作務衣は返す」


 押し付けるように俺に作務衣を持たせると、今度は肩を掴んで玄関に向かうよう俺の体を半回転させる。そして背中を叩いた。これは素直に出て行った方が良さそうだ。踵を潰して靴を履いて外に出る。


「ありがとう」


 聞き届けるのと同時に背後で扉が閉められた。生きていれば何度だって聞くような感謝の言葉が頭に響き、呆然として立っていると強い風が全身を撫でて吹き抜ける。作務衣が捲れて銀色の裏地が一瞬だけ光り、空を見なくても雲が途切れて太陽が出たことを知らせた。





 克己さんには昼休みに電話したが、なかなか出てくれる気配がない。そこで前にスタンプの連打を羨ましがっていたのを思い出して、大量の着信履歴を残すことにした。これが効果覿面(こうかてきめん)で、上機嫌な克己さんに四時から五時の間くらいに寮に来てほしいと無茶なお願いを通すことができた。


 同じく昼休み中にこれを上秋と津原にメッセージアプリで情報共有した。克己さんが来ること、藤橋先生を寮まで連れていくこと、中林と舞については成り行きに任せること。そして、明らかに強引になっても怯まずに完遂すること。


 居眠り常習犯の上秋も今日ばかりは授業中に眠っていなかった。待たずとも時間は過ぎて放課後を知らせるチャイムが鳴る。


「これが最後なのか?」


 バッグを肩に掛けて帰る前の上秋と教室で話す。


「ああ、上手くいけば全て終わる。失敗したら警察に通報される可能性がある。俺たちは園継先輩を匿ったことで先生や警察に怒られるだろうが、怒られるぐらいで……」


「罪だとか、怒られるとか、そんなのはどうでもいいんだよ。もう、先輩に会えなくなるんだよ。それでもやらなきゃならねぇのはわかってる……けどさぁ……」


 上秋はそこで言葉を切って、苛立ったように頭を掻きむしった。


「……悪い、愚痴りたくなっちまった」


「べつにいい。すぐに帰れば三、四十分ぐらい先輩と話せるだろ。全部ぶつけに行けばいいんじゃないか」


 次に先輩に会えるのはいつになるかわからない。話したいことは全て話した方が後腐れもない。その話し合いの結果、もしも上秋が園継先輩を連れてどこかへ逃げてしまっても、責められるはずもない。





 上秋は一度帰り、何も知らない中林とコンピューター室に行く。津原と舞はすでに中にいて、遅れて藤橋先生が入ってくる。いつもと同じように時間は流れる。四時を過ぎ、十分、二十分と経過すると津原は見るからに多動になり、席を立って歩き回ったり、座るとイスのタイヤを転がして前後に揺れていた。


 そして時は来た。


「おいっ大変だ! 園継先輩がっ!」


 コンピューター室に駆け込んで大声を上げたのは上秋だ。予定通りに動いてくれていた。


「先生、 園継先輩が寮にいるんです! 急いで来てください!……ああ、お前らも早く!」


 一気に室内は騒然となった。「わ、わかった」と立ち上がった藤橋先生の腕を上秋が掴んで連れて行く。その様子に一瞬呆気にとられた舞も弾かれたように立ち上がって後を追う。


「中林、行こう」


 津原の呼びかけに中林も立ち上がったが、動かなかった。


「先に……行ってて」


「えっ……」困惑して俺と目を合わせる。俺は頷いて言う通りにするよう促した。少し考えた後に津原も走ってコンピューター室を出て行き、静まり返った部屋には俺と中林だけが残される。


「こそこそしてると思ったら……なぁにを仕込んだのかなぁ?」


 座っている俺にグッと顔を寄せてくる。「どーゆーこと?」と怒った表情で詰め寄ってきた。


「説明するから、とりあえず止めないでくれ」


 肩を押して引き離し、そのまま立ち上がる。行先は先生の机だ。歩くと中林が腕を組んで付いてくる。


「それ先生の荷物だよ。なにしてるの?」


「私物を返してもらうだけだ」


 ペンケースを鞄から取り出し、中身を机の上にひっくり返す。鉛筆やカラーマーカーに混ざってUSBは落ちてきた。やはりまだ持っていた。


「さなみんの?」


「一春の物だ」


「私物って言わなくない?」


「一春の私物だ」


「……めんどくさいと思ってるでしょ?」


 USBを持ってパソコンの前に座る。さっそくパソコンに読み込ませてフォルダアイコンをダブルクリックで開く。ウインドウの左側に並んだメニューからUSBを選択。なるほど、覚えてきた。パスワードを入力する画面に『since821』と、キーボードと画面に視線を行き来させながら打ち込む。


「見てていいの?」


 中林が不安げに聞いてきたので「たぶんな」と答える。


「怖いんだけど……」


 慎重に入力して確定する。一瞬の間が空いて、鍵が開いた。パスワードは正しかった。


「実験目的と概要……培養経過……担当職員名簿……ヤバいやつでしょ、これ」


「ヤバいやつではあるな」


 担当職員名簿を開くと園継幸也、諌野克己の名前がある。他は知らない名前が二人。少人数の複数グループで実験は行われたようだ。いくつかのフォルダを開くとわかったことがある。このUSBに入っているのは一春の実験情報だけだ。津原や俺の情報は無く、園継幸也がこの記録だけ確保して逃げたのは間違いないらしい。


「昨日、俺とクリスさんが話していたことを聞いてただろ」


「え、うん……」


「会話の中に出てきたクローンについての研究資料がこれだ。危険な内容だから教えられなかった」


「みんな関わってたの?」


「この研究に直接関わってはいない。木曜日からだな、俺と津原と上秋は園継先輩を匿うためだけの協力だ。俺はその前からお使いを頼まれていたが」


 実験目的と概要を軽く読む。最後の方に資金提供者としてクリスさんの名前が挙げられている。文章は編集できないファイル形式にされているようで、名前の削除という小細工はできない。


「ただ事じゃないとは思ってたけどね。園継先輩とコソコソしてたのはこれが原因なの?」


 意味のわからない大量の専門用語で構成された文章を追いながら答える。


「そうだ」


「あっきーの様子がおかしかったのも?」


「それは本人に聞け」


 俺からしたら上秋はいつもおかしいところがある。


「じゃあ、先週の幽霊騒ぎは?」


 視線の動きを止める。古谷が屋上から飛び降りたのを見られ、死体が見つからなかったことから幽霊と言われた話だ。そういえば中林は古谷と寮で偶然顔を合わせて、お互い挨拶を交わしていた。その人が飛び降りたとは伝えない方がいいだろう。


「クローンは死ぬと体が消えてしまうという特性がある。なぜかは聞くな。幽霊のトリックは、クローンが屋上から飛び降りたことで死んでしまい、体が消えた……俺はその場に居合わせていた。その時のことは聞かないでくれ」


 これ以上の追及はされず、ファイルに目を通す作業に戻る。熟読する暇は無いので、どんどんファイルを開いて読もうとした。次の培養経過の記述も読もうとは努力しているのだが、日本語で書かれているのにまるで意味がわからなくて目が滑る。内容が高校生には難しいというのも理由だが、ここに来て俺は集中力を欠いていた。


「中林、一緒に目を通してくれないか」


「えっ! この見たら黒服に命を狙われそうな劇物を読めって言うの!?」


「いや、襲われはしないが……」


 中林は賢さゆえに簡単に引き受けてくれないだろう。苦労して頭に入れた知識をひけらかす性格をしておらず、普段の態度から受ける印象よりも意外なほど謙虚だ。だからまず浅い知識で間違ったことを言ってはいけないと考えているはず。特に今回は重大事件の証拠になるデータを読み解くわけだから、プレッシャーも感じるだろう。


「ほら、一回持ち帰ってさ、園継先輩に見せればわかるんじゃないかな? 寮にいるんでしょ?」


「ダメだ。その間に通報されてしまったら中身を確認できないかもしれない」


 参った。強く頼まなければ引き受けてもらえないだろうし、受けてくれても言い方によっては緊張してミスを生む。なら、最もシンプルで直接的な方法を取るべきか。


「……頼む」


 座ったままの簡単な形だが頭を下げた。


「え……ええ!? ちょっとさなみん……」


「俺の回ってない頭より、ずっと信頼できる」


 頭を上げないまま続ける。こうしている時間すら惜しいが、事は常に最短で進まないものだ。


「遺伝に関係する小論文を書いていたからこそ、その知識を最大限に活用したい。その場しのぎで言ってるんじゃなく、誰かの代わりでもない。これは中林だからこそ頼みたい」


 沈黙に次ぐ沈黙。もう待つ必要はないか……そう考えて顔を上げたときだった。皺枯れた声が室内に響いた。


「君たち、藤橋先生がどこかへ行ったみたいだが……なんだ、砂波か」


 名前は覚えていないが、金曜日に説教をされたばかりの中年教師だ。俺の顔を見るなり眉間に皺を寄せて、肩で風を切る歩き方でこちらへ来る。俺はすぐに立って先生の目の前まで行った。部活と無関係なパソコン画面だと気付かれたら輪をかけて面倒だからだ。


「藤橋先生は上秋に呼ばれて行きましたよ」


「上秋……ああ、高名上秋か。不良同士仲が良くて結構だ」


 皮肉をたっぷり含ませた口調で言われる。どう穏便に済ませようかと考えても、この教師には関係なかった。


「それより、だ。部活に精を出しているのは感心だが、なにか忘れているんじゃないか?」


 中年教師の関係で最近あったと言えば、それこそ金曜日の津原との喧嘩だろう。長話になってしまいそうだ。


「覚えています。しかし津原と喧嘩したことならもう……」


「先生も年をとったが、済んだ事で責めるほど物忘れは酷くない」


 今週中に会ってしまったら必ずぶり返す問題だと自覚していたから、中年教師の反応は意外だった。他に思い当たる節もないので「じゃあ、いったいなんの用ですか」と返すしかない。


「小論文の課題だ。まったく、先週が締め切りだと言うのに……」


 ちゃんと忘れていた。自分がどれだけ進めていたのか思い出せないほど、頭から抜け落ちている。俺から言い返しようがないと察したようで説教節に火が付く。俺の腕を掴むと喋りながら廊下に連れ出された。


「いいか、社会に出たらなぁ、常に締め切りに追われるようになるんだぞ! ひとつ終わらせたらまた次の仕事の締め切りがある。先生が間に合わない課題を出してるか? みんな提出してる。中林なんて手本のような内容だったというに、お前という奴は……」





 体感時間では何分経過したのかわからない。はっきりとはしないがとても長い時間だった。最後に小論文は提出されても受け取らないと言い切られて中年教師は立ち去った。


 説教を受けながら、暗くなっていく窓を視界の端に捉えていた。棒立ちしている間に何が起こっても諦めるしかなかった。園継先輩たちはどうなっただろうか。最悪のケースが起こっていれば、もう間に合わないだろう。俺は自分の成すべき事を成せなかった。


 いま役に立たない自責の念は無視してコンピューター室に戻る。部屋は無人で、中林も呆れて帰ってしまったかもしれない。時計を見ても部活が終わる時間になっていない。完全下校時間のチャイムを聞き逃したわけではないようだ。


 付けっぱなしのパソコンの前に戻り、崩れるようにイスに座る。これからどうする。今からなにをする。失敗した、だがその後の行動は成功させるよりも重要な場合がある。なにをすべきかを常に考えろ。


「……疲れたな」


 一週間以上働かせ続けた俺の脳が熱を持っている。短期間で起こった出来事を整理し、次の行動を起きてから寝るまで考え続けていた。休む暇もなくずっと頭を動かしていた理由は、たぶん古谷だ。無意識に古谷の姿を……目の前で飛び降りた光景を思い出さないようにしていたのかもしれない。俺はどこかで影響を受けていないと思い込んでいたが、それは自分に向けられた思い違いで、自分が自分に偏見を持っていることを意識すらしていなかった。自分が他人に対して偏見を持っているなら、当然自分に向けてもあるはずだったのに。


 背もたれに体重を任せて少し休む。もう、どうあがいても間に合わない。課題の未提出なんていうしょうもない失態を犯した俺のせいだ。諦めてパソコンの電源も落としてしまおうと画面を見ると、開いていたウインドウは全て閉じられている。中林が閉じていったのだろうか。とりあえずUSBを回収しようとすると、おかしなことにUSBポートにはなにも差さっていない。


 なぜ、と頭が空白になったと同時に廊下を走る足音が響いた。上秋か津原が戻ってきたのかと予想する。しかしこの部屋に駆け込んだ人物は舞だった。


「舞……」どうだった、と聞こうとして止まる。他の人ならまだしも、舞では俺と会話ができない。寮に帰ってこの目で確かめようと立ち、息切れしている舞の横を通り過ぎる。


「……中林先輩が、届けてくれました」


 反射的に振り返ると舞もこちらを向いていた。直立して肩を上下させながら視線は左右に泳いでいる。舞になにか言おうとしてなにも言葉が浮かばない。お互いの呼吸が聞こえそうな静寂が訪れ、舞から不規則に抑揚の乱れた小さな声が聞こえた。


「あ、あの……あの……」


 深呼吸してようやく目が合う。


「すべて上手くいったと……園継先輩から伝言です」


 中林が届けたというのは、USBを持っていってくれたのか。だからUSBポートになかった。そして向こうは克己さんの説得に成功した。俺は間違いなく失敗したが、中林の活躍で難を逃れた。といったところだろうか。


「よかった……ああ、よかったよ」


 その場に腰を落として床に座りこむ。自分で自分が信じられないような思考をしていた。自分の出生の秘密が絡んだクローン研究とかいう重大事件と、先輩が起こした殺人事件が節目を迎えたことよりも、友人たちを巻き込んで行われた作戦が結果的に成功したことよりも優先して、舞と目を合わせて言葉を交わせたことをよかったと思っている。


 息を整えた舞とカーペットに腰を下ろした俺は無言で見つめ合う。次の言葉が出るまでには長い時間がかかった。

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