6話
感情がかき乱された後に眠るなんて難しい……ベッドに入るまでそう思っていたのに、目を閉じて開くともう朝だった。睡眠不足の気だるさはあるけど、自分が寝ていたことにも気づかないほど快眠に近かった。
午前六時半にみんなで朝食を食べて僕と諌野は一緒に家を出た。タイミングをずらすべきか考えたけど、気を遣うまでもなく諌野は自転車で登校し、僕は一人で歩くことになってしまった。少しくらい話し相手になってくれてもいいだろうに、「遅刻はしないと思いますので、頑張って下さい」と言い残して走り去ってしまった。
いつもと違う道だから学校までの順路を思い描いて歩く。途中で自分の家に行き、まるでコソ泥のように音を立てず学校で必要な物を持っていく。そんな寄り道もあって教室に入る頃には疲れ果て、午前の授業はまるで頭に入らなかった。板書だけはノートにまとめて後で見返そう。そしてまったく用意していなかったお昼休み。いつも自分で用意しているスーパーの冷食を詰めた弁当がないので購買に行った。
一階の階段横で長机を並べてパンや弁当が売られている。中でもパンは県外にも常連がいる駅前の名店であり、ここでもほぼ毎日売り切れているらしい。僕も今日はパン目当てで列に並ぶ。すると前の方に高名と砂波の姿が見えて、僕と二人の目が合う。
「ちょい、先行っていいぜ」
高名は一度列を抜けて後ろに並んでいた生徒を先に進ませた。そして僕の前に入る。
「いつも購買だったか?」
「いつもは冷食の弁当だよ。それより砂波はいいのか?」
列を抜けたのは高名だけで、砂波は列を抜けずに待っている。間は十人くらいいて時間はかかりそうだ。
「いいよ。どうせ教室で顔合わせんだから」
「……いい関係だな。気疲れしなさそうだ」
話しながら一歩一歩列は進む。「上秋、先に戻ってるぞ」ジャムパンと塩パンを片手ずつ持った砂波が横を通りすぎていった。
「砂波はいつもあんな味気なさそうなパンを食ってるのか?」
「ああ、いつも同じパンだよ。食に興味ないから、考えずに手に取るのが楽で速いってさ。それで本人も気づかないうちに同じ物だけ食べてるらしい」
よく飽きないものだと会話していると、いよいよ僕たちの前に食品用コンテナに入れられたパンとプラスチックの弁当容器に入ったご飯類が現れた。なにを買うのかは決めてなかったこともあって砂波と同じジャムパンと塩パン、さすがに少ないのでコロッケパンも買う。高名は大盛カツカレーを買っていた。
「教室行く前にちょっと付き合えよ」
高名がついてこいとジェスチャーするのでとりあえず後ろを歩く。階段を上って二年生の教室がある三階を過ぎ、屋上の扉の前で止まった。
「屋上なんて開いてないだろ」
「……ああ、直されてるな」
「直されてる?」
「鍵が壊れてて屋上に出れたんだけどな。幽霊騒ぎもあって直されちまったか」
高名は階段の最上段に座ってカレーの蓋を取った。ここで食べるのかよと思いながら、僕は隣に座る。
「幽霊騒ぎって?」
「んー、オレも人の話を聞いた程度だけど……日曜日に野球部がここの屋上から飛び降りる人を見たんだと。でもそこに死体が無かったから幽霊じゃないかってさ」
「ふうん……うちの学校にもあるんだな。そういう学校の怪談みたいなの」
やたら開けにくいパンのビニールを破ってジャムパンを取り出す。パンの横一直線に走る切れ目を開くと端から端まで均一に苺ジャムが塗られていた。市販品のせこいパンとは量が違う。口に頬張ると滑らかな表面とふわっとした食感、小麦の風味がジャムとマーガリンに混じってちゃんと感じられる。
「それで、なんでわざわざ屋上に?」
食べるなら教室のイスに座った方が楽だ。人のいないところに連れられたからには、中林とか砂波に聞かれたくない話でもされるのかと思っていた。
「だって人のいない屋上で飯食うの気持ちいいから。お前真面目だからさ、オレが体験させてやろうと思って」
「なんだよ……バレたら怒られるだろ」
「んなもん謝っとけばなんとかなるんだよ」
高名にとって謝罪はかなり軽いものらしい。僕は絶対に怒られるのは嫌だから、鍵が直されてて幸運だった。
「ここはオレと砂波がたまにサボっててな。もう使えなくなっちまったよ」
「なにしてるんだよ……まったく」
呆れながらも心境は落ち着かないものだった。これはなんとなく……自分も混ざりたかったような感じだ。
「……その、サボりってどんな感じなんだ?」
「なんだよ。サボりたいのか?」
ようやく本性を見せたなと言いたいみたいに、高名はカレールーがくっついた口をニヤリと歪めた。
「自分じゃ絶対やらないからだよ。僕はそんなことで教師の評価を悪くしたくないんでね。だからこそ気になるんだよ、解放された感覚とかさ」
高名は弁当に付属の先割れスプーンで器用に豚カツを掬い、口に持っていった。
「あんまり……思ってんのとは違うぞ」
「飲み込んでから話してくれ」
高名は眉間に皺を寄せて急いで口を動かし、苦しそうに飲み込んだ。
「授業サボんのは楽だ。けど、やっぱな、ソワソワするんだよ。やっちまったなぁとか、この後怒られんだろうなぁとか。砂波は知らねえけどオレは落ち着かなくて仕方ねえ」
「なのにサボってるのか。よくわからないな」
「わからなくていい。お前は向いてない」
「言われなくても」
ジャムパンを食べ終わって塩パンの袋をまた苦戦しながら開ける。袋の切り口からパンそのものの香りが鼻腔に届いた。
「お前に聞くかどうか迷ってたんだけど」
「なに?」
言い終えてからパンを食べる。こってりした味のジャムを味わったあとだと、塩味がより一層美味しく感じられる。そんな風に美味しく食べていると、高名が物言いたそうにこちらを見ていた。まだ口が動いているので視線で伝えようとしてくる。
「カウンセリング受けてたのか?」
一瞬頭が真っ白になった。僕がカウンセリングを受けているのは藤橋先生とカウンセリングの先生しか知らないからだ。
「カウンセリングの部屋っつーの? 三階の奥の部屋からお前が出てくるの見たって言う奴がいてさ、まあ口止めしといたんだけど」
「……ありがとう。そうだよ、家でいろいろあってさ」
学校という空間の狭さを思い知る。結局誰にも言わなくても見られるものだ。
「そうか。お前もか」
高名は食べる手を止め、僕の手も止まった。
「君も?」
「うちは親父と母さんが昔から仲悪いんだ。一緒に住んでるからにはオレも巻き込まれてて、とにかく迷惑してた」
自分も似た境遇にありながらかける言葉がわからず、「気の毒に」と小さく言った。
「オレが寮に入ってる間に少し歩み寄ったらしいんだ。それはまあ、ああそうですかって感じなんだけど、オレとも仲直りしたそうにしてるっぽいんだよ。自分たちがないがしろに扱ったくせにだ」
苛立ちが漏れ出るように高名のつま先が階段の上を細かく跳ねる。
「実は……僕も似たようなものだよ。うちは母さんだけだけどね。つい昨日、今までの自分がやってきたことを許してくれって言うみたいに謝ってきて、どうしたらいいのかまだ決まってないんだ」
家庭に重い問題を抱える人がこんなに近くにいるとは思わなかった。それも勝手ながら、高名は一番無縁な人物だと思い込んでいた。その意外性からだろうか、自分でも驚くことに家で起きたことを高名に話したのは。
「答えなんて出ないんだろうさ。どうせこっちの立場に拒否権なんてない。できるのは気分転換と忘れちまうことぐらいかもな」
今こうしている時間も気分転換だろう。少なくとも今はなにかを決めなければならないという切迫感から逃げられる。
塩パンとカレーが食べ終わったのはほとんど同時だった。高名はポケットティッシュで口を拭いて、僕は最後のコロッケパンを食べる。気分転換とコロッケが自分の中で繋がって思い出した。
「そういえば土曜日、砂波と中林に食事に誘われたんだけどさ。高名は誘われたのか?」
ゴミをまとめた高名が目を丸くしてこっちを見る。
「え……誘われてない……」
「えっ!? あっと……その……」
しまった! あの二人なら絶対に僕より先に高名を誘っているだろうと高を括って聞いてしまった。気まずくてどうにか取り繕おうと言葉を手繰っていると、高名は噴き出し、大声で笑いだした。
「嘘だよ。知ってるさ。砂波に伝えたのはオレだしな」
僕は安堵のため息をつき、力が抜けてパンを落としそうになる。どうにか手の中に保ってこちらも安堵した。
「でもちょっと迷っててさ。ちょうど土曜に、家族で夕飯を一緒に食べようって言われて。まあ、ぜんぜん行きたくないんだけど、アレでも親だから無視もできなくてさ」
「そうか……話を聞くに、大切な食事になるんじゃないか? 残念だけどそっちを優先した方が良いと思うけど」
想像だけど、今後の家庭環境に関わる話でもされそうだ。ならばいつでもできる友達との遊びなんて二の次にした方が良い……けど、もちろん自分の立場に置き換えると気持ちは理解できる。顔を合わせたくない人としたくもない話に向き合わされ、何時間もつまらない空気に参加させられる苦しさ。理屈では家族を優先するべきだけど、やっぱり悩むだろう。
「わかってんだよな、そんなの。言いたいこと言わねぇと何も進まねえって、親の決定に付き合い続けないといけねえってな。いっそオレが悪いっていうなら楽なんだが……」
何か覚悟を固めたような頷きを一つして、「苛立つよな、ちょっと見てろ」と言いパッとスマホを取り出して操作を始めた……のはいいが、なぜか立ち上がった。
「見るって……ああ、電話か。なら聞くじゃないか?」
「揚げ足取りはいいから!」
取り出したスマホを耳に当てたのを見て、黙るついでに僕はパンを口に入れた。
「今時間ある? ああ、土曜日の……そう、それなんだけど」
わずかに電話の向こうから女性の声が聞こえる。高名のお母さんだろうか、何を言っているかは聞き取れない。本当に聞いていいのか、頭に入れない方がいいんじゃないかと疑い始めたとき、高名はスゥッと音を立てて息を吸った。
「悪いと思ってんなら、一回ぐらいそっちから頭下げて話を聞きに来い!」
階段に響き渡る大声で怒声を上げた勢いのまま、通話を切ってスマホをポケットに突っ込んだ。明らかに怒っていた声だったのに、高名の顔はむしろ笑顔で、つっかえが取れたように満足気だ。
「えっと……僕はなにを聞かされたんだ?」
もしも国語のテストで今の高名の心境を答えよと問われたら、答案用紙に人生初の空白を作ってしまうだろう。なぜ突然電話を始めて怒って一方的に切ったのかを整理できていない。
「親に振り回されたんだ。今まで言わなかった分、言いたかったんだ。悩んだり考えたりなんてオレには向いてねえし、だったら一回くらい全部ぶつけてやりたいだろ。だから遠慮ない本音を言ったんだよ」
呆気にとられている頭を叩くようにチャイムが鳴った。背中を向けて階段を下りる高名が「戻んぞー」と声を出す。後ろを遅れて追いながら声を掛けた。
「さっきのは、僕にもやってみろってことか?」
「うん? お前にできんのか?」
わかりやすい挑発を受けても、なんだやってやるぞ……とはならないのが僕なんだけど、言うだけ言って満足できるなら母に向けて真似してやりたい。
「……どうかな、僕はたぶんできない」
わかってました、みたいな頷きを見て「けど……!」と声が出た。続けるつもりはなかった。だけどこんな答えを聞くために、高名は自分の悩みを打ち明けてくれたんじゃないはずだ。
「お、覚えておくよ……同じように怒れないけど、君が勇気を出してくれたんだから」
僕は人に怒るのは苦手だ。昔から怒られたことがないし怒ったこともない。怒り方なんてわからない。だからさっきの高名を覚えておくべきだろう。僕のやり方を見つける方法は、僕にはできない方法を見つけることも大切なのだろうから。
四階の階段を下っていると教師とすれ違い、遅れるなよと声を掛けられる。二人で早足になって教室に向かっていると、なんだか自分の体が軽くなったような気がした。
部活が終わってから僕は一人校門の脇で、誰が見ても落ち着かない様子で狭い範囲をぐるぐる歩き回っていた。藤橋先生からUSBは返ってこず、昨日砂波に言われた通りに伝えておいたが、結局砂波はなにも言わなかったしなにもしなかった。なぜ伝える必要があったのかはわからないが、返してもらえたのかどうかはアイツも気になるのだろうと自己解決する。
さて、そんな風に頭と体を動かして寒さをごまかしていると、待っていた人が自転車に乗って通り過ぎようとした。
「諌野、諌野。ちょっといいか?」
慌てて呼び止め、「歩きながらでいいから」と一緒に諌野の家の方面へ歩く。
「驚きました……ずっと待ってたんですか?」
「五分も経ってないよ。全然平気さ。寒いのに歩かせて悪いね」
「いえ、私も先輩を家から歩かせちゃいましたから……今日も私の家に来ますか?」
そこだけ聞くと危険な誤解を生みそうな発言だ。
「さすがに家に帰るよ。でも克己さんにお礼を言いたいから、一度寄らせてもらうね」
校門を出て薄暗い通りを歩く。こういうのは男が車道側を歩くというお約束に則り、できるだけ自然に諌野の右側に移動した。こんなステレオタイプな気遣いは必要ないだろうけど、ただの自己満足だ。
「家族と喧嘩したんですか?」
「ああ……そうだね、ちょっと聞いてくれるかな」
それから簡単に家の事を話した。高名に一度打ち明けていたのでまとまった内容で話すことができた。
「そうなんですね……すみません。私にはなんと言えばいいか……」
「いや、ごめん。なにも言わなくて大丈夫。ただ……その、なんて言うかな」
ここまで会話をしても大切なところを迷ってしまう。僕は御守りと言われた言葉を思い出して、ポケットの勾玉のネックレスを握った。大丈夫、その苦しさも過ぎ去るものだ、と聞こえたのは幻聴だろうか。
「……克己さんから聞いたんだ。砂波が、君のお兄さんのクローンだって」
顔は見えないけど、動揺して諌野の視線が泳いだのは顔の動きで察せた。
「はい……それがなにか?」
「お節介なのは承知なんだけど……君はどうしたいのかなって」
諌野は何度も答えるのに躊躇して言葉を詰まらせる。そしてようやく聞こえた言葉は、少し震えていた。
「そんなの、わかりませんよ。わかるわけないじゃないですか。ずっと会いたくて……ようやく会えたのに、私の知ってるお兄ちゃんじゃなかったんです。砂波先輩の顔はほとんど記憶通りのお兄ちゃんなのに、その人柄はまるで正反対だったんですから」
これ以上は可哀想だと思う。だけど、ここで止まるのはもっとダメなことだ。
「君が砂波と話せない姿を見てたから、砂波がクローンと知ってからそうなのかなとは思ってたよ。ずっと、ずっと一人で戦ってたのに、気づいてあげられなくてごめん」
諌野の孤独な戦いを部員の誰も知らなかった。秘匿されているクローンの存在を知りようもなかった。それは仕方のないことなんだけど、僕は自分がクローンという立場だから、クローンとの関わり方に悩んでいるはずの諌野を無視したくなかった。
「僕もクローンなんだ。さっき話した母親の子どもの……クローンなんだ」
「……本当に、先輩が?」
「うん。母と仲が悪いのもクローンだからだよ。僕と君は、抱えてる悩みの根本はきっと同じなんだと思う」
母は僕を無視した。諌野は砂波を無視した。でも無視したのは悪意ではなくて、どうやってあの頃と違う人と話せばいいのか答えが出せなかったんじゃないかって、今になってそう思えるようになった。もちろん母が僕にしたことを、あの謝罪だけで許そうなんて甘い考えは無いけど。
「僕と砂波はまるで性格が違うけど、でも同じクローンとして、無視されたままっていうのは寂しいと思う……たぶん。砂波は人の心がないみたいな男だけど、せめて挨拶だけでもしてあげられないかな?」
自分の胸中を吐き出すときに感じていた鳩尾が重くなる感覚が無かった。ただ純粋な言葉を伝えることになにも障害もない。
「どうして、先輩がそんなこと言うんですか……?」
「これは正直に言うけど……僕が母と一言交わすのに勇気が欲しいんだ。君と似た思いを抱えているかもしれないなら、一緒に同じ一歩を踏み出せたら心強いなってね」
恥ずかしくなって少し笑う。諌野もつられて少しだけ笑い声を漏らした。
「それは私にとっても心強いです」
街灯が照らす諌野の表情が明るく見えた。
「先輩にはお世話になってますから、恩返しですね。時間がかかるかもしれませんが……」
「大丈夫。君のタイミングがある」
「ええ、津原先輩も」
僕らはお互いに頷きあい、なにもおかしくないのに笑う。僕もそうであるように諌野も恥ずかしいのかもしれない。でもこれで僕ら、行き場のなかった息苦しさを楽にできるだろう。時間が必要でも手を引いてくれる誰かがいれば、相手を引っ張って、相手に引っ張られることができる。クローンでも人と人の、本当の繋がりを作ることができる。




