4話
部活が終わってから中林と砂波に食事に誘われたのは、僕にとっては想像もしたことがない出来事だった。世の中には食事が趣味とも言える人が存在することは知っているが、僕からすれば食事は日々の消費の一部でしかない。だから食卓を共にするという行動には友情を深める心理的な効果があるのは知っているものの、その輪に僕を入れたい人がいるとは考えたこともなかった。
「ふゆっちはどうする?」
と聞かれたときに大きな声が出てしまったのは、そもそも友達からの誘いに不慣れでもあったからだ。
「でもなぁ……どうしようかなぁ」
僕がその輪に入っていいのかという疑問と、輪に入らないことで僅かに楽になる心に気づいてしまったことで悩みが生まれた。べつに断る理由もない。けど、受け入れられるほど自分に自信もない。
「行けばいいじゃないか。私なんて誘われもしないんだぞ」
背後から飛んできた先輩の言葉は僕にとっては心強いものだった。自分でも無駄だとわかりきっている悩みに、とりあえず行ってみるかという気にさせてくれた。
「わかった」
小さな声での返事はしっかり届いて、もう心配も無いかに思えた。階段を下りようとしたところ、砂波は突然立ち止まって僕を見る。なにか気に食わないことでもしてしまったのかと走馬灯のように一瞬でアレコレと探してみるが、まったく忘れかけていたことだった。
「忘れ物だ。USBの」
「あっ」
USBは憶えていたのに没収されたことは忘れていた。皆に声を掛けるのも忘れて職員室に急ぐ。
焦りから強くノックしてから職員室の中へ入る。教師は三人くらいしかおらず、藤橋先生を見つけるのは簡単だった。
「藤橋先生、ちょっと……」
壁際に設置されている鍵を掛けておくスペースにコンピューター室の鍵を置いたところの先生と目が合う。目を丸くさせて僕のところまで来てくれた。
「どうしたの?」
「没収されたUSBを返してもらいに来ました」
「ああ、はいはい」先生は小さく頷いて踵を返し、バッグの中を探し始めた。退屈を紛らわせるために職員室内を見回すと、藤橋先生が不安を滲ませる声を出し始めた。
「あれ? おかしいな……」
嫌な予感を察しながらもこちらは待つことしかできない。徐々に苛立ちに変わる不安のせいで手近な棚を指でトントンと叩く。
「ごめんよ。ちょっと今見つからなくて……」
申し訳なさそうに声を小さくして歩いてくる。先生に向かって怒りたい気持ちもあるけど、怒ったところで失くし物が出てくるわけでもない。
「そんな、見つけて下さいよ」
「もちろんだよ。でももう下校時間だから早く帰りなさい。ちゃんと探しておくから」
「お願いしますよ……大切なものですから、失くされたら困ります」
今すぐにでも先生のバッグをひっくり返してやりたい気持ちを抑える。
「しまった場所を忘れただけなんじゃないですか?」
「はは……必ず見つけて返すから、明日また来てね」
それは当然だと心で注意して渋々退室する。今はみんなを待たせているし、今すぐ返されても問題のパスワードを開けられないから焦る必要はない。
「失礼いたしました」と言って職員室を出て階下の踊り場で寒そうに体を縮めて待っているみんなの方へ行く。階段を下りながら寒さを感じていなさそうな砂波に両手の平を開いてダメだったとアピールした。
「見つからないってさ。探すから明日また来てって言われたよ」
砂波が返事をする前に中林が口を挟む。
「落とし物かな?」
中林は没収されたところを見てなかったなと思って簡単に説明することにした。
「いや、USBが没収されたんだけど、取りに行ったら藤橋先生が見つからないって言いだしてね。仕方ないから今日は帰るってわけ」
「ええっ! 酷い話しじゃない。もっと怒っていいんじゃないの?」
「そうだよなぁ……でも元々は僕が悪いしさ、しょうがないよ」
「ふーん……納得してるならいいけどさ……」
自分には無関係なことなのに、中林は僕以上に憤りを感じてくれているみたいだ。僕がなあなあに済ませたことにも不満を抱えているようだけど、そこには触れずに中林は少し話を変えた。
「でも珍しいね。あの真面目な藤橋先生がそんなミスするなんてさ。絶対に失くさない場所に置いておきそうな性格なのに」
「それは僕も同感だよ。先生にもそういうことあるんだなって」
どんなに真面目でも先生も人の子だ。ケアレスミスなんていくらでもしているだろう。これもその一つで、僕は運が悪かった。そう納得しておこう。
「お前たち、置いていくぞ」
園継先輩と砂波は階段を下り始めていて、本当に置いてかれないだろうけど慌てて後を追った。もたもたしていると教師に怒られる。
「津原」
昇降口に向かいながら僕に歩幅を合わせて砂波が話しかけてきた。
「明日も返してもらえなかったら教えてほしい」
「え? 代わりに取って来てくれるのか?」
「いいや、少し考えなきゃならないことがある」
僕の冗談にクスリともしない。
「もったいぶらずに教えてくれよ」
「人の事言えるのか」
砂波の指摘するように、USBの出所を明かしてないのは僕の方だから何とも言えない。砂波は人の痛い所を突くのが異様に上手くて僕が嫌いな部分だ。
「わかったよ。お互い様だな」
隠し事なんて誰にでもある。今はお互いの隠し事が少し関わりあっているだけだ。みんなと別れて一人帰路を歩きながら、上秋から受け取った勾玉のネックレスを手の平で転がす。上秋にも隠し事はある。きっとこのネックレスについても。それを暴こうとするのは、きっと僕がスッキリしたいだけなんだろう。砂波が他人の本心を読み取ろうとしないのは、自分の気分を晴らしたいという欲求がないだけに見える。
「羨ましいな……」
脇を通る車のエンジン音に消えるほど小さく呟く。今はたった一人だけど声に出したかった。僕は砂波のように自分の気持ちを二の次に置けない人間だから。
家はリビングにだけ明かりが点いていた。なら母親はそこにいるに違いない。静かに玄関の鍵を開けて中に入り、まっすぐ自分の部屋に帰る。部屋着に着替えて風呂に入る前に一休みした。雑にスマホで時間を潰そうかと手に取ったところで部屋にノックの音が響く。
それは普通のことかもしれない。ただ、我が家では異常事態と言えた。父さんが遠方の会社で教育係として単身赴任している都合上、我が家に居るのは母親だけだ。つまりノックの主はお互い無視しあっているあの母親の他にいない。
部屋の酸素が急激に薄くなったように呼吸が荒くなり心拍数が上がる。絶対に扉を開けたくないが、開けても開けなくても自分が母親との関わり方を選んだみたいで気分が悪い。どれだけ嫌でも窓から十二月の寒空に飛び出すわけにはいかないのだから、何度も決心が揺れながらも扉を開いた。
何年も、もしかしたら僕の物心がついてから一度もまともに顔を直視しなかった母親と向かい合う。髪に白髪が混じっていることも目元に細かな皺があることも初めて知った。
「再来週の土曜にお父さん帰ってくるから」
父さんは連休になると必ず帰ってくる。再来週ということは年末の連休だから毎年の通り、しかし母がわざわざ教えにくるのは今日が初めてだった。母がさらになにかを言い出そうという呼吸を感じ取り、僕は返事をせずに待つ。無意識に僕の顔は強張る。まるで睨みつけているような雰囲気を出していると自分で気が付き、早くこの無駄な時間を終わらせたくてジリジリと扉を閉める素振りをする。
「晩ご飯作ってあるから……後で食べなさい」
母はそう言い終えると扉を閉めた。遠ざかる足音が小さくなり、僕は呆然と立ち尽くす。いったいどういうつもりだ? なぜ急に僕の分までご飯を作ったんだ?良くない企みでもあるのか、まさか毒を盛ってくることはないだろうが、とにかく真意が読めない。家に忍び込んだ泥棒のように恐る恐る一階に下りる。
一階のリビングで僕を待っていた物は、湯気を立たせた香り高い食事だった。白米と味噌汁、ハンバーグなど和洋折衷の料理たち。様々なスーパーマーケットの冷食を食べた僕だから見ただけで手作りだとわかる。
「なんのつもりだよ……」
口から漏れ出た言葉はキッチンから緊張した面持ちでやって来た母の耳にしっかり届いていた。
「来年ね、お父さんの仕事が落ち着いて、家に戻ってこれるようになるの。だからね、お父さんと三人で暮らすようになってもこのまま無視してたらいけないでしょう?」
実は父さんは僕と母の仲がここまで悪いとは知らない。なんとなく察していそうではあったが、僕が思春期の年頃というのと、女手一つで子育てしている母のストレスだと思っているようだった。そんな父さんが帰ってくる度に家族で食事に行ったり外出はしているが、僕は父さんに心配させないようにと思って、悔しさと嫌悪感で心が引き裂かれそうになりながらも取り繕っていた。
「今まで迷惑かけたね……ごめんね……」
母の顔は俯きがちで、僕の目を見ずに何度も謝罪を繰り返す。今まで感じていた母への大きな恐怖心は幻のように消え去り、背中の丸まった弱々しい一人の女性の姿が目に映っている。この人はもう冷たい目で見つめてこないし、何かを言えばちゃんと反応してくれるだろう。
「なんで……だよ……」
声が震えてしまっていた。お腹から首まで変な力の入り方をする。大きな声を出すためではなく、無意識に何かを堪えるように。力を抜いた瞬間に我を忘れて暴れてしまいそうだった。自分の体が自分の物でないように制御できない。
「そんな……ことを……なんで……」
まとまらない言葉を口から放出する。体と声を震わせる僕をどう思ったのか、母は腕を広げ、僕の体を抱きしめようとする。そして僕の方へ一歩踏み込んだ母の肩を……僕は力強く押し戻した。
「ふざけんなよ……」
顔が熱い。喉が痛い。言動に思考が追い付いていない。
「勝手に無視して、勝手に僕の人生かき乱して……クローンなんて人生押し付けやがって! 勝手に謝って終わりにしようとするんじゃねえよ!」
勢い任せに握った拳を自分の太ももに叩きつけて家を飛び出した。後ろから呼び止める声が聞こえた気がするが関係ない。知ったこっちゃない。ただ目の前すらまともに見ずに見無我夢中で走り、こんな理不尽な仕打ちを強いる人生から逃げ出したかった。




