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5話

 中林に礼を言って一足早く寮に帰った。一春の記憶が戻ればもうUSBに用はなく、そっちのいざこざは砂波と津原に任せればいいだろう。


 部屋に荷物を置いて、学ランを脱いで赤いダウンジャケットを着る。貴重品などを持ってからまた外に出て一階の自転車の様子を確かめた。手袋を外して後輪を指で押すと少しの抵抗もなく沈み込む。たぶんカップラーメンを買い溜めした帰りにパンクしたんだろうけど、あの時は自転車に乗りながら一春のことを思い出そうと考え込んでいたから気付かなかったのかもしれない。これのせいで親に電話せざるを得ない状況になってしまった。まったく憎たらしい。


 寒空の下で待つこと数分、冷たい空気を吸って鼻が痛くなってきた。その場で足踏みして僅かでも暖を取ろうと奮闘していると、薄いピンク色の軽自動車が寮の脇に停まる。しばらく見ていなかった母親の車だ。エンジンを付けたまま運転席から母さんが下りる。


「どれ。あの汚いやつ?」


「……トランク開けてくれ」


 不愉快そうにふんっと鼻を鳴らしてトランクを開いた。自転車を近くに持て行くと「少し待ってなさい」そう言って後部座席を倒して広くなったスペースにブルーシートを敷く。これで内壁に自転車を擦らせると雷が落ちるので、慎重に自転車を持ち上げて中に納める。


 母さんは運転席に戻ったのでオレもトランクを閉めて助手席に乗った。座るとすぐにウェットティッシュを差し出される。無言で受け取って、大雑把に手の汚れを拭き取って車内のゴミ箱に投げ込み、暖房の温度を上げた。厚手のコートを着ている母さんは少し暑いだろうが、特に文句は出なかった。そして寮の契約終了の書類を入れたクリアファイルをダッシュボードの上に置くと母さんはそれを目で追う。


「なにそれ?」


「後で読んで」


「そんな言い方ばっかり……半年ぶりに連絡くれたと思ったら足に使ってくるし。学校はちゃんと行ってるんでしょうね」


「ああ」


 わざとらしいため息が聞こえる。こんな中身のない会話に興味は無いし真面目に答えるつもりもなかった。本当に気になって聞いているんじゃなく、オレの答えは聞かないで愚痴だけ言いたいという態度が透けていたからだ。半年ぶりの連絡だって、両親がオレに調子を聞きにこなかったとも言えるのだから、オレだけ責められるのは理不尽極まりない。


 丁寧に動く車の助手席から対向車を二十数えたところで自転車屋に着く。作業服を着た壮年の店主と世間話をしながら自転車を車から下ろし、状態の確認をしてもらって修理後に受け取る日付を決めた。明日の夕方には直っているらしいけど、放課後に来るのは面倒だから土曜日にしてもらう。


 一通り終わって車に戻ると母さんはクリアファイルから紙を出して読んでいた。「いくらだった?」と寮の契約終了の文字が書かれた紙から目を離さずに聞かれる。


「修理が終わらないとわからない」


 ただのパンクなら千五百円、他の修理が必要になると追加料金が掛かると説明された。だけどいちいち説明する手間をかけたくない。母さんはエンジンをかけ直す前に五千円札をオレに渡した。


「これで足りるでしょう」


 折り目がないお札を長財布にしまう。財布をポケットに入れてシートベルトを締める間にエンジンがかかり、車が動き出すと寮とは違う方向に走り始めた。


「こっちって……家に向かってるのか?」


「そう。どうせロクなもの食べてないんでしょう? たまには夕飯を食べに帰りなさい」


「いいだろ、好きにさせろよ!」


「それと、これはあなたがお父さんに渡しなさい」


 クリアファイルを押し付けられ、反論を許さない態度に怒気を発した。オレが寮を去りたくない理由は友達との空間を離れたくないだけではなく、家族と同じ家に居たくなかったからで、できる限り家族と会いたくなかった。さらに親父と顔を合わせるなんて、悪いことをしていないのに説教を受けに行くようなものだ。しかし車は動いてしまっているし途中で下ろしてくれるはずがない。苛立って投げたクリアファイルがフロントガラスに当たり、書類がダッシュボードの上に散る。


「ちょっと! びっくりしたでしょ!」


 窓の外は懐かしい景色になっていった。寮に入ってから意識して近づかなかった実家の周辺は、たった二年しか経っていないのに遠い昔の故郷のように感じられる。たぶん一春と中学時代の記憶の結びつきが深く、自分の過去を思い出しにくくなっていたせいかもしれない。一度忘れたという事実は実際の時間より長く感じさせているように思う。


 寮周辺の住宅街は駅周辺の開発にしわ寄せされたような窮屈さがあるが、実家は駅から離れて昔ながらの広い土地を使った家屋になっている。元は農家だったが祖父祖母の他界した後に畑を手放し、今は農具を保管していた小屋が敷地内にある大きな二階建ての家が我が家だ。家が大きくても裕福なわけではなく、普通のサラリーマンの父とパートタイムで働く母、よくある普通の家庭だ。


 小屋の一階は二台分の駐車スペースになっていて、親父が通勤に使っているシルバーのセダンがあった。セダンにぶつけないよう用心深くハンドルを回して屋根の下に収まった。外に出たくないけどここにいるわけにもいかない。


 ただいまを言わずに家に入った。懐かしい家の香りに感動はなく、暖かい空気の漏れ出る引き戸を前に開けるのを一瞬ためらう。背後を「早く入りなさい」と言いながら母さんが通り過ぎてキッチンに姿を消した。母さんの後ろ姿を睨み、ため息を吐きながら障子を開けた。


 目がチカチカするLED電球の明りで真っ白に光る畳の部屋。六畳の居間はどこかのお土産で買ってきたような置物や人形が入れられた飾り棚が目立ち、流しっぱなしのテレビがうるさい。親父も耳が遠くなる歳なんだろう。部屋中央には茶色い木製テーブルが鎮座する。そのテーブルの上に頬杖をついて小説を読む親父の姿があった。


 先に風呂に入っていたのか、襟の付いた紺色のパジャマを着てあぐらをかいて座っている。心なしか最後に見た時から白髪が増えている気がする。オレがちょうど向かい側に座ってクリアファイルをテーブルの上に置くと、ようやく気が付いたように親父の顔がゆっくりこちらを向く。四角く色黒な顔は昔から威圧的だった。さらに寡黙な性格で冗談も言わないし通じない。笑った顔を見たことないしとにかく幼い頃から苦手な親父だ。


「寮の契約が来年の四月に終わる」


 クリアファイルを親父の方へ滑らせ、オレは視線をテレビに逸らした。余計な会話が通じない相手だ。黙って待つしかない。


 静かに本が閉じられ、親父はクリアファイルから紙を抜き取り、小説よりも退屈な文章を読んでいるだろう。視界の外で紙をめくる音がする。いくらテレビを見ても耳は勝手に親父の行動を追えるように集中してしまい、早まる心臓と唾を飲む音が部屋に響いている錯覚をする。


「追い出されたわけじゃないんだな」


 さも当たり前のように吐き出された信用の無い言葉に、拳を握って力がこもる。オレを苛つかせたいだけなのか、この親父は。


「自分の子供のこと、なんにも知らないんだな。今のオレは真面目なんだよ」


 高校に入ってから大きな問題は起こしていない。サボりや課題の未提出がせいぜいだ。親父の中のオレは中学生からずっと成長していないんだろう。


「お前は当たり前のことをしているだけだ。もう人に迷惑をかけるな」


「あれから何もしてないだろ!」


「今はな。中学生の頃と違うと言うならちゃんと卒業して大学に入ってくれ」


 親父めがけて机をひっくり返してやりたい気分だった。親父に将来を決めつけられたくない。それに言わなきゃ理解できないと思われるほど、親父がオレを信じていないのが言葉の節々から感じられて腹が立つ。


「オレに不満があるなら言ってみろよ……!」


 親父からの言葉はないまま、オレは沈黙の中で睨み続けた。胸ぐら掴んでやろうとかは思うけど本当にやるわけはない。でもこれが、冷たい目でオレを鋭く見つめる親父への抵抗だった。


 すぐに沈黙を破ったのは母さんだった。キッチンに繋がる扉が開かれて夕飯を運んできた。目の前に二人分の食事が並ぶ。おかずを大皿に盛って家族みんなで箸をつける習慣のあるお宅もあるだろうが、うちでは人数分の小皿におかずが用意されるのが小学生の頃からの慣習になっていた。もっと昔は三人で食卓を囲っていた。


 歯車が狂ったのは母さんの不倫だった。なぜ不倫したのか理由は聞いたことないし知りたくもないが、母さんは当時勤めていた会社の同僚と関係を持ち、なんらかの理由でその不貞行為が会社内で知られてしまって親父の耳にも入ったらしい。クビか自主退職か知らないが母さんは職場を離れた。親父とは離婚も視野に入れていたらしいが、小学生だったオレを片親で育てるのは金銭以外にも問題があると親父が判断して婚姻関係は留めたらしい。


 母さんの両親も元仕事仲間も、誰もが親父が人情味のある決断で母さんを救ったと思っていただろう。もし離婚になった場合、家事のほとんどを行っていた母さんに親権が渡る可能性が高いと教えられていたからだ。だがそうならなかったのは親父の思いやりではなく、母親役がいれば家が楽になるというただの合理的な判断だった。ひと騒動終わった後、家族の食事はバラバラになった。


 夕飯は味を感じなかった。箸と皿が当たる無機質な音と誰も見ていないテレビだけが音を出す。チラッと見えた冷凍食品のコマーシャルでは家族役の役者が一家の団欒を見せていたが我が家の現実はこれだ。テレビの偽家族の方がよっぽどそれらしいじゃないか。そんなことを何年も前から考えて続けて、その度に虚しくなる。


 食べた気のしない食事がようやく終わり、少しの休憩の後に親父が立ち上がった。「もう帰るだろう。送る」オレの返事を待たずにブラウンのトレンチコートを着た。また勝手に決めやがってと悪態も浮かぶが、早く帰るにこしたこともない。記入の終わったクリアファイルも受け取り、夕飯前に脱いでいたダウンジャケットを渡してくれる。


 親父はセダンの方の車に乗り、小屋から玄関の前まで動かした。母さんの見送りはなく、芳香剤のウッド系かつ爽やかな香りが満ちた車に乗った。この親父の隣は嬉しいものじゃないけど、香りのおかげか落ち着いていられる。鼻からゆっくり息を吸って座席にもたれかかって、あとは寮に着くまで黙ってればいい。暖かい車内の空気に眠気を感じ始めた。視界がぼんやりとして瞼が重くなる。そのまま睡魔に任せてしまおうと力を抜いたのに、親父が低い声で話しかけてくる。


「寮に住んでどうだった」


「……楽しかったよ。ずっとあそこにいたかった。家よりもずっとな」


 閉じかけた目を親父に向ける。輪郭はぼやけて見えるけど頷いたのがわかった。「でも、聞かせてほしいんだけど」オレはあまり回っていない頭でこの二年の疑問をぶつけた。


「オレを寮に住まわせたのは家から追い出したいんだと思ってた。でも、なんか釈然としてなかったんだ。そこでよく人の相談にのってる友達にどう思うか聞いてみたんだ」


 オレは中学生の時から一春に家族の悩みを聞いてもらっていた。中林にも砂波にも聞かせていないことを沢山言って、公平な返答をする一春に怒ったことも、それで怒られたこともあった。八月十三日、一春が消える一週間前に話していたこと、それは親父のほぼ独断でオレを寮に入れたのは厄介払いだったんじゃないかという内容だった。だけど同時に合理的な判断をする親父が、生活能力の無い息子を金の掛かる寮に入れたのは不自然な気がした。相談したときは今ほど言語化できてなくて、ほとんど愚痴を一春に聞かせたけど、いつも通り話を最後まで聞いてくれた。


「もしかしたらオレを家から逃がしたかったんじゃないかって言われてさ。親父がオレを嫌ってるんじゃなくて、今の家庭環境から離れさせてやりたかったんじゃないかって」


 一春は一週間悩んで答えてくれた。部外者として無神経な事を言わないようにしっかり時間を使ってくれた。そして聞かされた内容に、オレはなんとなく納得してしまっていた。親父も母さんも好きじゃないのに、そうなら良かったと思う心に気付いてしまった。


「お前が中学生のとき、いじめっ子を殴って怪我をさせたことがあったろ」


 親父はオレの思い出したくない過去の話を始めた。それは中学二年のとき、砂波がクラスメイトにいじめられていた事件から始まったことだ。


 砂波はあの性格だから痛覚がないかのように振舞っていたけど、なんとかしようとしたのが中林。砂波の味方をすることで中林も標的になり、毎日のように罵詈雑言や小賢しい悪戯を受けていた。当時二人と関わりがなかったオレは、毎日のように悪口やら悪戯の現場を見ては苛立ち、いよいよ関わった男ども全員をぶん殴った。当初は不良が何もしていない生徒を殴ったといじめっ子が言い張り、それを真に受けた教師が親父を学校に呼んだ。親父はオレからいきさつを聞いて他の生徒からも事情を聞くように教師に申し立て、いじめの事実がようやく明るみになったのだ。中林と砂波、いじめに関わった全員と連絡のついた親が集められて二人への謝罪が行われた。それでいじめ事件自体は収束なのだが、親父はオレが殴ったいじめっ子と親に頭を下げ、オレにも謝らせた。オレが悪いのかよとその時は納得しなかったのを覚えている……というか思い出した。


「父さんも母さんも気に食わなければ人を殴れなんて教えた覚えはない。だけどお前はそうした。お前に暴力を使わせたのは環境のせい、つまり親のせいだ。うちは明らかに歪な家庭になっちまったからな。お前に暴力以外の解決策を教えてやれてなかった」


「後悔してんのかよ」


「なにか方法があっただろうな。お前を悪者にしてしまったのに、なんとかしようと考えれば考えるほど家の状況は最悪だった。父さんも母さんも、昔みたいによりを戻せなかった。それなのに、寮に住んでもらったらすっかり落ち着いた……」


 対向車とすれ違いざまに風を切る音に紛れて「悪かった」と聞こえた。いや、もしかしたら空耳かもしれないが、ようやく聞けた言葉だ。家族がバラバラになった日からオレも親父も自分は悪くないと思い込み続けたに違いない。


 思い込みのない人はいない、思い込みをもっていることを自分でわかっていないといけない。オレは親父にも母さんにも悪い思い込みがある。そして、部活で見たアートみたいに表面的じゃない事実や裏側の生活だってある。オレは勝手に何も変わっていないと思い込んでいたけど、もしかしたらそれはオレの思い込みで、見えないところで実は……なんてこと、あるのかもしれない。


 寮に着き車を降りると夜の冷え込みも相まって目が覚めた。右ポケットの部屋の鍵の存在を確かめて、すぐ取り出せるように握りしめる。寮の階段へ足を進めると運転席の窓を開けて親父が言った。


「週末、帰ってこないか? ほら……寮を出た後のこともあるだろ。母さんと三人で話そう」


 親父はきっと心を決めて言ってくれているんだろうけど、オレにはまだそれに応える準備が出来ていなくて、うんと言えばいいだけのことに声が出なくて、手を挙げて返事とした。自転車屋に行くのに土曜日にまた連絡しなくちゃならない。それまでは待っててもらう。


 オレの記憶がなくなったことで少しばかり自分の過去を客観視できるようになった。自分のことも見つめ直すことができた。親父は家族を役割で考えていて、オレは子供の役割の中に自分が収められているのが嫌で反発した。今になって思えば役割なんてものはなかったんだ。親に求められていただけで、あると思い込まされただけで、寮で一人暮らしをしてても記憶を失っても自分はレッテル貼りとは無関係な自分であり続けた。一春が相談に乗ってくれて、オレが記憶喪失になったことで家族の問題で荒れていた部分は是正された。それについては一春に感謝しなくちゃな。


 寮の階段を上がる。自分の部屋を通り過ぎて一春の部屋を前にした。目を閉じて祈る。こんなことをしても意味ないだろうけど、自分の気は晴れる。ありがとう、あとは一人でなんとかしてみるよ。

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