2話
記憶なんていつでも好きな時に引っ張り出せるものだと思ってた。小さい頃に虫に襲われたりとか祖父母の家の夜が嫌な怖さだったり、そんなことはいくらでも思い出せても、一春という女性はまったく記憶にない。
だけど奇妙なのは記憶にないのに元々は知っていたと感じること。夕暮れの道を歩くと懐かしいと感じる香りがどこかから漂うような、一春の名前を聞くとそんな哀愁に似た感情を持つ。オレは間違いなく彼女を知ってるはずなんだ。
津原が目の前で酷い頭痛に襲われているような顔をして、苦しそうな声を出す。
「ええと、ちょっと待って。覚えていない? 連絡を取り合う仲だったのに?」
そう言われてポケットのスマホを取り出した。急いだせいで暗証番号を何度も間違えて一人でイライラする。無料のメッセージアプリを開く。現代の学生が連絡するといったら九割がた使われてるアプリだ。そこに一春の名前はない。何度も開くアプリだから、もしここに名前があれば気付いていただろう。次にスマホに最初から入っているメールアプリを開く。メッセージアプリの台頭で迷惑メールにしか使用されないものだ。こちらにもそれらしいやり取りがなく、アドレスも登録されていなかった。
「たしか……連絡が来たとか言ってたから……電話かショートメッセージもありえるな?」
記憶を辿る津原の言う通りにショートメッセージアプリを探す。普段使わないからアイコンで判別できず、それっぽいものを次々開く。
「あった、ショートメッセージ。こんなの使ったのか……」
宛名に一春と書かれているメッセージが一番上にある。八月二十日の午前六時……かなり早い時間だ。内容は『三十分後に学校に来れる? 先週のやつ』約束かなにかをしていたのか?『どこに行けばいい』というのがオレの返事で、すぐに返信が来ている。『先週の場所で』『わかった』これで終わっている。隣の津原にも見せた。
「……なるほど」
「先週のやつってわかるか?」
「僕は知らないな。文面から読み取るなら、約束とか受け取るものがあるとか?」
用事については自分の頭に残っていない。一春と関係なく単純に忘れているかもとも疑ったが、約束の記憶力には自信がある。中林がコンビニの新作スイーツを食べたいと言ったときに見つけたら伝える約束をしたのだが、二ヶ月後に駅前のコンビニにあったことを教えたら中林本人が忘れていたなんて小話もある。
「理由はオレにもわからないが、一春に関係する記憶はキレイになくなってる……。でもキレイさっぱりって感じじゃなくて、忘れている自覚はあるんだ」
「いったい、いつから?」
「夏休みの終わり頃だな」
首を突っ込むことはなかったけど、同時期に誰かが行方不明らしいとは噂に聞いた。中林や砂波は一春と呼んでいたような……。
「他に覚えていることは? どこで記憶がなくなったとか、その時に何が起こったのかとか」
「ま、待て。焦らせるなっ! こういうのはゆっくりだな……」
オレの頭に軽い衝撃があった。反射的に振り返ると先生が紙のフラットファイルを津原の頭に叩き付けた。明らかに怒っている様子で、授業が終わるまで説教を覚悟しないといけなくなってしまった。
図書室を追い出されてしまい、亀よりも遅い歩みで階段を下りる。一分一秒でも間延びして必要な会話をしたかった。
「つまり一春だけじゃなく、一春に関係する記憶もなくなっていて、ずっとその歯がゆい思いを抱えていた。あの日の記憶もないわけか」
人差し指でこめかみをトントンと叩きながら津原が軽くまとめた。
「ああ。いちおう聞くけどあの日って、オレのスマホに連絡が届いた日か?」
「そう、その日はコンピューターアート部と君と砂波で草刈りをしたんだ。そして一春は……おそらくその日に失踪した」
失踪……津原は苦しそうに呟く。スマホの連絡も草刈りもやっぱり思い出せず、目を閉じて首を横に振るしかできない。二人して黙って考え込み、津原のこめかみを叩く指は速くなっていた。
「あんまり頼りたくないんだけど……私情を優先するべきじゃないよな」
なにを言いたいか察知してスマホを開く。メッセージアプリで砂波の名前を探した。
「要件は?」
「一春のUSBを見つけた。八桁のパスワードに心当たりは?」
まだ砂波が苦手なみたいで、頼るのは苦肉の策らしい。
津原が、と前置きして言われた通りの内容を入力する。送りはしたけど相手はあの砂波だ。いつ読んでくれるかわからない。三日既読が付かなくて、後で聞いたら通知を鳴らない設定にしていたと言っていた。どうにかお願いして通知をオンにしてもらったから、設定を変えてなければ気付いてくれる……はず。
「もしかしたらUSBの内容が君の記憶の手掛かりになるかもしれないしな」
確証がなくても関係するものを手当たり次第に探らなければ遠回りすらできない。好きじゃない言葉だけど、堅実に調べないといけなそうだ。
「そのUSBの中身は知ってるのか? ああいや、もちろんそれを知るためにパスワードを探しているんだろうけどさ。どんな内容が収められているのか、とかさ」
「正直わからない。プライバシーを考えれば見るべきじゃないとも思ってる……でも」
その先を言わなかった。津原は腕をお腹の前で組んで眉間に皺を寄せる。苦しそうだけど、放課後に何をしていたのかを聞いたときとは違う反応な気がする。
「オレの失った記憶が関係しているなら中身を確認する理屈になるだろ。怒られるなら、まあ怒られておけば良いしな」
「……そういうところは砂波と同じだよな」
オレと砂波の悪友たる所以は自己都合を押し付ける決断が似ている部分だ。根本の思考回路は砂波の方がかなり理屈っぽかったりするが、オレはオレの理屈で考える。すると物事を決めるのが早く楽になり、とりあえずやってみようという気になる。
「砂波は君の記憶が欠けていることを知ってるのか?」
「まあ、なんとなくは。オレも何が思い出せないか説明できなかったし、あいつの性格的に聞いてこないんだよ。べつに興味ないんじゃないかな」
悪く聞こえるかもしれないが、短所と長所は紙一重だ。長く友達をやると、砂波はどんなことを言っても卑屈にならないし、こちらの私情に踏み込んでこないから一緒にいて楽な男だ。
「高名は精神科とかカウンセリングを受けたりしないのか?」
「どうして?」反射的に声が出たが記憶についてだと理解した。津原はオレの記憶喪失を精神的な問題だと考えているらしい。たしかに理由を考えるならそれが普通か。
「本の知識しかないけど、記憶喪失って頭を強く打つか、強い精神的ショックを受けると発症するものだと思うんだ。もし頭をぶつけていたなら酷い怪我をしていただろうからこれは省くとして、精神的ショックの可能性があるなら専門の医者に診てもらった方が良いんじゃないかな」
原因不明の記憶喪失なのだから津原の言う事はもっともだ。オレも友人が同じ目にあったら同じことを言うと思う。
「その方が良いんだろうけど、USBの中身を見てからでもいいかな」
友人の記憶がほぼ思い出せない状態だけど、生活は普段通りできるので楽観的にいられる。津原も無理を言うつもりはないみたいで、それ以上進言してくることはなかった。
一段ずつ両足を乗せて下りてきてようやく階段の踊り場まで着いた。スマホのメモ帳で中林や園継先輩に一春のことを聞き出すようにと打ち込む。ついでにショートメッセージに一春との連絡履歴ありと入力する。これで忘れても目につく。
必要なメモは取って電源を落とそうとするとメッセージを受信した通知が現れた。ポップアップしてきた通知をいつも通り反射的にタップしてアプリを開くと、驚いたことに砂波からの返信だった。あいつが帰って来てから直接話した方が早いとすら思っていたから名前を二度見してしまう。初期アイコンで逆に個性的なのは間違いなく砂波だ。すぐに津原にも画面が見えるように構える。
内容は一切の無駄が無い簡潔な一文だった。普通の人なら『なぜ?』『どうするつもり?』が最初に書かれていそうだけど、くどい会話を嫌う砂波の性格はこの状況ではとても助かる。
『since520』
このたった八文字をたっぷり時間をかけて見つめる。おかしな日本語の文章が暗号になっているときの様に、この八文字に裏の意味を探ってしまう。
「津原、since の意味を教えてくれないか?」
「ええと、単語の後に数字が付いている時はたいてい何年以来ずっとっていう、その年数から継続していることを表す。これを文面通り受け取ると……念のため」
津原は自分のスマホを取り出して検索する。自分の思い込みで間違った意味を教えたくないのだろう。
「520年以来。そこから継続しているって意味か……飛鳥時代より前だな。古墳時代?」
一つ、嫌な仮説があった。それはこの520という数字の並びには覚えがあったからだ。
「もしかしたら……日付かもしれない」
津原の顔がこっちを向く。続きを急かそうとしているのを感じ取る。
「もし日付なら、五月二十日。砂波の誕生日だ」
背中に冷たいものが伝う。あくまで仮説だ。あくまで思い込みだと自分の胸に聞かせる。心当たりのある点を見つけて勝手に線を繋げているだけ。てんで的外れな思い込みを生む典型的なパターンだ。
画面が津原に見えないように離れて打ち込む。
『お前の誕生日だな』
この八文字の出所は後で聞ける。まずは砂波がこれでどう考えているのか、今すぐ知りたかった。今度の既読と返信はすぐに来た。
『そうだ』
もし可能性であれば不確定な文面にしている。もし違う意味なら訂正してくる。砂波という人間は必ずそうする。だけどこの一言は自分の誕生日だと明言しているようだ。
いったい今、オレたちの周りでは何が起こっているんだ?




