5話
十二月十一日 水曜日
客間に敷かれた布団の上で目覚めた。午前六時半、学校に行くときとまったく同じ時間の起床だ。ソファでも床でもどこでも寝れるし、ほとんど同じ時間に起きれる体質はよその家でも健在のようだ。
カーテンを開けて外の様子を見る。昨日から降り続く雨はまだ止まぬ気配がある。それを確認して机に置いてある電気ポットのスイッチを入れる。寝る前にクリスさんがキッチンから持って来てくれた物だ。沸騰を待つために座布団に座り込み、寝る前から頭に何度も繰り返される言葉がまた沸き上がった。
「簡単な道を進む代わりに、その道の苦労は受け入れなさい。大丈夫、やがて過ぎ去るから」
一言一句、一春の声で思い出せる。確かに簡単な道を進むつもりだった。努力しない程度の学校に進学して、卒業できる程度の成績だけとっていれば文句は言われても問題ないと。その中で起こった明らかな異常事態である一春と古谷、これはその道の苦労を受け入れろという言葉の通り、避けてはいけないものなのか。もし一春が自分の失踪の後に俺に迷惑をかけるという意味で言ったのであれば、本当にとんでもない面倒ごとを押し付けてくれたなとなるのだが。
その面倒ごとの一つ、人造人間は死ぬと消えてしまうとかいう冗談みたいで、残念ながら本当らしい話が仮に一春の身に起きたとしたら、なぜ死んだのかを解き明かすことはできないだろう。帰ってくれれば事の次第を聞けるし、最悪死体となって見つかっても警察が捜査を殺人の可能性がある事件に切り替えて徹底的に調べ上げるだろう。しかし死体がなくなってしまえばあらゆる手がかりも消えてしまう。
電気ポットを見ると沸騰と書かれたランプが点灯して、すでに飲める状態であった。実家にある物だと上部に蒸気が出る穴が開いていたが、新しい機種では熱い蒸気が排出されないように設計されているらしい。ポットの蓋の押し板を指先で押し込んで湯呑に熱湯を注ぐ。少し冷ますために机に置いた。
濃い湯気が立ち上り空気に溶けていく。よく一春は煙のように消えたと言われていた。古谷の最期も、まさに煙のようだった。湯気が出るならお湯があるように、一春が消えても住んでいた部屋は残っている。調べるならそこか。だが帰る前にリエルと友達になってクリスさんの望みを叶えないと、昨日の情報料の支払いを要求されるかもしれない。
お湯が少しぬるくなったあたりで飲んで、クリスさんに声をかけるために部屋を出る。物音はするから起きているだろう。
「すみません、クリスさん」
障子なのでノックもできず、とりあえず声をかけた。畳を踏みしめる音が響いてクリスさんが眠気を感じさせない顔を見せた。
「おはよう。学校に行かないのにずいぶん早い……朝食にしようか。トーストでもいいかな?」
「はい」
朝も歴史ある日本の朝食かと思ったが、ちゃんと現代人らしいところもある。「少し待っていてくれ」と言ってキッチンに行ってしまったので俺は部屋で待つことになった。そしてまた湯吞にお湯を注ぐと人が来た。クリスさんが朝食を持ってくるには早いと思ったらリエルだった。ゆっくりとした動きで机を挟んで向こうに足を伸ばして座った。
「それ、温度調節できるよ」
湯呑の中で延焼でも起こしているような惨状に見かねたのか電気ポットの説明をしてくれた。まさかボタン一つでゆっくりお湯を注げるとはローテクな人間には思いもしなかった。
「八十度はお茶を淹れるのに良くて、九十度はコーヒーに良いんだって。私はコーヒー飲まないけど」
「そうか、もう使わないかもしれないけどな」
「つまんない人ね」笑いながら言われた。「聞いておくだけ損しないでしょう?」
たしかに損はしないだろう。また嫌な言い方をしてしまった。そんな思考に気を取られて熱いままのお湯をそのまま口に付けてしまい、口の中が焼けそうな痛みに襲われる。
「ちょっと、大丈夫?」
無理やり飲み込んで一息つく。
「大丈夫だ。それよりどうしてここに来た」
依然リエルは戸惑っているが、そんなのは無視してもう一度聞く。「用があるのか」
「あった……けど、難しくなったね」
視線が窓に向けられていた。外に出たかったのだろうか、この雨では家で大人しくする方がいいだろう。
「リエル、下りて来たか。持っていく手間が省けた」
クリスさんがトーストを乗せた皿を両手に持ってきた。それを俺とリエルの前に置くと「隣の部屋にいる。なにかあったら来なさい。食べ終わったら流し台に置いておきなさい」部屋を出て行った。
トーストにはスライスされたバナナとブルーベリーのような青紫色の実が乗っている。濃厚な甘ったるい香りが部屋に充満した。トーストと言えばトースターで焼いてジャムを塗るくらいしかしたことがなかった俺からすれば、かなり手の込んだ料理に見える。
「来客で気合入ってるの。お父さん、私のは用意してくれるけど、自分のご飯はすっごく雑だから。普段料理なんてお手伝いさんに任せっきりなのに今日は頑張ったみたいね」
「そうか」パンを水平に保つように意識してかぶりつく。メープルシロップの甘さが口に広がる。「慣れてるような料理に見える」
リエルはパンを持ち上げて裏側を覗いた。「ふふ、目いっぱい焦げてる」笑いながらダメ出しした。表情は嬉しそうで、小さな口で食べ始める。指が細かく動かせないのかパンを何度も落としてブルーベリーがこちらに転がってきた。
「ごめんね、取ってくれる?」
言われた通りに拾って返そうとする。「食べさせて?」リエルは小さな口を開いた。指が唇に触れないようにブルーベリーを食べさせた。
「ん、ありがと」
リエルが食べやすいようにパンを持ってやろうかとも思ったが、さすがにお節介だろうし頼まれるまでは大丈夫だろう。自分の分はさっさと食べ終わり、まだほとんど残っているリエルを待つ。
「気を遣ってる?」
なにに対して聞かれているかわからず心当たりを探してみる。しかしなにに対しても気を遣った覚えがない。というか、気が遣えるほど俺は大人ではない。
「人が人を造ったってこと、聞いたんでしょう?」
どうもこちらを見透かしたように話してくる。だがリエルが人造人間のことを知っているなら話は早い。
「ああ、いろいろと。リエルはどのくらい知ってる」
「……」
リエルは一口トーストを口に入れて、思案顔でよく噛む。
「人と差異はないって聞かされてる。あと、私の身体のこと。それ以上は知らない」
「他の人造人間のことは?」
「なんにも。一人しか会ってないから」
「一人って……」言葉を切ってリアクションを見るがまたトーストを食べていた。答える気配はないので続けて聞く。
「リエルの身体のことっていうのはなんだ」
「身体の不調のことかな。理由とかは未解明だけど、死んだあとの核細胞を再生させると予期しないことが多く起こったから、これもその一つだろうって……ええと、わかるかな?」
決して良くはない頭を回転させる。
「つまり死んだ細胞を再生させる技術そのものが、まだ人体に使うべきじゃないってことだと想像するが……」
「まあ、それでもいいかも」
克己さんとクリスさんの話しからは、実験が強行された印象を受ける。そもそも法や倫理に反しているのだから強行であることに違いはないが、仮に合法の場合でも人間に行える段階に達していなかっただろうとは素人にも理解できる。
「どうして季之はここに来たの?」
自然に話していたが事の経緯をリエルは知るはずもなかった。簡単に昨日克己さんに会いにいってから偶然居合わせた同年代だからという理由で友達になってくれと頼まれたことを説明する。克己さんに会いに行く説明に古谷が目の前で死んだことも軽く触れたが、古谷が死んだ後に消えたことは話さなかった。
「そう、可哀想に巻き込まれたのね」
「そうなるな」
巻き込まれたと言えば一春と出会ったことから始まっている可能性があるわけだが、それは伝える必要もないだろう。リエルも食べ終えたようなので皿を重ねる。
「ねえ、ティッシュ取ってくれる?」
言われた通り白いシンプルなティッシュケースから一枚取り出してまず自分の手を拭いて、もう一枚を取って渡そうとするとまたリエルは付け足した。
「私の口元を拭いてくれる?」
自分でやれと言うべきか迷ったが身体が不自由ということもある。リエルの隣まで行って顔を向けてきたリエルの口を拭う。
「うん、大丈夫。やってもらうのも悪くないね」
「……自分でできたんじゃないか」
「まあまあ、そう言わないで」
騙されてるわけじゃないだろうが良いように使われているんじゃないか。俺の不満を見通したのか子供のような笑顔で言った。
「あんまりお父さんに甘えることがなかったから、こういうのってどんな感じかなって思ったの。ごめんね」
「……なんで俺にするんだ」
「ふふ、断らなそうだから。それに本当にお父さんにしてもらうのは恥ずかしいじゃない」
断らないのは実際そうだ。何も言えずにティッシュを丸めて部屋の隅にあるゴミ箱に投げ込み、皿をキッチンに持ってこうとする。
「どうしてお父さんは季之に大切な話しを聞かせたんだろうね」
リエルの方を向くと本音の読めない笑顔で軽くウインクをされる。一瞬見つめ合ってからはお互い無言で、俺から視線を切った。
クリスさんは置いておくだけで良いと言っていたが、昨日は洗って今日は洗わないというのはおかしく感じる。少し考えてから軽く皿の表面を流す。家主の言う事は素直に聞こう。どうせ間違っても相手が悪いと考えればいい。
桶に水を溜めながらリエルの言葉を反芻する。表に出ればクリスさんも克己さんも法の裁きを受けるであろう重大な秘密を、初対面の高校生に聞かせるのはあまりにも危険だ。俺が愛娘と人生唯一の友人になるから全て話すというのも理解できなくはない。だが遺伝子研究の話など違法な部分は俺に教える必要がなかったはず。
つまり簡単に仮説を立てるなら、俺がここで聞いた話しを表沙汰にできないという確信がある。それか然るべき法的機関に伝えられ、本当に逮捕されてもいいのかのどちらか、あるいは両方。なんにせよ二人は最悪のケースになることを覚悟しているだろう。
そうだと考えるからこそアテにされている身としては厄介だ。正直全てを放棄して帰って寝てしまいたいがリエルの顔が頭に浮かぶ。満杯になった桶から水が音を立てて溢れていた。蛇口の水を止めて窓から雨の様子を見る。止んだように見えて目を凝らすとチラチラと降っている。大きく息を吐いて客間に戻った。
「考え事してた?」
俺が帰って来るのが遅かったからかリエルは聞いてきた。「少しだけ」そう答える。
「そう、ねえもしよければ……」
「外を歩こうか」
ずっと見透かしたようなことを言うからお返ししてやると、リエルはわかりやすく驚いた表情をしてうんうんと頷く。
先が長くないというリエルに同情しているわけじゃない。知りたいことを聞き出すための論理的思考でもない。俺はクリスさんにリエルの友達になってくれと頼まれた。だからもしこんな時に上秋だったらどうするかを考えた。リエルと上秋はまったく似ていないが、友達を相手にするという点で接し方を変えることはないだろう。
いま考え事をして熱が入ると俺は地蔵のように動かなくなって、電気ポットで沸かしたお湯が冷めるより長く集中してしまう。俺の頭の中は考えてもわからないこと、一度頭から追い出しておきたいことで溢れていた。だから一度目を背けてやがて過ぎ去るのを待ってみる。これが簡単な道なら、これだけの苦労は受け入れておこう。




