3話
作務衣には表に意識しないと見えないくらいに薄く雲の柄が描かれ、保温効果があるのだろうか銀色の裏地がつけてある。袖口もすぼんでいて冷気が腕や脚に入らず、なにより動きやすくて着やすい。スリッパを履いて洗面所を出た。
廊下に出てから、クリスさんがどこにいるのか聞いてなかったと思い出した。最初に通された部屋に行ってみようと右手側に歩く。その部屋は五歩も歩けば障子が開けられる程度の距離なのだが、さらにその奥の部屋に明りが点いていて、障子も開けっ放しになっていた。近づくとキーボードを叩く音が聞こえる。中を覗くとクリスさんが丸眼鏡を掛けてノートパソコンに向かっていた。
「……そこに座りなさい。飲み物を持ってこよう、楽にしていい」
急須と湯吞、木で編みこまれた小さなかごに入ったお茶菓子、ノートパソコンが置かれた机の対面に座るとクリスさんが部屋を出ていった。一人周囲を眺める。広さも構造も最初の部屋とまったく変わらないが、あっちが客間のようだったのに対し、この部屋はクリスさんが私的に使う部屋のようだ。部屋の隅に布団が畳まれている。
そんなものより目を引くのは真正面にある仏画だ。克己さんの言う通りであればこれもレプリカだろうが、普段見慣れない宗教的なものがそこにあるというだけで大きさに関わらず存在感がある。俺が部活に入った頃に津原が教えてくれたのが、昔の西洋絵画と仏画は持ち物や着ているものでそれが誰かを示そうとしていたというものだ。
目の前の仏画をその視点で鑑賞すると仏の姿が中央に大きく描かれ、その両脇に小さな脇侍(と呼ぶのを津原が教えてくれた)の姿がある。中尊(中央に描かれた仏)は特徴的な美しい花を持ち、脇侍は小さなウサギを手に乗せている。じっくりと見て、やっぱりどういう役割を持つなんという仏様なのかはわからない。教えられても生活が宗教とは離れすぎてピンとこないだろう。
「待たせたね」クリスさんは炭酸のジュースを机に置いた。「月天が気になるのかい?」
炭酸ジュースのペットボトルとお茶のポッドを持ってどちらがいいかと言わんばかりだったので、せっかく持って来てもらったジュースを頂く。
「月天とは、あの仏画のことですか」
クリスさんは俺の横に座った。背筋をきっちり伸ばして視線は真っ直ぐ仏画に向いている。
「ああ……模造品ながら蒐集を趣味としてきて、この絵は最初に手に入れた物だ。安いしそういう店なら簡単に手に入る品でね。なんら珍しいものではないんだが、これを見つけた時は超自然的なものに信仰を持つ人の気持ちがわかった気がしたよ」
俺はジュースに口を付けながらリエルとの会話を思い出した。たしか第一言語は日本語だと言っていたから、他国の文化より日本や仏教と縁が深いのだろうか。
「俺にはまだわかりませんが、良いものでしょうね」
俺に信仰心を理解することは難しい。単純に神の存在は信じられないし、苦難に当たったときに目に見えないものに頼って解決が疎かになるようなことを避けたい。
「それまでの私は……大げさに言えば無神論者だ。父と母は昔クリスチャンとして育ったが、どちらも親元を離れた時に無宗教となり、私はその影響で特定の宗教に属さないままだ。信じることで救われる経験はないが、裏切られた経験もない」
クリスさんは姿勢を崩さないまま湯吞を持ち、中の茶葉を混ぜるように軽く揺らしてから飲む。癖づいているのかゆっくりと音を鳴らさないで湯吞を机に置いた。いかにも西洋の人という顔つきの御老人がこうも丁寧な居住まいをしていると、きっとブランド品を扱うというその仕事での信用も相応に厚いのだろう。
「宗教の敵は贅沢らしいですから、クリスさんがどこに入信しても苦労するでしょうね」
「はっはっはっ!」今までの丁寧さを吹き飛ばす大声で笑った。「間違いない! 贅沢を売る仕事をしていては後ろめたい。それにこの人生で犯した過ちは、死後に救いを求めるなど恥となる」
クリスさんの横顔を眺めていたが、ふとこちらを見てくれたことでようやく目が合う。「それを聞かせて下さい」
覚悟したように頷き、唇を舐めると話し始めた。
「二十年前に娘を亡くした。私の不注意が招いた事故だった。全て私が悪く、それが原因で妻とも離婚している」
黙って聞いていようと思っていたが口を挟まずにはいられなかった。リエルの顔が浮かぶが、今は思考から振り払う。
「亡くなられているんですか」
痛みと覚悟を合わせた険しい表情でクリスさんは「ああ」と低く返す。
「人造人間の研究の発端は、こうした子供の喪失に耐えられなかった親のエゴからだ。もはや未来を見て行動する心の余裕など誰も持ち合わせていなかった」
自分の子を失ったとき、割り切れる親なんていないだろうと想像はできる。そこに倫理観の問題を指摘するのは部外者の視点ではあるだろう。
「私はインターネットで、子供を亡くし傷心の渦中にある人達に呼びかけて境遇を分かち合うことにしたんだ。グループセラピーと呼ばれる精神療法でね。仕事の休みを合わせるのが難しくて専門家の用意はできなかったが不定期で場を作るくらいはできた。最初は子供の名前を口にするだけで泣き崩れる人も多い。そんな人たちも回数を重ねるごとに絆が生まれ、お互いを支え合うことができた」
俺は子供を失った親の心境を想像することはできなかったが、清潔な部屋で椅子を輪に並べて喪に服す大人たちが語り合う姿を頭に浮かべた。
「克己とあったのもその集まりの中だ。彼も息子を失い、失意の底にあったところで友人にグループセラピーを紹介されたらしい。進行役の私はランダムに……と言っても初めての参加者は三か四番目には必ず指名するのだが、ある程度は私の一存でランダムに選んで子供との思い出を語ってもらっていたんだがね、彼は最初まったく言葉を発せなかった」
諌野家で通されたリビングを思い出す。室内に家族写真がなかった違和感は、克己さんの中で息子に対するなんらかの思いがそうさせていたのだろうか。
「彼は中でも深刻に見えた。舞君がいなければすぐにでも息子の後を追っていたかもしれないな。私は気の毒に思って、その日のディスカッションが終わってから二人きりで話してみた。大勢の中では話せないが、一対一のパーソナルな空間なら胸の内をさらけ出せることもある。実際、そういう人も過去にいた」
「もしかしてとは思いますが、克己さんの奥さんは……」
クリスさんは目を閉じて軽く下を向き、月天に祈るような姿勢になった。スンと鼻を鳴らして空気を取り込み、顔を上げる。
「息子と奥さんは二人で買い物に行って、その帰りの事故だと話してくれた。私とワンツーマンで会話を繰り返し、彼も皆の前で話せるようになった。他の人にそうするように誰もが彼に心から寄り添い、痛みを分かち合おうとした」
俺は視線を落として考えた。なんとなく人造人間を造るに至る動機は見えた。克己さんとここに来るときに車で話した内容ではまったく触れられていなかった過去を知れたが、車内の会話では未来の為の研究のような語り口だった。自分の心を守るために話せなかったのか。
自分の話しに一区切りつけたクリスさんはお茶を飲み、俺の視線を追うと、どうやら机にあるお茶菓子を物欲しそうに見ているように思えたみたいで「食べてもいい」とかごを寄せた。俺がそのつもりはなかったと説明する前にクリスさんは疑問を口にした。
「そういえば夕飯は食べたかい?」
言われてから気づいた。そういえば考えてばかりで食事のことを一切忘れていた。空腹は感じないが、食べられないこともない。
「いいえ、忘れていました」
クリスさんは驚いた顔をしてすぐ顔をしかめた。
「それはいけないな。あまり物で良ければ出せる。キッチンに来なさい」
俺が悩むと強い口調で「食べなさい」と続けられたので共に立ち上がってキッチンに向かった。玄関から正面突き当りを左に行くとこの部屋だが、キッチンはそこを右手に向かったところだった。
他の部屋は畳だがキッチンはIHコンロを備えた現代的な設備の木目のフローリングで、最近多いリビングと一体化した構造ではなく、キッチンが単体の部屋として仕切られている。入ってきた扉ともう一つ引き戸が見えるが、きっとその先が居間なのだろう。
キッチンには隅に机とニ脚のイスが置いてあり、机の上にはピンクと白のチェック柄の布が被せられてなにかある。クリスさんがその布を取ると食品用ラップで包まれたおかずの皿が現れた。
「今日はリエルのことで食事が喉を通らなかった。代わりに食べてくれないか」
クリスさんは棚からお茶碗を取り出して炊飯器からご飯をよそう、俺はイスに座ってラップを外していった。おかずを一つ一つ確認してみると、きゅうりの漬物に胡麻豆腐など、仏画を見たあとでは精進料理にしか思えない。
「健康的ですね」
率直な感想を口にして、意図を話してくれるのを待った。クリスさんはご飯と味噌汁を机の上に置いてくれて、隣のイスに腰掛けた。
「ベジタリアンでね。こうすると精進料理に見える。食べられるかい?」
「はい、頂きます」好き嫌いもアレルギーもない。「食べる間は喋りませんが、続きがあれば聞かせてもらえますか。克己さんが参加してからどうして人造人間の研究が始まったのか」
クリスさんは気を遣ってか俺の食事している姿をジロジロ見ないように視線を逸らしていた。あまり気にしないで食べれるが、わざわざ言う必要もないだろう。
「克己には誰もが同情していた。誰もが彼の理解者になろうとした。だからこそ、踏み込んではいけないところに踏み込んでいた」
つい口を挟んで問いそうになるが話してくれるはずと煮物に箸を向ける。掴んだものがなんという材料かわからないが、噛むと苦みが口に広がる。味噌汁で流し込んで味を変えた。
「彼はある遺伝子研究所の職員だった。その彼が極秘に始めようとしている研究について私に相談を持ち掛けた。人工遺伝子を用いた再生治療に偽装して人造人間を造ろうとしている。その為のパトロン……資金を提供してくれないかと」
パトロンの意味はわかるがクリスさんは高校生相手と意識して言葉を選んでくれている。煮物の皿を空にして一度箸を置いた。
「結果は現実に出ていますが、本当に偽装ができたんですか」
クリスさんはおかずを眺めながら小刻みに頭を縦に振る。自意識過剰でなければ俺の言葉に頷いているよりは、綺麗に食べてるなと感心しているように見えた。
「説明するまでもないだろうが、人工的に人を造るのは法律で禁止されている。研究機関及び研究者は法律やルールを順守して、倫理審査委員会と文部科学省に必要な手続きをする必要がある。認可が通った後も進捗を確認するために報告書を提出する。この辺りを詳しく知りたければ克己に聞くといい……勉強になるだろう。とにかく違反すれば法で裁かれるわけだ」
内部事情は興味ないので聞くことはないだろう。法についても詳しくないが想像通りではある。
「偽装は不可能だと思ったが克己には算段があるようだった。偽装とは言うものの表向きの実験は行い、その裏で人造人間を造る。各方面がする確認作業は書類上の形式的なもので、誰も研究室に土足で上がって顕微鏡を覗き込んだりしないから不可能ではないとね」
白米を食べ終えて机に置くと、なんとなくタイミングを計っていたのだろうか。「おかわりは?」聞かれたので簡単な手ぶりで断る。食べ始めてもそれほどお腹が空いていなかった。
「克己からすれば事を起こす準備は整っていた。そして、それを現実にするだけの状況も。だから金とコネクションがある私を選んだのだろう。結果的にその人選は間違いではなかった」
最後に味噌汁を茶碗を持つと視界の端でクリスさんがこちらを見ているのに気づき、ふと向くと瞳を潤ませた笑みと目が合った。
「私は……最後の最後まで、自分を誤魔化すことはできなかった」
目頭を指で拭いながらまた前を向いてしまった。俺は味噌汁を飲みながらその機微を見落とさない視線を送り、言葉の意味を思考しながら空にした茶碗を置いた。




