4話
八月二十日 火曜日
目を覚ますと同時に息苦しい暑さを感じた。目を開ければ視界がぼやけるから目をこすって眠気を覚ます。朝の六時、僕にとってはいつも通りの時間だ。寝汗でべたつく体を起こして部屋から出るために扉の前まで歩く。
ドアノブに手を掛ける。そしていつもここで時間をかけてしまう。自分だけの空間から出る恐怖……怖気が母の形を成して向こう側に待ち受けている錯覚に陥る。扉の先は廊下なのに、母は一階にいてまだ起きないから顔を合わせずにいられるのに、ノブは重く、掴む手に異常に力が入る。恐る恐る開いて……見えるのはやはり、ただの廊下だった。大きく息を吐いて階下の気配を探りながら階段を下りた。
キッチンに入り、冷食のハンバーグを取り出す。幼い頃から食事は冷食だ。健康的ではないだろうが、とはいえ食べないよりはマシだろう。冷蔵庫の駆動音しか聞こえない空間に別の音が混じった。全身に緊張が走る。隣の居間で寝ていた母がテレビを点けてニュースを見ているだけだ。僕がここにいることを知っててわざわざこっちには来ないはず。
女性アナウンサーの声が明るい声で「おはようございます」と挨拶した。ハンバーグを食べながらニュースの内容をイメージする。天才的な小学生がネットで話題だとか、県知事の汚職が明らかになったとか、知らないアイドルと俳優の熱愛発覚だとか、ためになる情報は一つもない。こっちの部屋に来るなとアピールするように音を立てて食器洗いをして、それが済むと足早にキッチンから立ち去る。
自室の扉を閉めるとため息が漏れた。いつものことだけど、自分の家にいるという安心感がない。部屋から出た自分は息を潜めて、可能なかぎり刺激しないように事を済ませ、母と鉢合わせしないよう祈りながら移動する。母とは、もはや呼び名だけの存在になっていた。
心を落ち着かせてから制服に着替える。鞄の中身も確認して、鬼門再びだ。二度目は家を出るのみだからまだノブも軽い。速く、静かに階段を下りる。小さく聞こえるテレビの笑い声を憎らしく思いながら外に出た。暑かろうと湿度が高かろうとこの瞬間は空気がおいしく感じている。
家より学校がいいという学生もそうそういないだろう。事情を知らないクラスメイトには奇異な目で見られる。友達は多くはないが、学校生活は問題なく送れている。中学時代は引きこもりだったが、そこからの脱却は自分にとって大きなメリットのある判断だった。きっかけを与えてくれた中林、高名、いちおう砂波にも感謝がある。
頭の良い学校に行けた事が要因か、人の過去をいちいち詮索する人間もいない。話したくない様子を見せると向こうから引き下がってくれる。だから家とはまったく別の世界として楽しめていた。そうなれば帰宅がこの上ない絶望となるのも必然だった。
いったいどうして普通の家族として過ごせないんだろうって思うと、やっぱり自分が普通の人間じゃなくて、そういう意味では母の子供でもないんだろう。自分も高校二年生になって将来を考えなくてはいけないのに、それどころじゃない状況だと悲観せざるを得なかった。今日まで一生変わらない問題を抱えながらどうして来年の話しができるというんだ。
早朝のまだ涼しい空気を吸いながら学校に向かう。今日の午前中は草むしりをして、お昼ご飯は藤橋先生が自腹でお弁当を買ってくれるらしい。それなら高名が参加するのも納得で、あいつは年の近い仲間には遠慮するが、相手が先生となるとなかなか現金なところがある。
学校に着くと一度コンピューター室に集合する。まだ時間が早いので先に職員室に行っておく。
「失礼します。コンピューターアート部の津原です。藤橋先生はいますか」
三人くらいしかいない部屋に声が響く。中を見渡すと入口に近いデスクに藤橋先生がいた。僕の顔を見てすぐ立ち上がり、鍵棚から一つ取り出して来る。
「おはよう。一番乗りだよ」
コンピューター室の鍵を受け取る。前日の事を思うと真っ直ぐに先生の顔を見れない。
「お、おはようございます……では失礼しました」
先生がなにか言う前に鍵を受け取って職員室を出る。まだ自分の中で整理しきれていないこともある……ということにして、家の事情を相談するかという決定は先延ばしにしていた。悩むくらいならとりあえず言ってしまえばいい……そんな考えを短絡的に実行できる心の強さが僕にはなかったみたいだ。
コンピューター室の前に着くと高名が廊下に座り込んでスマホを弄っていた。高名が早くに来ていることにも驚くが、本当に来たのかという感想が大きい。
「津原、鍵開いてねぇぞ……ああ、貰って来たのか」
鍵を開けてやるとすぐにスマホをポケットに入れて立ち上がる。立ち姿でわかったが、だらしなくシャツのボタンを開けてズボンから出し、校則違反の赤いインナーを着ている。叱るつもりはないが、忠告くらいはしておいた。
「今日はいちおう先生いるんだから、後で着直した方がいいぞ」
「うるせえな。休みにわざわざ来てんだから、少しくらい良いだろ」
呆れた不良少年だ。まあこの程度の口の悪さはいつも通りで、矯正しようものなら強い精神的ショックでも必要だろう。
「僕はいいさ。でも、そこまでしてるのに髪染めたりピアス開けたりしないんだな」
室内に入って換気しようと窓に近づいだが、高名は脇目も振らずに冷房のスイッチに向かった。まったくどこでそれを知ったのか、これで窓を開けても面倒な言い合いになりそうなので換気は諦める。
「髪は染めてぇけど今はいい。まあ、気が変わったらな」
スイッチを入れた後、高名は適当なイスに座った。すぐにスマホを触ってリラックスする。
「ピアスも興味はあるけど、アクセサリーとか邪魔じゃねって思って着ける気がしねえな」
その気になったら両方やりそうだな。教師に怒られるとか気にしてない神経の図太さは見習いたいくらいだ。
「つうかさ、お前来るの早すぎだろ。何時間か廊下で待たされると思ってた」
「僕はいつも早いんだよ。それより、高名が早いのが意外だな。砂波は一緒じゃないんだろ?」
家から一秒でも早く出たいから早起きして登校しているのは友達にも伝えていないことだ。だがそんなことより高名は遅刻の常習犯だと僕のクラスでも有名で、さらにニコイチのイメージが強い砂波が一緒じゃないのも合わせて気になる。
「砂波はロボットみてぇに同じ時間に起きてんだ。隣で爆竹鳴らしても起きねえだろうよ」
高名の冗談にくすっと笑うと、彼は大きなため息をつきながら、スマホを持つ左手をひらひら振った。
「……はぁ、今日は早朝から一春が連絡してきたから早起きなんだよ。朝っぱらから会いましょうってさ。それで自習室まで行って会ってきたよ、何考えてんだか」
悪態をついてはいるが顔はにやけている。なんだかんだ連絡貰って嬉しいようだ。これは僕の勘だが、高名は一春のことが好きなんだろう。
「ご機嫌に見えるけど、告白でもされたのか?」
冗談で言うと「バカ言うなよっ!」とわかりやすい焦りを見せた。
「受験勉強してる先輩の応援しただけだ。変に勘ぐるなよ!」
夏休み期間に追い込めないと今後の人生が終わるかのように脅された三年生たちは、学習室や会議室に集まって黙々と問題集に向き合っている。園継先輩みたいに部活に出ている人もいるけど。
「一春が誰かと特別仲良いなんて聞かないからさ。高名はけっこう好かれてるんじゃないか」
中学生の時から一春は敬虔な修道女の如く沢山の悩みを共有されてきた。その応対は付かず離れずといったところで、無関心に見えないから多くを話し、踏み込み過ぎないから安心できると評判だったらしい。しかし奇妙な点を挙げれば、誰もが友達であるのに親友だと呼ぶ人がいないのだ。プライベートで遊んでいる話は(僕に話す理由もないのだが)まったく聞かないし、その交友には男女分け隔てがない。噂には男女関係なく告白もされているらしいが、まったく相手にされないと有名だ。だから一春から連絡が来るという事態は、彼女に恋心を抱いている多くの人たちにとって垂涎もののはずだ。
「どうかな。オレらが知らねえだけで、一春にも特別仲が良い相手ぐらいいるだろ」
「園継先輩ぐらいしか……でも、仲良いのかな」
「知らねぇよ。よく一緒にいるんだから良いんじゃねえの」
興味がなさそうな一本調子の声音で会話が打ち切られた。すると椅子をいくつか集めて真っ直ぐに並べ始めた。なにをするつもりなのか黙って見ていると、並べた椅子の上に寝そべって首をかしげている。
「寝づらいなこれ。車輪動くし……まあいいや。誰か来たら起こしてくれ」
横になるとすぐに寝息を立て始めた。きっと慣れない時間に起こされて眠くて仕方なかったんだろう。三十分ほどパソコンで作業していると続々と人が集まり、園継先輩と藤橋先生以外は揃った。
「あっきーは器用に寝てるね。椅子引っこ抜いてみない?」
「怒られるぞ……」
僕の言葉を無視して中林はお尻を支えている椅子を引き抜いた。そしたら高名の体がくの字に曲がって落ちるのは明白で、可哀想にも情けない声と共にお尻を強打してしまう。
「ああクソっ! どうせ中林だろ!」
「ははっ、ばれてるー!」
小学校みたいな騒がしさが始まった。二人のことは無視して、一人離れた位置に座って騒動を眺めている砂波の横に行く。そして一年以上ぶりの会話を試みた。
「久しぶりだな、砂波。こんな面倒事は断ると思ってたよ」
「そうしようと思ったが、一春から言われてる」
僕と顔も合わせず素っ気なく言う。それに若干の不満はあるけども、砂波がなかなか続きを話さないことに少しの苛立ちを覚えて、続きを聞いた。
「何を言われたんだ?」
これでようやく砂波が僕を一瞥して、また視線を中林か高名の方に向けてゆっくりと話した。
「簡単な道を進む代わりに、その道の苦労は受け入れなさい。大丈夫、やがて過ぎ去るから」
説明する気はないのか、前後の会話もなくそれだけ言われた。
「またずいぶん抽象的だな。どういう意味なんだ?」
「言葉のままだろ」
「その言葉の……はぁ、もういい」
砂波が言われたことを聞き出したって僕にとっては取り越し苦労だろう。自分のパソコンで作業を続けようかと考えたとき、表情の一切を変えずに砂波がポツリと呟いた。
「遺言みたいに聞こえたんだ」
遺言なんて言い方は先入観か偏見か、受け入れ難いものがある。僕は砂波の顔をジッと見つめて真意を探ろうとしたが、いくら見ても変化のない仮面のような顔だった。
「……縁起でもないな。一春が死ぬっていうのか?」
砂波は自分がなにを言っているのか自覚がないわけもないだろう。僕はこいつの聞いてるのにちゃんと話してくれなかったり人の気持ちを考えずに発言する性格が大の苦手だが、砂波をバカだと思ったことはない。じゃあなにか砂波の中で引っかかるものがあったはずだ。
「そう聞こえただけだ。本気で言うつもりはない」
僕への気遣いのつもりか、そんな人間らしさがあるとは少しも信じられないが。高名が中林の頭に優しいゲンコツをして騒ぎが終わったらしいのを見ながら、一春が高名を呼び出していたのもその遺言めいた言葉と関係があるんじゃないかと考えていた。確信はないけど、点と点は線にしたくなるものだ。話を聞いてるだけで一春が二人に会いたかったかのように思えて、もしかしたら高名を呼び出したのもそういう意図なのかとか、そういえば僕は会ってないなとか思い出したので考えるのをやめた。
「あ、ふゆっちとさなみんが話してる! 仲直りしたの?」
「大丈夫だ」
二つ返事で砂波が絶妙に嚙み合ってない返事をした。そしてタイミング良く園継先輩と藤橋先生がやって来て、先輩は手袋とゴミ袋を、先生がスポーツドリンクの段ボールを抱えていたから、これで先輩は遅かったのかと納得した。
「おはよう、皆さん。飲み物は一人一本ね。園継さんはそれ配ってくれる?」
「はい、仰せのままに」
「いや、そこまでの強権は振るってないけど……」
園継先輩が手袋と飲み物を中林と高名に渡しながら、そこの三人の談笑が始まった。
「長くなりそうだな。取りに行こうか」
「俺の分も持って来てくれ」
舐めた口を利いた砂波の腕を引っ張って立たせる。すんなり立ってくれたので労せず済んだけど「そういうところが人を怒らせてるんだぞ」と釘を刺しておいた。
「まだ怒ってるのか」
「まあ、苛つくけど。もう過ぎた事だ」
本当に頭にきたりはするけど、過去の怒りを持ち出すつもりはない。というか自ら進んで怒りたい人なんていないだろう。園継先輩の方まで腕を引っ張っていくと、砂波は「ああ……」と声を出した。
「やがて過ぎ去る。そういうものか」
さっきの一春の言葉を納得したようだった。
「大昔の王様の寓話に出てくる言葉だな。一春はかなり気に入って使っているよ。ほら、お前たちの分だ」
先輩から渡された道具を受け取り、ズボンのポケットに押し込む。
「ありがとうございます。……詳しいんですね、そんなのどこで知るんですか?」
寓話なんて今時、教科書に載らなきゃ読む機会なんてないと思うけど、一春といい園継先輩といい特殊な知識が多い人たちだ。
「私と一春は昔から一緒に図書館で本を読む仲だったんだ。なにか遊びをするわけでもなくな、可笑しなものだろ」
可笑しいとは思わないが先輩がクスっと笑うから同じように笑顔にする。やっぱりこう聞くと一春と園継先輩は親友なんだろう。似た者同士って感じだ。
「はいはい、じゃあそろそろ外に移動するよ。皆、水分補給はこまめにね」
藤橋先生の言葉を合図に動きだす。この快適な空間から灼熱地獄の草むしりだ、暑さ寒さを感じてなさそうな砂波以外は怠そうにのろまな足取りをしている。こいつは僕なんかよりよっぽど……そう思うと胃にふつふつと不快感が沸き上がる。わかってる、砂波にじゃない。こうやって比較しないと自分を定義できない自分に対してだ。先生は感じることが自分と言えると言っていたが、すぐに思考に落とし込めるものではなかった。




