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3話

 六時過ぎてからの駅はちょうど帰宅ラッシュのタイミングだ。西口から出てくる大勢の人波は、大風の日の雨樋(あまどい)から吐き出される水流のように止めどない。そこへわざわざ逆流するのは愚の骨頂なので、駅の二階に直接入れる外階段を使った。ここは西口の近くだが都合上北口と呼ばれる出入口で、駅と駅中の商業施設に直接入れるというたまに便利な通路だ。


 二階の駅中は幸い人が少ないので安心して歩ける。たまに歩き回っている教師と会わないように祈りながら商業施設の方へ入った。目的の本屋まで真っ直ぐ歩く道中、人の話し声や客寄せの大声をずっと聞いていると、寒いくらいの冷房が効いていてもなんだか暑く感じてくる。


 さて目的の本屋に着く。ここは旅のお供に買っていくだけの小さなお店ではなく、このフロアのほとんどを本と雑貨類を販売する一つのお店が占拠している。目的の本がどこの本棚にあるか探せて在庫状況までわかる便利な検索機が設置されているほどの物量と広さだ。僕も早速その機械のお世話になった。


「えっと……形而上って、この字だっけ……?」


 うろ覚えで検索するとタイトルに形而上学と書かれた本が数冊ヒットする。需要が少ないのか広いお店の隅にある哲学の棚にあると出た。文句を言っても本棚は歩いてくれないので軽く物色しながら向かって行く。


 店内にはまばらに人がいるものの、角に近づくにつれてめっきりいなくなってしまった。棚は専門的な学術書ばかりになり、普段の僕であればまるで興味を惹かれない分野の本が周りを囲む。ここに人がいないのも、僕と同じような理由なんだろう。難しいタイトルの中に探してる本を見つける。大昔の哲学者の名前は授業で習ったが、その程度の知識では背表紙のあらすじすら解読できない。


「参ったな……」


 つい言葉が漏れる。帯には入門に最適とか書いてあるのに、最初の数ページでもう聞いたことのない単語がつらつら並んでいる。米印や丸括弧の注釈が多くて全然頭に入らない。これは自分が読書から離れた影響だろうか。


「それ、難しいでしょ。事前知識はいくらかあった方がいいかもね」


 突然の声に驚いて振り返ると、私服の藤橋先生がいた。シンプルかつカジュアルなワイシャツ姿で学校とのギャップがない。


「あ……仕事じゃあ……ないですよね?」


「先生はプライベートも先生なんだよね。それに生徒は学校が休みでも生徒なんだよ。……さて、ここで注意するのも三回目かな。でも他の先生も声掛けてるって聞くし、実際はもっとでしょ?」


 先生は怒りとか強引さを感じない手つきで肩を叩いた。前は強めに外まで連れ出されたが、アプローチを変えたみたいだ。


「先生っていうのは真面目ですね」


 僕はただ放っておいてほしくて藤橋先生が相手でも悪態を吐いてしまった。また連れ帰されると思うと素直に言う事を聞けなくて、肩に置かれた手を掴んで離させる。先生の顔を直視できなくて目を伏せ、どうにか逃げようかと考えを巡らせる。


「先生は思春期に一番目に触れる大人だからね。性格が真面目っていうより、ちゃんと大人をしないといけないんだよ。だから一人の大人として、津原君が心配なんだ」


 真っ直ぐな視線はあまりに淀みがなく僕に向けられ、突き刺さる痛みを感じさせる。長居したくなくて、まだ持っていた本を棚に戻す。


「買わないの?」


「よくわからないし……お金ないんで」


「そう。もう帰る?」


 頷いて先生を置いていくように早足でエスカレーターに向かう。


「あっ、ちょっと! 待って待って。置いてかないでよ」


 言葉を置き去りにしたくて足が動いた。すれ違う人が驚いて身を引くほどに速く、エスカレーターに乗るとその鈍行がもどかしく感じる。


「走ったら危ないよ。そりゃあ先生と一緒に居たくないかもしれないけどさ」


 僕に追いつく為にエスカレーターを歩きながら先生は付いて来ていた。エスカレーターで歩くのはためらわれたので立ち止まって待った。


「嫌かもしれないけど家まで送らせてもらうからね」


「わかってますよ」


 先生に見つかる度に連行されているから、慣れというか諦めはついている。他の先生はブツブツ文句を言って、学校だったら大声で怒鳴ってるとか脅迫みたいな言葉までかけられてきたが藤橋先生は違った。


「あ、そこの自販機で飲み物買おうか。何がいい?」


「……いいですよ」


「高校生が遠慮しないの」


 怖くないというか、やたら優しい。悪い事をしてるのはこっちなのに気を遣ってくるし、何気ない世間話をしてきたりと逆に怖い。


「飲み物なら下の階のデパートの方が安いですよ」


 スマホでお茶を買う後ろ姿に言っておく。僕にとって自販機の飲み物は高級品に思えた。


「主婦みたいだね。百円も違わないんだからいいじゃない」


 片手にスポーツドリンクを持って僕に渡す。「ありがとうございます」お礼はちゃんと言って一口飲んだ。


「今日はなにで来たの?」


「歩きです」


「そっか。じゃあ少し遠回りして帰ろうか」


「えっ」と声が出る前に今度は先生が先導した。何を考えているのか皆目見当がつかない。疑問を解消しないまま北口から駅を出た。月も星も見えない空の下、足元だけをわずかに照らされた暗い外階段を下る。つい一時間前の人混みが嘘のように()けていた。


「津原君はさ、帰りたくないのかな? 家族と一緒に居たくないの?」


 駅から離れていく。歩くほど家に近づいてしまうのに、先生の言葉はその事実から僕を逃がさずに向き合わせた。


「……」


 答えられない。唇が渇いて鳩尾(みぞおち)が重くなる。無意識にどんどん背が曲がって、胃の不快感に顔を歪めた。何も言えない、でも言えないことが先生にとっては回答になっていた。


「話せないこともあると思うよ。もちろん黙っててもいい。けど、もし家族以外の大人に聞かせてやってもいいかって思えたらさ、先生を都合良い大人として使ってみない? いつも頼りなく見えるかもしれないけど、意外と便利に働くよ」


 駅前の大通りから最短距離になる細道を曲がらず、先生は真っ直ぐ歩く。僕はその横を歩いて、話すか話さないかではなく、まずなんと言って誤魔化そうかと考えていた。家族の事を聞かれる度にそれが癖づいていたからだ。


「……母親は……家にいる他人みたいなものです」


 何分もの沈黙の後、ようやく絞り出せた言葉だった。たったそれだけの言葉なのに、全ての言いたい事が息と共に出て行ってしまったようでもあった。いろんな文句があるはずなのに、もう精魂尽き果てかけていた。余裕のある表情を維持しようとすると目の下の筋肉が痙攣する。息もうまく吸えなくて苦しくなってきた。一度呼吸が乱れるとそれに引っ張られそうになって、意識して息を大きく吐く。


「津原君!? どこか悪いの?」


 先生を手で制止させて深呼吸をする。少し落ち着いて、不安が表情に出ている先生に「大丈夫です」と伝える。


「すみません。慣れて……なくて。ちゃんとお話しするのは時間がかかります……」


 先生も困るだろう。自分で遠回りしようって言ったのにこうなって、家に帰そうにもその家に原因があるかもしれないのだから。


「うん、うん、いいよ。学校には先生がいるし、スクールカウンセラーもいる。もしカウンセリングを受けたいと思ったら先生に言ってくれれば後のことはやるから、好きな方を津原君が選んでいいからね」


 一言一言を優しい声音で伝えてくれる。それを聞いているとどんどん意識が自分から離れるようで、まるで僕に向けられた言葉とは思えていなかった。夏の夜なのに体が冷え込むような感覚がある。僕から目を離さないままの先生に向けて喉を開いた。下顎が震えて上手く声を出せなくて変な息の漏れる音が混じる。それでも言葉にしたかった。


「僕は……いや、僕が人じゃなかったら……。人の皮を被った機械だったら、それでも……相談する意味がありますか?」


 僕はすんでのところで自分がただの人間ではないことを伝えなかった。この質問が思春期の妄想癖だと笑われてもいいから、それでもなんて言ってもらえるのかを聞きたい。その一心だった。


「形而上学の延長かな。存在論とか心身二元論(しんしんにげんろん)とか……若い子に言うなら哲学的ゾンビ? やっぱりなんでもない。忘れて」


 存在論とは形而上学の本の目次に書いてあった気がするが流石に理解は追い付いていない。その名称からなんとなく予想はできそうだけど。


「津原君が自分をどう考えていても、自分を人だと思えなくても、自我だけが自分だよ。我思う故に我ありってね。本当の自分が何か疑うときは、そうやって疑う感情そのものが自分だと気付いてあげるんだ」


「すると……どうなるんです……か?」


「感じる、ということだけは確かなのさ。苦しいときも楽しいときも、仮に心に矛盾を抱えてもそれを感じるということだけはね。もし心当たりがあったら相談してみていいんじゃないかな。沢山考えて疲れたね、少し休もうかって……そしたら、機械みたいな自分の心とも対話できるかもね」


 俯いて目元を拭う。さらに声を漏らしながら深呼吸を繰り返す。体の震えは止まって楽になれた。先生の言う事を全て理解できてるとは思えないし、すぐに実践できないかもしれない。だから何度か話は聞いてみても良いかと、それだけ思った。そんなに言うならちゃんと便利に使ってやろうと。


 顔を上げると先生はアーケード街の明りを眺めていた。商店街の看板を掲げたアーチには派手な色のネオンが星の代役を買って出たようにギラギラして、先生の真っ白なワイシャツを極彩色(ごくさいしき)に染め上げた。もうこんなところまで歩いていたのか。そんな風に考えると先生と目が合う。


「もう大丈夫? 帰れそうかな」


 もちろん帰りたくはなかった。外を歩き回って夜を明かしたいくらいでもある。でもそれは現実的じゃないし、これ以上先生を付き合わせたくもない。


「大丈夫です……たぶん」


 先生と一緒に来た道を戻り、ここから真っ直ぐ帰ることになる。どうせ家に帰ったら解決しているわけでもない。自分が何もしなくても誰かが勝手に問題を解決して、禍根(かこん)も残らず平和に過ごせるならいいけど、わかってる。そんなことはありえない。できることはきっと解決ではない、先生が教えてくれたのはまずは自分と向き合う方法なんだろうな。

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