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4話

十二月八日 日曜日


 セミの鳴き声が部屋に響いた。気温も十二月と思えないほど暑く、なぜだかお盆の時期ぐらいジメジメしている。自室の小さなテーブルの前にあぐらをかいて座っているだけだが背後に何者かの気配を感じていた。


 見てはいけないと思っても好奇心や怖いもの見たさで覗いてしまうことはあるだろう。だけどこれは正反対に怖さもなく好奇心も湧かず、見てはいけない何かがあるという直感で見ることが出来ない。思い出したくないことがあるときに意識してそれを拒絶するような感覚に近い。つまり、オレの背後には意識的に無視したい何かがいるという事だ。そして、それが何かを思い出せないのに知っている。思い出したくないことを知っているのか?


 そしたらきっと後ろにいるのは夢の女で、きっとまたこのことを忘れてしまうんだろう。じゃあこれは夢なのか。この感覚も、聞こえているセミの声も、手の中の汗も目を覚ますと無くなるだろうか。


 背後の女は視線と存在感だけを与えて無言のままオレを金縛りの状態にさせていた。誰なんだと問いかけたい。答えてくれれば楽になれるのに言葉が出ない。震えてうまく開かない口から息だけが吐き出される。震えが口から全身までわたり、自然と体中に力が入る。


 目を強くつぶり、もう限界だと勢いよく立ち上がった。膝にぶつかってテーブルが倒れ、ガシャンと大きな音が頭に響く。ゆっくり全身の力が抜けて目を開く。


 寒い。セミの声もしないし、気配も無くなっている。異常なほどの手汗と倒れたテーブルが夢ではないと伝えてくる。とても疲れてその場に倒れ込むと、すぐに意識が遠くなる。


 外がうるさくて目が覚めた。さっきからずっと玄関前を行き来している音が響いて頭痛もする。体を起こすと窓の外は真っ暗で、自分が何時間も寝ていた事実を物語っていた。


 思わずため息を吐く。疲れと貴重な日曜日が無駄になった悲しさからだ。高校生にとって日曜日ほど遊びたい日もないというのに、それをまるっと寝てしまったなんて自分を呪いたいくらいだ。


 スマホの画面には午後七時と表示されている。体を動かしていないから腹は減ってないし、しかしこのままだと夜中に空腹がやってくる。ひとつ思いついて着替えを始めた。暖かな恰好に着替えてから外に出て、砂波の部屋をノックした。


 しばらく静寂が続いて寝てるのかという疑問が浮かんだときに鍵が開けられた。扉が開くと砂波はいつもより気のない顔でオレを見て、安心したように息を吐いた。


「なにか用か」


 短い髪は少し乱れ、いつも着ている余所行きのシンプルな服でいる。今日はどこかへ行っていたのだろう。


「冷たいなぁ。ちょっと歩こうぜ」


「……一人で行ってこい」


 扉を閉められそうになり、慌てて体を挟み込む。


「痛いっ! おい、加減しろ!」


「知るか。休ませろ」


 まったく悪気のない無表情で力を緩めない。オレが潰れるまで続けるつもりか。


「付き合ってくれって! 話しがあるんだよ!」


 無言で扉から手を放してくれてようやく解放される。服の裾を伸ばして乱れを直し、この無慈悲な友人に向き合う。


「腹減ってないから歩いて消費したいのさ。いいだろ?」


 嫌がってる砂波にさらに懇願して外に連れ出す。のろい動きで歩く後ろ姿を押していく。


「こんな時間だ。警察に見つかったら補導されるぞ」


 高校生が夜に歩いてるのを警察に見つかれば注意ぐらいされる可能性はある。そうなると面倒だけど。


「まあ……別にいいだろ。謝って帰ればいいし」


 幸いというべきか、オレや砂波は実年齢より上に見られることが多い。酒や煙草をやるつもりはないから、多少の年齢詐称は大目にみてもらいたい。





 駅前の通りを行き交う車の走行音が遠く聞こえる。目的地は決めてないけど、とりあえず大通りへ向かって歩く。


「最近思い出せないことが多くてさ。勉強以外の記憶力には自信あるんだけどな」


「興味がないだけだろ」


「……冷たいこと言うなよ。そりゃあそうかもしれないけどさ」


 駅前の大通りに出た。車は多いが歩行者はほとんどいない。足元を照らしてくれる街灯も、自分たち以外に人がいない歩道ではかえって寂しく見えた。駅とは反対方向に、商店街の方へ足を向ける。斜め前を歩く砂波はすぐ脇のショーウィンドウに目もくれず、こちらを振り返ることもなくまっすぐ歩いている。


「大切だった気がするんだ。覚えてなくてもそんな気がして」


 聞こえているのかいないのか、砂波は何も言わない。真面目な相談のつもりはないから、気を遣って言葉を選んでくれるよりはずっと楽だった。それにしても砂波はいつもより口数が少ない気がする。ちょっと外に連れ出したって怒るような男ではないから不安でいると、砂波が歩く速度を落として横に並んだ。


「前にも言ってたな、人を忘れてる気がするって。まだ思い出せなかったのか」


 オレは唸るように「うん……」と呟いた。何度かこの話に砂波を付き合わせて、その度になあなあで終わってる。砂波にはしつこいと感じさせてしまいそうだ。


「忘れたことは覚えてるのか。忘れるっていうのは全部思い出せないものじゃないんだな」


 記憶がないとそもそも忘れたことすら忘れているというのが理屈に合いそうだ。しかしオレのは何かを思い出せないという感覚だけがある。


「思うことはあるさ。本当は忘れてるんじゃなくて思い出したくないんじゃないかって。記憶に蓋をしてるだけでさ、本当は全部……」


 よくドキュメンタリーなんかで見るやつだ。強い精神的ショックを受けた時に、自分を守るためとかでその記憶を封じること。正直フィクションにしか起こらないと思っていたけど、意外に自覚があるものなのかな。


「そういうことならまだその人のことを忘れてないんだろう。それだけじゃダメなのか」


 仮に思い出の人ならそれでもいいのかもしれない。実際に思い出した後に、なんでこんなに悩んでいたんだという気持ちになったっておかしくない。それでも、どうしても割り切れるものじゃなかった。


「自分が納得したいだけだよ。オレはめんどくさい男なんだ」


 歩き続けて商店街まで来ていた。自然に中へと進んで「どこかで食おうぜ」と提案した。


 夜になるとさすがに居酒屋が目立つ。歩いている人なんてまったく見かけなかったのに、中はかなり盛況なようだ。


「そこのそば屋でいいだろ」


 砂波の示す先にはチェーン店のそば屋があった。ちょっと高いが今の腹の気分に合っている。中に入ってメニュー表を眺めると、そばの他に丼や揚げ物もあって目移りする。オレが悩んでいる間に砂波はさっさと食券を買っていってしまった。ちょっと焦ってかつ丼と唐揚げのセットにする。


 砂波の横の席に座り店員さんに食券を渡す。足を伸ばしながらリラックスして待つとすぐにそばが運ばれてくる。砂波の方は並みのかけそば単品と、実にらしい。静かに食べ進め、先に箸を置いた砂波の方に小銭を置いた。


「昨日のやつ。スーパーに行ったら園継先輩と会って、奢ってくれたから返すよ」


 砂波は金額を確かめもせずに財布に入れた。


「先輩か。昨日今日と忙しいな」


「なんだ。砂波も会ってたのか? あっちこっち行ってたんだな、あの人」


「そうだな……」


 オレも食べ終わって二人でトレーを返却口に持っていって店を出る。商店街には酔っ払いの往来が増えていた。明日は仕事だろうに酒を呑む人は呑むようで、みんなして顔を赤くしている。美味いものでも食ってるんだろうとか考えると、昨日の中林とのやり取りを思い出した。


「そうだ、中林が手作りの夕飯を食べてほしいって言ってたよ。せっかく作っても自分しか食わないんじゃ寂しいんだろうな」


「そういうことか。言ってくれればいいのに」


 言っても聞かなそうだから言わなかったんじゃないかと予想しているが、本人からすれば知らない話だろうな。釈迦に説法とか豚に真珠とか、意味がない事だけは確かだ。


 通りのおっさんやお巡りさんは俺らの顔ををチラッと見てすれ違っていく。存在を確認して無視するように。それがまるで自分の思い出せない記憶と同じようだ。わかってて無視していた過去、見えていてそれを知覚しないようにしていた記憶。深呼吸して砂波に話しかけようとすると、もう遠く背中が小さく見えていた。


「砂波! 置いていくなよ!」


 走って背中を小突いてやった。どれだけ思い出せない過去があっても、それが自分を苦しませても、こうして楽しい時間があるならそれだけでいい気はした。そうやって先延ばせば、いつかはちょうどいいところに収まるという期待をしていただけだった。

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