第三章 歴史は何を語る
翌朝、王宮の会議室には昨日と同じ面々が顔をそろえていた。
違っていたのは、机の上に積まれた本の数だけである。
王室歴史官マティアスの前には、革装丁の年代記が二十冊以上積み上げられていた。その高さは本人の顔が半分隠れるほどで、書記官リオは「歴史とは重いものなのですね」と感心したが、ベルナールは「嫌な予感しかしない」と小さくつぶやいた。
王アルベルト三世は開口一番に言った。
「今日は前例だけを聞く。昨日のように問題を増やしてはならぬ」
「承知いたしました。」
マティアスは嬉しそうに立ち上がる。
「前例がございます。」
「あるのか……」
王は早くも疲れた表情になった。
「まず三百二十七年前、第八王朝時代――」
マティアスは一冊目を開いた。
「王が寵姫を家臣へ下賜した例がございます。」
王の顔が明るくなる。
「ほう!」
ベルナールも身を乗り出した。
「参考になるかもしれません。」
ところがマティアスは平然と続きを読んだ。
「その結果、王子が反乱を起こし、王朝は八年後に滅亡しました。」
会議室が静まり返る。
王は静かに言った。
「……次。」
「次の前例がございます。」
二冊目が開かれる。
「五百十一年前、西方諸侯連盟において、王妃ではありませんが、公爵夫人を褒美として要求した騎士がおりました。」
「どうなった。」
「騎士は決闘で死亡しました。」
「参考にならぬ。」
「では、その後の政治的影響を。」
「結構。」
王は少し不機嫌になっている。
マティアスは残念そうに本を閉じた。
しかし、すぐに三冊目を取り出す。
「七百年前にも前例がございます。」
ベルナールが頭を抱えた。
「まだあるのですか。」
「歴史とは豊かなものです。」
「豊かすぎます。」
「この事例では、王が約束を破りました。」
王は目を輝かせた。
「それだ。」
「その場では解決しました。」
「素晴らしい。」
「しかし二十年後、孫の代になって『約束を破る王家』という評判が広まり、王位継承戦争が勃発しました。」
王は静かに椅子へ座り直した。
「……次。」
リオは必死に記録を取っていた。
『前例一、王朝滅亡。前例二、騎士死亡。前例三、内戦。』
書き終えてから、前例とは人を安心させるためにあるものではないのか、と首をかしげた。
一方、バルツは感心したようにマティアスを見ていた。
「昔から皆さん苦労していたのですね。」
「その通りです。」
マティアスは誇らしげに胸を張った。
「歴史は繰り返します。」
ベルナールが小声でつぶやく。
「今回は繰り返さなくてよい。」
すると、今度は大神官オルドが静かに立ち上がった。
「歴史だけでは結論は出ません。」
「嫌な予感しかしない。」
王が漏らす。
「神の御心に照らせば、この問題は婚姻の問題であります。」
オルドは分厚い聖典を机へ置いた。
その厚さは、マティアスの年代記に負けていなかった。
ベルナールが思わず尋ねる。
「まさか、その聖典にも前例が。」
「ございます。」
王は両手で顔を覆った。
「歴史にもあり、宗教にもあるのか。」
「神は人間より長く世界をご覧になっております。」
「余は短い例だけ聞きたい。」
オルドはゆっくり聖典を開いた。
「まず創世の書から説明いたします。」
ベルナールは時計代わりの砂時計を見た。
砂は、まだ一粒も落ちきっていなかった。
大神官オルドは静かに聖典を閉じた。
「結論から申し上げます。」
王は椅子に座りなおした。
創世から説かれる覚悟をしていたからである。
「教義では、婚姻は神前の誓約であります。」
「それは昨日も聞いた。」
「ゆえに、人が勝手に授受できるものではありません。つまり、后は与えられません。」
王は安堵の息を漏らした。
「ただし。」
会議室の空気が再び重くなる。
「陛下が神前の誓約を解かれるなら話は別です。」
王は勢いよく立ち上がった。
「余が妻と離縁せよと言うのか。」
「教義では可能性を申し上げたまでです。」
「可能でも駄目だ。」
ベルナールもうなずいた。
「政治的にも不可能です。」
「ならば結論は出たではないか。」
王が笑顔を見せた、その瞬間だった。
オルドは静かに首を振る。
「まだ教義上の問題が残っております。」
「まだあるのか。」
「陛下は神の御前で誓われました。」
「誓っておらぬ。」
「『余は約束を守る王である』と、公衆の前で宣言なさいました。」
王は固まった。
「神は、王の言葉も見ておられます。」
ベルナールが机に額をつける。
「結局、約束を守れという話ではありませんか。」
「その通りです。」
「昨日と同じ場所へ戻った……。」
リオは記録板を見た。
政治は約束を守れと言い、法律も約束を守れと言い、宗教も約束を守れと言っている。
違う言葉で、同じことを書いているだけだった。
そこへ、バルツが遠慮がちに手を挙げた。
「あの。」
全員が振り向く。
「何だ。」
王が疲れ切った声で尋ねる。
「そんなに難しい話だったんですね。」
部屋が静まり返る。
バルツは続けた。
「自分は、好きだからお願いしただけでした。」
「それは全員知っておる。」
ベルナールは深く息を吐いた。
「将軍。」
「はい。」
「その理由以外はありませんか。」
「ありません。」
「政治的意図は。」
「ありません。」
「王位継承権は。」
「要りません。」
「派閥形成は。」
「興味ありません。」
「外国との関係は。」
「考えたことありません。」
「……そうですか。」
ベルナールは椅子にもたれた。
問題が複雑なのは政治でも宗教でもなかった。
相手が、どこまでも単純だったのである。
その単純さを覆す理屈を、誰も持っていなかった。
王はゆっくり立ち上がった。
「本日の会議を終える。」
誰も異議を唱えなかった。
政治は堂々巡り。
法律も堂々巡り。
歴史は滅亡ばかり。
宗教は約束を守れと言う。
それぞれが自分の専門分野では正しかった。
しかし、それらを合わせても答えは一つも生まれなかった。
会議室を出ようとしたそのとき、扉が開いた。
近衛隊長が敬礼する。
「失礼いたします。」
「何事だ。」
「各国の使節が、今回の件について正式な説明を求めております。」
王はその場で固まった。
ベルナールは静かに目を閉じる。
「……外交問題になりましたか。」
近衛隊長は無言でうなずいた。
王は天井を見上げた。
「余としたことが……。」
その一言だけが、静かな会議室に響いた。




