第二章 約束は王を縛るか
夕刻、王宮の小会議室には、王国でもっとも頭のよい者たちが集められていた。
少なくとも、本人たちはそう思っていた。
中央の長机には、王アルベルト三世、宰相ベルナール、法務卿セドリック、王室歴史官マティアス、大神官オルドが座っている。末席では、書記官リオが記録板を膝に載せ、緊張した面持ちで筆を構えていた。
バルツは机から少し離れたところに立っていた。
戦場で敵軍三十万と対峙した男だったが、いま目の前にいるのは五人だけだ。
にもかかわらず、室内の空気は戦場よりも重かった。
王妃エレオノーラは出席していなかった。
王が出席させなかったのである。
理由を問われた王は、「まだ会議の形が整っておらぬ」と答えたが、実際には妻の前で自分の失言を詳細に検討されたくなかっただけだった。
アルベルト三世は咳払いをした。
「では、始める」
誰も返事をしなかった。
始めれば、あの問題を正式に扱わなくてはならない。
王はもう一度咳払いした。
「ベルナール」
「はい、陛下」
「まず問題を整理せよ」
ベルナールは待っていましたと言わんばかりに一枚の紙を広げた。
「まず問題を整理しましょう」
その言葉を聞いた王は、少し安心した。
長年、ベルナールがそう言った後には、多くの難題がいくらか小さくなってきたからである。
「第一に、陛下は公開の場で、バルツ将軍に対して『望みは何でも申せ』と宣言されました」
「その部分は省いてもよい」
「省けません」
「そうか」
「第二に、将軍は王妃陛下を恩賞として要求しました」
バルツがうなずいた。
「はい」
「第三に、その要求を拒絶した場合、陛下は公衆の面前で交わした約束を破ったことになります」
王の眉間にしわが寄った。
「言い方が厳しくないか」
「事実を柔らかくしても、事実そのものは柔らかくなりません」
「では第四は何だ」
「第四に、要求を受け入れることはできません」
王は身を乗り出した。
「それでよいではないか」
「しかし第三が残ります」
王は椅子へ戻った。
何も小さくなっていなかった。
むしろ、問題が番号を与えられて整列しただけだった。
ベルナールは続けた。
「政治的に考えれば、もっとも重大なのは陛下の信用です」
「余の信用?」
「はい。王が公に与えた恩賞を、後から都合が悪いという理由で撤回すれば、臣下は今後、王の言葉を信じなくなります」
「妻を求められても守らねばならぬのか」
「だから困っております」
「そもそも余は、妻を求められるとは思っていなかった」
「通常は思いません」
ベルナールはバルツを見た。
「将軍以外は」
「ですが、自分はお后様が好きなのです」
「その点はすでに承知しております」
リオは記録板に、将軍、王妃を好きである旨を再確認、と書いた。
王が机を指で叩いた。
「では、恩賞の範囲を常識的に解釈すればよい。黄金、領地、爵位。そのようなものに限る、と」
「それを決めるのは法務卿です」
全員の視線がセドリックへ向いた。
法務卿は机の上に分厚い法典を三冊積んでいた。
会議が始まってから一度も発言していなかったのは、黙って考えていたからではない。どの法典から読み始めるべきか迷っていたのである。
セドリックは一冊目を開いた。
「条文に照らしますと、問題は極めて複雑です」
王は頭を抱えた。
「単純だと言う者は一人もおらぬのか」
リオが恐る恐る手を挙げた。
「失礼ながら、普通にお断りしては駄目なのですか」
室内の全員がリオを見た。
「馬鹿者」
王と宰相と法務卿がほぼ同時に言った。
リオは小さくなった。
バルツだけが隣でうなずいた。
「自分も、断られるなら断られるで仕方ないと思っています」
王が目を見開いた。
「そうなのか」
「はい」
「では、断る」
「ただし、陛下が約束を破ることにはなります」
ベルナールが即座に付け加えた。
王は再び椅子へ沈んだ。
「なぜ余は、この会議を開いたのだ」
「それを決めるためです」
「何も決まっておらぬ」
「まだ始まったばかりです」
セドリックが法典の一節を指でなぞった。
「王国恩賞令第三条には、『国王は功績に応じ、財貨、土地、官位その他の恩賞を与える』とあります」
王が顔を上げた。
「ほら見よ。王妃は財貨でも土地でも官位でもない」
「しかし、『その他の恩賞』に含まれる可能性があります」
「含めるな」
「法文上、除外はされておりません」
「なぜ除外しておかなかった」
「制定当時、そのような要求をする者がいるとは想定されていなかったのでしょう」
全員がバルツを見た。
バルツは困ったように首をかしげた。
「ですが、自分はお后様が好きなのです」
セドリックは二冊目の法典を開いた。
「次に王命法です。国王が公に宣言した命令は、原則として撤回できません」
「原則として、ということは例外があるのだな」
王の声に希望が戻った。
「はい。国家存亡に関わる場合、公序良俗に反する場合、または命令の実行が物理的に不可能な場合です」
ベルナールが考え込んだ。
「王妃を将軍へ与えることは、国家存亡に関わるでしょうか」
「王位継承に影響すれば可能性はあります」
「余には王太子がおる」
「では、直ちに国家存亡とは言い難いです」
「公序良俗には反するだろう」
「何をもって公序良俗とするか、定義が必要です」
「妻を家臣に与えることだ!」
「しかし、王妃陛下は陛下の所有物ではありません」
部屋が静かになった。
王は口を開きかけ、閉じた。
ベルナールも黙った。
リオは記録板へ筆を置くべきか迷った。
バルツだけが素直にうなずいた。
「それはそうですね」
王はセドリックをにらんだ。
「では最初から、与えられぬではないか」
「その場合、問題は『王妃を与える約束』ではなく、『実行不能な恩賞を選ばせた王の責任』へ移ります」
「移すな」
「すでに移っております」
王は両手で顔を覆った。
ベルナールが紙へ新しい項目を書き加えた。
第五、王妃は恩賞の対象になり得るか。
第六、実行不能な恩賞を申し出た責任は誰にあるか。
第七、国王の公的発言はどこまで国王本人を拘束するか。
会議を始める前よりも、問題は四つ増えていた。
「陛下」
セドリックが三冊目の法典を開いた。
「まだございます」
「まだあるのか」
「婚姻法です」
大神官オルドが初めて顔を上げた。
「教義では、婚姻は神前の誓約であります」
王はオルドを見た。
「待て。今日は政治と法の話だけではなかったのか」
「法が婚姻を扱う以上、教義を避けることはできません」
オルドは厳かに両手を組んだ。
「神の御心に照らせば、この問題は王の失言だけでは済みません」
王の顔が引きつった。
ベルナールは新しい紙を取り出した。
リオは予備の墨壺を机の上に置いた。
そしてマティアスは、誰にも求められていないのに、膝の上へ古い年代記を載せた。
「前例がございます」
王は天井を仰いだ。
「明日にせよ」
「しかし陛下」
「明日だ。今日はこれ以上、問題を増やしてはならぬ」
会議は散会となった。
ただし、問題は一つも解決していなかった。
それどころか翌日には、法より古く、政治より面倒なもの――歴史と宗教が、会議へ持ち込まれることになった。




