第一章 望みは何でも申せ
王都の城壁が見えたとき、将軍ガルド・バルツの軍勢は、出陣時の三分の一に減っていた。
それでも、誰一人として敗残兵の顔はしていなかった。
先頭を進むバルツの背後には、奪い返した王国旗が七本、敵国の軍旗が二十三本、捕虜となった敵の大将が四人、そして敵の王冠が一つ並んでいた。
王冠を載せた荷車だけは、街道の穴にはまるたびに傾いた。そのたびに兵士が慌てて押さえた。国を滅ぼしかけた敵の冠も、荷車の整備不足には勝てなかった。
三か月前、王国は滅亡寸前だった。
東西二国の連合軍は国境の三つの砦を落とし、王都まであと二日の地点に迫っていた。主力軍は壊滅し、王太子は捕虜にされ、国庫には兵士へ払う給金すら残っていなかった。
その状況でバルツは、残兵五千を率いて出陣した。
そして一夜で敵の補給所を焼き、翌朝には敵軍同士を同士討ちさせ、その日の夕方には王太子を救出した。三日後には敵の大将二人を捕らえ、七日後には連合軍を国境の外まで追い返し、さらに勢い余って敵国の都にまで進撃した。
宰相ベルナールは報告書を三度読み返し、最後には「勢い余って、で都まで落とされては困る」と呟いた。
しかし国民にとって、細かいことは問題ではなかった。
王国は救われた。
王都の大通りには花びらが降り、窓という窓から人々が身を乗り出した。
「救国の英雄、バルツ将軍!」
「万歳!」
歓声を浴びながら、ガルド・バルツは馬上で背筋を伸ばしていた。堂々たる姿だったが、兜の飾り羽には、先ほど投げ込まれた花輪が引っかかっていた。
本人は気づいていなかった。
城門の上から凱旋を見守っていたアルベルト三世は、何度もうなずいた。
「見よ、ベルナール。あれこそ忠臣である」
「左様でございます、陛下」
「余はよい家臣を持った」
「左様でございます」
「そして、よい家臣を見抜いた余もまた、よい王である」
ベルナールは少し間を置いた。
「その評価は、後世の歴史官に委ねるべきかと」
「今ここで褒めてもよいではないか」
王の隣では、王妃エレオノーラが静かに扇を広げていた。
「ご機嫌ですね」
「当然である。国は救われたのだ。今日ほど王として誇らしい日はない」
エレオノーラは大通りを進むバルツを眺めた。
「そうですね」
短い返答だった。だが王は上機嫌だったため、その淡白さを気にしなかった。
凱旋式は王宮前広場で執り行われた。
玉座の前にひざまずいたバルツへ、王が剣を差し出す。広場を埋めた貴族、将兵、市民が息をのんだ。
王は、この日のために三日かけて考えた演説を始めた。
「ガルド・バルツ。そなたは寡兵をもって大軍を破り、王太子を救い、失われた領土を取り戻し、敵を屈服させた。そなたの働きがなければ、今日、この王国は存在しなかったであろう」
「恐れ入ります」
「そなたの忠勇は、黄金にも領地にも代えがたい」
バルツは神妙に頭を下げていた。
王は聴衆を見渡した。
皆が自分を見ている。
国を救った英雄へ、王がどれほど寛大な恩賞を与えるのか。外国の使節も、貴族たちも、市民たちも注目している。
ここで惜しむような態度を見せてはならない。
アルベルト三世の胸に、王としての責任感と、少々の見栄が同時に湧き上がった。
宰相ベルナールは、王の顔を見て嫌な予感を覚えた。
それは長年の経験から来る予感だった。
アルベルト三世は、気分が高揚すると言葉が大きくなる。
「陛下」
ベルナールが小声で呼びかけた。
王には聞こえなかった。
「よって余は、そなたの望むものを恩賞として与える!」
広場が沸いた。
ベルナールは額を押さえた。
王はさらに片手を広げた。
「黄金でも、領地でも、爵位でもよい。望みは何でも申せ!」
歓声が一段と大きくなった。
王は満足そうにうなずいた。
完璧な演説だった、と本人は思った。
バルツは顔を上げた。
「本当に、何でもよろしいのですか」
「無論である!」
ベルナールが一歩前へ出た。
「陛下、ここは『余に可能な限り』などの文言を――」
「ベルナール。英雄の前で王の言葉を狭めるでない」
「しかし陛下」
「余は約束を守る王である」
その言葉に、再び歓声が上がった。
王は得意げに胸を張った。
バルツはしばらく考え込んだ。
黄金には興味がなかった。領地はすでに持っていた。爵位も、今回の戦功で上がるだろう。名馬は戦場で何頭も手に入れた。敵の王冠も、王国へ献上済みである。
やがて、バルツは迷いのない顔で言った。
「では、お后様をください」
歓声が止んだ。
あまりにも一斉に止まったため、広場の端で誰かが落とした杯の音がよく響いた。
王は笑顔を保ったまま、まばたきをした。
「……何を?」
「お后様をください」
バルツは聞こえなかったのだと思い、今度は少し大きな声で繰り返した。
広場にいた者たちは全員、最初から聞こえていた。
王はゆっくりと隣を見た。
エレオノーラは扇を広げたまま、静かにバルツを見下ろしていた。
ベルナールは目を閉じていた。おそらく、いま目を開けなければ、この出来事は存在しなかったことになるんじゃないかと期待していた。
若い書記官リオは、持っていた記録板へ忠実に書き込んだ。
――将軍、恩賞として王妃を要求。
書いてから、これは公式記録に残してよいのだろうかと不安になった。
王はようやく口を開いた。
「バルツ」
「はい」
「そなたは、余の妻を欲しいと申しておるのか」
「はい」
「なぜだ」
「好きだからです」
あまりにも簡潔だった。
王は次の言葉を失った。
ベルナールが恐る恐る目を開ける。
エレオノーラだけが、表情を変えなかった。
「そうでしたか」
「はい。自分はお后様をお慕いしているのです」
バルツは、戦場で敵将へ降伏を迫るときと同じ真剣な顔をしていた。
王は玉座の肘掛けを握った。
断ればよい。
妻は渡さぬ、と一言命じればよい。
しかし、ほんの数十秒前に自分は、全国民と外国使節の前で宣言した。
望みは何でも申せ。
余は約束を守る王である。
王の口元が引きつった。
「余としたことが……」
ベルナールが一歩進み出た。
「陛下。まず問題を整理しましょう」
「整理すれば何とかなるのか」
「分かりません」
即答だった。
王は広場を見渡した。
数千人が黙って成り行きを見守っていた。誰一人として帰ろうとしなかった。
「本日の凱旋式は、これまでとする!」
王が宣言すると、儀礼官たちが慌てて動き出した。
「ベルナール」
「はっ」
「法務卿、王室歴史官、大神官を呼べ。軍務を預かる者もだ」
「御意」
「それから、この件は他言無用である」
ベルナールは、広場を埋める群衆を見た。
「すでに王都全体が聞いております」
王も広場を見た。
「……では、これ以上は他言無用である」
こうして王国を救った英雄の凱旋式は終わった。
そしてその日の夕刻、王宮では、王国史上最も重大で、最も馬鹿げた宮廷会議が招集されることになった。




