出会い その2
そのまま数秒間固まって、わたしは我に返った。
「それ、手当しないと」
立ち上がって、男の子に手を伸ばすと、ずず、と男の子が後ろに下がった。
顎を引いて、警戒するようにわたしと差し出した手を見て、また下がる。
怖がっているように見えた。
「早く手当てしないと、その傷」
伸ばした手はそのまま、ゆっくり言ってみる。
「痛い、でしょ?」
見ただけでわかる。すごく痛そうだ。でも、もしかして言葉が通じていないのかもしれない。外国から来たのかも。通じているのかいないのか、男の子はまたせき込んでからわたしの顔をじっと見て、また手に視線を落とした。触られるのが嫌なのかも。そういえばさっきは背中をさんざん叩いた。
「ねえ、言葉、通じてる? わたしの言ってること、わかる?」
そう聞いてみると、こくりと頷いた。わかってはいるのか。
「じゃあ、行こう。歩ける? うちはこっちだよ」
触られたくないなら仕方ないと思って先に立って歩きだしてみたけど、ついてくる気配がない。振り向くと、男の子は両手をついて立ち上がろうとしていたけれど、力が入らずに立てないようだった。溺れて死にかけたあとだから無理もない。
ゆっくり近づいて、もう一度手を伸ばした。
「手」
またわたしの顔と手の間で視線を行き来させている。
どうしたらいいのかな。
考えるのがちょっと面倒になってきたわたしは後ずさる機会を与えずに地面についていた男の子の左手をつかんでぐいと引き上げて、そのまま肩に乗せた。
「行くよ」
そう言って肩に乗せた手をしっかりとつかみ直すと、男の子がほっと息を吐いてからくっと体に力を入れたのがわかった。
「ゆっくりでいいから」
一歩ずつ、坂道を進んで行く。
やっと祖母のサンルームの前にたどりついた時は、男の子は疲れ切ってまた半分死んだようになっていて、わたしもすっかり息が上がっていた。途中にはそれなりに急な階段もある。慣れた坂道とはいえ、けして侮ってはいけないことがよくわかった。なにしろ途中からは自分の体重の半分以上ある荷物を担いで登ったようなものなのだ。膝ががくがくしている。
上り口のコンクリートに座り込んでドアに身体を預け、しばし荒い息を吐く。
次は、海水を落とさなければならない。このままお風呂場まで連れて行くか、ここで水をかぶって落とすか。わたしはいつも庭で海水を落としてから家の中に入るけど、お風呂まで連れて行った方があとが楽かもしれない。
わたしは立ち上がり、もう一度手を伸ばした。
「中に入ろう。お風呂で洗ってから、怪我を見せて」
男の子がぎくりと体を硬くしたのがわかった。ゆっくりと半分顔をあげて、小さく横に首を振る。
「まず、海水を落とさないと」
さっきより少し強く、男の子が首を振った。
「洗うのが嫌なの? でも、塩を落とさないと」
男の子はもう少し顔をあげて、ちら、とサンルームの方を見てから、また首を振った。
「……中に入りたくないの?」
今度は首を振らなかったから、どうやら入りたくないらしい。
「じゃあ、ここで洗う? うちの水道、湧き水を使ってるから冷たいよ?」
男の子が頷いたので、サンルームの外にある蛇口につないであるホースのノズルをシャワーにして、水圧が強すぎないように調節して水を出す。海水を落とし終わるまでは我慢してもらうしかない。足の先から水をかけて慣らしていって、あとは頭からかけて塩が残らないように流す。きれいにすすごうと思って髪の毛に触ったら、男の子は身体をびくりとさせた。
「ごめん。頭にも怪我してる? ちゃんとすすいだほうがいいから」
小さく横に首を振っただけで返事はなかった。俯いたままの男の子の髪の毛をそっとすすぐ。
「顔も流すから、上向いて?」
男の子が体を硬くしたのがわかった。顔の傷を見せたくないのかもしれないと思ったけれど、ここは譲れない。
「手当てするのに困るから。ほら」
そう促してみたけど、頑なに下を向いたままだ。
うん。面倒くさい。
「じゃあ、下からかけるよ? そうだ、どうせならみんな洗っちゃおう。そのシーツみたいな服も脱いでくれる? 他に怪我していないかどうかもわかるし。あと、首のチョーカーも、外して」
首の黒い輪っかを指さして言うと、意味はちゃんと通じているらしいのに、男の子は首をフルフルと振って、肩から下がっている布をぎゅっと握った。
脱いでって言ったんだけど。
わたしだって女の子なんだから相手が小さいとはいえ、弟でもない男の子にそんなこと、普通は言ったりしない。怪我の手当てのためなんだから、協力して欲しい。でも、指の関節が白くなるほど布を握りしめて俯いているところから見ると、どうあっても脱いでくれないように見えた。
わたしは、はあ、と息をついてから言った。
「じゃあ、そのままでいいけど、海水ができるだけ落ちるように、水を強くするから痛いよ? それでもいい?」
全部脱いで一気に水をかけたほうが楽なんだけど、と、言ったつもりだったけど、男の子は頷いた。
かなり面倒くさくなってきたわたしは、男の子が身に着けた布ごと洗ってしまえるように、シャワーの水量を上げてジャバジャバ水をかけることにした。
水は冷たいし水圧のせいで痛かったのだろう、男の子が身を固くして、ぐっ、と声をあげたのがわかったけど、正直、疲れたし、眠いし、さっさと終わらせたかったのでじゃんじゃん洗った。
全部すすいで水を止めて、バスタオルを持ってきて頭からかぶせ、服の上からガシガシ拭く。首を拭いている手が硬いものに当たって、よく見れば、チョーカーだと思っていたものは布ではなく、固い金属製。
まるで首輪みたいで、胸もとまで鎖が垂れている。こんなものをつけているなんてすごく……なんだっけ、こういう金属のアクセサリーをつけている人たち……ストイック? それとも親が実はロックスターとか? かなり整った顔をしていたから、親が芸能人とか、ありえるかも。そんなことを思いながら顔と背中の傷口以外は遠慮なくどんどん拭いていった。それにしてもずいぶんされるがままになっているなあ、と思ってよく見れば、男の子はよっぽど疲れていたのだろう。戸口のコンクリートに座ったままでほぼ眠っていた。
この隙を逃さず、上を向かせて祖母のキャビネットから持ってきた洗浄液で顔の傷を洗い直す。うちの蛇口から出る水は山の湧き水をろ過して利用しているので、汚れているわけではないし飲めるけれど、殺菌消毒した水とは違うから、怪我をした部分を洗う時はちゃんと購入した水を使うことにしているのだ。
きれいにした後で祖母特製の軟膏を顔に塗りつける。月光の下に痛々しく赤黒い傷跡は今日の怪我ではなかったらしく、固くなっているところがある。それでもとりあえず、全体に塗って、ガーゼを当ててネットをかぶせ、包帯で巻く。できの悪いミイラみたいになったけど、固定できたからまあいいことにした。
次は背中だ。このまま外で手当てってわけにはいかないし、せめてサンルームの長椅子に移動して欲しい。
「移動するよ! 立って!」
半分眠っている状態なら、いけるかもしれない。大声で言ってみると、はたして男の子は素直に従った。
もう一度肩を貸して歩きだす。
「右足! 左足! 歩いて! 座って!」
長椅子まで連れて行く。寝ぼけているせいか、簡単に従ってくれた。さっき洗われていた時よりずっと素直で楽だ。
「はい、うつぶせ! おやすみ!」
長椅子に背中を上にして横たわらせるのも、とても簡単だった。顔の怪我をした側を上にして横を向け、からだはうつぶせだ。おやすみ、の号令とともに体から一気に力が抜けたのがわかった。背中も洗浄液ですすいで軟膏を塗る。深い傷だったらしく、血が完全には止まっていなかった。
海ではホラーな展開だと思って思い切り蹴ったりして悪かったな、と反省しながら滅菌パットで蓋をする。背中をバンバンたたいたときも、きっとものすごく痛かったはずだ。……たぶん死にかけていたのに生き返ってしまうくらいに。本当に申し訳ないけれど、この手当で水に流してくれないかな。
海岸で引きずったときに腿やふくらはぎについたすり傷にも、うすく軟膏を塗っておいた。ジネさんの薬はよく効くから、こっちはすぐに治ると思う。
新しいバスタオルを背中にかけておく。
戸締りを確認して、わたしもシャワーを浴びて着替えた。どっと疲れがおそってきて、すぐにも眠ってしまえそうだったけれど、一度様子を見にサンルームに戻った。男の子はさっきと全く変わらない体勢で眠っている。
長椅子の隣にしゃがんでそっと手を伸ばし、額の包帯に巻かれていない部分に触った。熱は出ていない。大丈夫みたい。
手を引っ込めようとしたとたん。
がっ!!
またしてもおもいきりつかまれて、身体がびくりと震えた。
びっくりしたけれど、相手はお化けじゃないってわかっているから今度は慌てない。ゆっくり引き抜こうとしてみたけれどますます強くつかまれて離してくれない。起きている気配はないのに、少しずつわたしの手を引っぱっている。自分の方に近づけていこうとしていることに気づいた。
さみしいのかも。うん。……考えてみれば、こんな小さいのに、死にかけて、ひどい怪我をして家族もいなくて。心細いよね。
わたしは自分の右手を預けたまま、反対の手でそっと包帯を巻いた頭を撫でてやった。
「……だいじょうぶ。だいじょうぶ。ちゃんと元気になるからね~」
きゅっとわたしの手を腕ごと抱え込むように胸に寄せて、男の子は静かに寝息を立てる。なんだか腕を引き抜いたらいけないような気がして、わたしはその場にぺたりとお尻をつけて座り、長椅子の上、男の子の顔の隣に頭を乗せた。
アンジェ視点、ここでいったん切ります。
次は男の子の方の視点で。