トゥーマ プロローグ & 暗闇からの脱出
空が好きだった。
どこまでも高く続く空。
全てを包む空。
やわらかく温かいく木々をなで、
氷のように命に吹き付ける風。
月を抱き太陽を昇らせ、星を散らし時にそのすべてを雲で覆う。
風を受けて飛び立つ。遥かな高みを目指して。
天高く舞い上がれば、どこへでも行ける。何にだってなれた。
暗闇からの脱出
背中が酷く痛む。頭が、首が重い。目を開けても何も見えない。
苦しい、臭い。それにひどくうるさい。轟轟と音をたて、風の唸り声がする。地響きのような振動もある。
そっと伸ばした手が、硬くて冷たい金属の棒に触れた。
ああ、檻だ。
体を起こそうとして力が入らず、諦めた。
最後の記憶は、頭と手足を押さえつける手、鎖の音と背中に走る鋭い痛み。
あれから何があったのかわからないけれど、あいかわらずの檻の中だ。
目を閉じてみた。以前は決して消えることのなかった光は、もうちらとも浮かばない。
ため息をついて目を開ける。もう一度閉じた時、激しく床が揺れ、体が浮いた。金属がぶつかり合う大きな音が何度かして、身体がおもいきり格子に叩きつけられた。
身構えることもできなかったから、衝撃に息がつまった。いまの衝撃で死んでしまえたらよかったのに。床はぐらぐらと揺れ続ける、何が起こっているのかわからず目を開けると、ぶつかった衝撃で大きくひしゃげた檻の格子扉に隙間ができているのが見えた。
その奥には四角い扉がある、その扉が開いていて、奥から微かな赤い光とともに水が入ってきていた。このままこの部屋は水で埋まるのかもしれない。そうなったら死ねるか――そう思った時、扉が下になり、水の勢いが弱まった。逆さまに浮いたコップのようになって、ここには空気の逃げ場がほぼないらしい。
死ねないのか。両手をついて体を起こすとジャラと音がして首から鎖が垂れ下がった。
檻に接合されていた鎖が胸の下でちぎれていた。さっき大きな音がした時に檻と床か壁のどこかに挟まれてねじり切れたのかもしれない。自分の首がちぎれていなかったことを感謝する気持ちにはなれなかった。むしろ、ちぎれていれば死ねたのに、と思う。
格子扉の隙間は狭くて通れそうになかった。けれど、赤い光に呼ばれるように、精一杯ねじるように身を縮めて無理やり檻から抜け出した。
次に息を止め、水に潜る。首につけられた鉄の輪が重いせいで、するりと頭から足もとの扉を抜けることができた。
重い身体で水を蹴り、何とか頭を海面に出してみれば、暮れ行く薄闇の中に、ごうごうと音をたてて水を吸い上げる灰色の水柱と、腹を上にして転覆している船が見えた。閉じ込められていた小部屋は船の船倉で、さっきの衝撃はこの水柱に吸い上げられそうになったことが原因だったらしい。転覆した船の向こう側から人の声がしたような気がしてどきりとした。時間の感覚もわからないあの空間からやっと抜け出したのに、再び捕まりたくはなかった。
ふと、誰かに呼ばれたような気がして慌てて振り向くと、人ではなくて、そこには島が見えた。かなりの距離があるけれど、あそこまで泳いでいけるだろうか? ――無理だ。頭を水面に出しておくだけで精一杯だし、首につけられた鉄の輪と鎖はどんどん重さを増しているようにさえ感じられる。きっとたどりつけない。
それでもこの転覆した船につかまるわけにはいかなかった。その向こうにいるらしい人間にみつかるのはもっとまずい。生きて助けられたりしたら、最悪だ。捕まるくらいなら死んだほうがましで、岸まで泳ぐこともできそうにない。ここで死んだほうがいい。どうせ、死ぬことになるなら――溺れても、人につかまっても、灰色の水柱に吸い上げられても――それならこの水柱に任せるのがいいかもしれない。
この大きな水の流れに乗れば、もういちど空を飛べるかも。
最後の力を振り絞って、ものすごい音とともに全てを吸い上げている水柱に向かって泳いだ。
首の鉄の輪などものともしない、強力な吸引力と浮力に身体が引きつけられて浮きあがる。自分が空に向かっていく。これで、やっと終わる。ほっと息を吐くと力を抜いて、意識を手放した。
身体は冷たいのに、ほんわりと、どこかが温かいような気がする。温かくて、安心で、幸せな――きっと天国はこの先だ。今度こそ間違いなく先に進まないと。
安らぎを与えてくれるその温かいものに向かって、手を伸ばすと、はたしてその何かはつかむことができた。やわらかい。つかんだところから一気に身体が温かくなってくるのがわかった。何年振りかに感じる幸せの感情。それなのにそのやわらかくて温かいものは暴れ、つかんだ手が引きはがされそうになる。手に力をこめると、その何かに引っ張られて、身体が流されるのを感じた。身体が沈んでいくような感じがした。重い。
今度はつかんだ手を叩かれた。けれど、ここでこの手を離したら、天国に行けなくなる。必死に力をこめると、肩口が何かに押された。誰かに押さえつけられた記憶がよみがえり、身体がすくんだとき、いきなり強い力で肩を押された――耐えきれず、温かいものは手を離れてしまった。取り戻すだけの力はない。
もうダメだ。
次に襲ってきたのは痛みと熱だった。忘れていた痛みの感覚が蘇っている。背中が燃えるようだ。
「死なないで」
「死んじゃだめ」
そんな声が聞こえた――久しぶりに聞いた、意味を成す言葉だった。けれど、この痛みを与えているのはそう言っている本人のようだ。死を望んでいないならどうか叩くのをやめて欲しい。そう伝えたかったけれど、声が出ない。体も動かない。
バシバシ叩かれて、とにかく痛い。右の肩甲骨周辺を思い切り叩かれた時、痛みが限界を超え、体が勝手に動いた。相手を蹴り飛ばし、そのまま倒れ込む。
動きだした体が呼吸を、空気を求める。開いた口は空気を吸わず、代わりにどっと塩辛い水を吐きだした。どれだけの海水を飲んだのか、大量だ。ゲホゲホとせき込みながら、水を吐きだして空気を吸う。
どうにか息ができるようになると、自分はまたしても天国に行きそびれたらしいことがわかった。
「××、××××××××――」
さっき蹴り飛ばした相手が話かけてきた――と思ったら、その声が不自然に止まった。
振り向いて見ると、そこには自分より少し小さいくらいの少女が座っていた。真っ黒い髪。月の光の下でも色が薄いとわかる瞳がじっとこっちを見たまま、硬直している。目を大きく見開いていることから、背中と、顔の傷に驚いたのだろうと思う。
かつては誰もが微笑みを浮かべ、美しいと称賛した顔の造作が今どうなっているのかはよくわかっていた。この子どもにとってはさぞ醜く恐ろしく見えているに違いない。俯いて見えないようにしようかとも思ったけれど、俯いたからといって傷が消えるわけでもない。
「××、手当てしないと」
我に返ると少女は立ち上がって、そう言って手を伸ばしてきた。
反射的に身を引いた。伸ばされた手が何をしてくるかわからないことは身に染みている。
子どもだし、悪人のようには見えないし、全てではないにしろ言葉もわかるからといって、信用していいとは限らない。体力が限界近くまでなくなっている今は特に気をつけないと。伸ばされた手がそれ以上近づいてこないことを確認したまま、さらに後ろに下がった。
「××手当てしないと、××傷」
言葉が緩やかになった。本心だろうか。
「痛い、でしょ?」
そう言った顔が痛みを耐えているかのように歪んだ。本気で心配しているように見えた。
「××、言葉、通じてる? ×××言ってること、わかる?」
質問の意味がわかったから、返事の代わりに頷いた。
「××、行こ。歩ける? ×××こっち××」
付いてこい。と言われたらしかった。こちらの意思に任せてくれるということのようで、どうやら本当に無理やりどうこうしようとは思っていないようだ。
行きたいとは思えない。けれどとりあえず今の自分にできることもない。それなら警戒は続けたうえで、ついて行くのもいいか――そう思って立ち上がろうとしたが、死にかけた身体には力が入らず、四つん這いのまま動けなくなってしまった。不甲斐ない。
女の子が戻ってきた。ゆっくりと手を伸ばしてくる。
「手」
手をとれ、という意味だと思う。でも、触るのにはためらいがあった。人間に触れると、感情が入ってくる。相手の思惑を知るには手っ取り早いし確実だけれど、ここまで体が弱っているときに相手の悪意にさらされるのはダメージが大きい。どうしたものかと思っていたら、突然手をつかまれ、引き上げられた。
次も男の子視点です。ありがとうございます(*^^*)




